やはり言葉か

人気のない場所で

12月下旬のある朝、私は次男と一緒に氷点下に凍てつく駅前に立っていました。周囲はまだ薄暗く、雪が断続的に降り続いています。乗っていた列車が立ち去り、微かに聞こえていたエンジンとジョイント音が消えると、一面無音の世界が広がります。

私たちが下車したのは「歌内」という無人駅で、北海道の宗谷本線にあります。この駅には1日に上下3本ずつしか列車が止まりません。私たちは宿泊していた音威子府から下りの始発に乗り、ここで下車した後、約30分後に上りで引き返します。同じ下り方面の列車に乗ろうと思えば3時間以上待つことになるからです。

こんなに寒くて暗い朝に私たちがここにいる理由、それは歌内駅で下車することでした。駅で下車すること自体がその駅に行く理由になるのでしょうか。

目的は駅で下車することです。その駅を基点にどこかへ向かうことではありません。ただその駅にいることです。京都駅や大阪駅のように駅自体が巨大で見どころが多くある、そんな駅の話ではありません。ここ歌内はほぼ誰にも利用されない駅です。そんな駅であっても、訪れる目的地になるのです。それはこの駅がある言葉によってカテゴライズされるからです。

一面一線の短いホームを降りると、貨物列車用の車掌車を利用した小さな駅舎があります。それ以外に人工物はほとんどありません。いくつかの看板、電柱、街灯、駅前の雪に覆われた道、その程度でしょうか。

歌内駅前

駅前の道を少し歩いてみます。数件の建物が見えますが、明かりは消えています。ここに人が住んでいるのかどうかは分かりません。もう少し先まで進んでみます。天塩川に橋が架かっています。しかし、薄暗くて雪の吹雪く氷点下の中、その橋へ向かうことはできませんでした。死の淵に向かうような感覚がしたからです。次男も無言で何かを考えているようです。

ぐるりと周りを見渡してみます。一面雪で覆われた平地が広がっています。おそらく雪の下は何かの畑か牧草地でしょう。先ほど見た数件の人気のない家以外建物はまったく見られません。黄色い巨大な除雪車が道を通り過ぎていきます。その時だけ、無音の原野に音が響きます。

もともと、この駅で下車することは次男が言いだしたことでした。次のダイヤ改正で廃駅になる前に下車してみたいというのが理由でした。全くもって変な理由です。しかしそのような奇妙なことを行っているのは私たちだけではありません。

この時間にこの歌内駅にいたのは私たち二人だけでしたが、この日、私たちと同じような行動をする多数の人々に出会いました。

先ほど触れたこのような駅のカテゴライズ、それは「秘境駅」です。この言葉が生まれたために、何もない駅を目指し、その駅に行くこと自体を目的とする人々が数多く現れました。

矛盾した状態を表す

20年ほど前、書店で「秘境駅へ行こう!」という本を発見し、すぐに購入して読みました。特定のマニアのものだった鉄道が市民権を得始めたころで、既存とは異なる鉄道趣味の黎明期だったと思います。

ネットの出現とともに、専門家以外の人々の文章も一般の人の目に届き始めた時代で、この本を書いた牛山隆信さんも鉄道好きの会社員でした。

この本は、駅でありながら人を寄せ付けない場所にありほとんど利用者がいない、そんな駅を訪問して紹介する内容でした。

秀逸であったのはそのような駅に「秘境駅」という名前を付けたことでした。私の知る限り、秘境駅とは牛山氏が作った概念で、彼はホームページも作成して秘境駅を紹介していきました。

それにしても何とも素晴らしいネーミングです。駅とは本来人が集まる結節点に作られるもの。駅が設置されて街が発展する、またはその逆もありますが、人に利用されることが前提なのが駅です。

そんな人が集まる場所としての駅も時代の流れの中、人を集める施設や集落が消滅することで人の集まらない場所になることもあります。牛山氏はそのような場所を秘境に例えました。

すこし大げさな表現ですが、我々の持つ賑やかな駅のイメージと、実際の利用者の少なさのギャップを喚起させる言葉であると思います。

そのネーミングが功を奏したのかは分かりませんが、秘境駅を訪問することはちょっとしたブームになっています。そのことは自治体も気づいているようで、幌延駅には「幌延町4秘境駅めぐり」というパンフレットが置いてありました。

今回訪問した「歌内」もそんな秘境駅の中の1つです。しかし次男が言うには、歌内は中途半端な秘境駅だから廃止されるということらしいのです。どういうことでしょう。

歌内駅前には、人が住んでいるのかどうかは分かりませんが数件の建物が建っています。しかし、秘境駅の中には本当に周りに何も駅以外の人工物が存在しないものもあるらしいのです。

室蘭本線の小幌駅はその代表で、下車しても民家はおろかどこかへつながる道すらありません。そういったパンチの効いた秘境駅は観光地として人気があり、それなりの人が訪問するようになっているのです。

現に、歌内の少し先にある「糠南」はそのような駅で、この日も乗降客が見られ、列車のマニアは一斉にこの駅の写真を撮っていました。糠南のホームは板張りの短いもので、待合室はプレハブの物置です。辺りは歌内以上に何もありません。

次回のダイヤ改正では歌内が廃駅となり、糠南が生き延びました。人の集まる要素の無いほうが人を集めるという矛盾の結果、この駅は命拾いをしたのです。

もう一つの例

今回の旅は大雪に見舞われ、予定を変更せざる得ないことが何度かありました。その中で最大のものは、宗谷本線が不通になり、豊富から旭川まで移動できなかったことでした。

次男はとっさに「バスに乗って留萌に抜けよう」と言いました。不通の連絡を知り数分後にその路線バスは豊富駅前に現れました。私たちは4時間のバス旅の後、留萌本線に乗ることに決めました。

豊富駅を発車してすぐ、交通センターの前でバスは停車し、運転手さんは私たちに向かって、止まっておくからセンター内で一日券を購入することを促しました。豊富から留萌まで乗り通すのならそちらの方が割安なのです。

私たちは運転手さんに感謝をして一日券を手にしました。そしてそのデザインに驚きました。

バスの一日券

「萌えっ子フリーきっぷ」の文字の下には、私の苦手なタイプの女の子の絵が描かれています。しかし、世の中の基準から言えば私のほうがマイノリティーで、多くの人々はこの手のキャラを支持していることは理解しています。

キャラの女の子の名前は「天羽みなと」と言います。沿線の主要な町である天塩町と羽幌町とを合わせた名前であることが容易に推測できます。

秘境駅と同様に、私はやはり言葉ってすごいなと感じました。私がこの一日券に対して言葉の力を感じるのは、「天羽みなと」の方ではなく「萌えっ子」という名前とキャラクターの組み合わせに対してです。

言葉が先にある

「萌えっ子」の萌は、このバスの目的地である留萌からきています。

日本でアニメを始めとするサブカルチャーが発展する中で、今まで用いられた「好き」とか「よい」では表現しきれない対象・概念が現れました。それらに対し一部の人々は「萌える」という動詞を使い始めました。その言葉は「萌え」という名詞や「萌え~」という感嘆詞を派生し、今ではすっかりと定着した言葉となりました。(理解しても人前では使わない人が多数ですが)

今や日本のサブカルチャーは日本だけのものではありません。フランスを始めとして大規模な展覧会が各地で開催されていますし、マンガやアニメがきっかけで日本語を学び、この国へやってくる人も多くいます。

そんな世界的な文化を代表する言葉と、地名である留萌の一文字は一致しました。だから「萌えっ子きっぷ」が生まれ「天羽みなと」のキャラが現れました。

他の北海道の多くの地名がそうであるように、留萌もアイヌ語に由来を持ち、漢字は音を表す当て字に過ぎません。しかし、その命名から百数十年後、偶然にもこの街が「萌」という文字を持っていたために上記のキャラが生まれ、おそらくそのキャラを目当てにこの地を訪れる人を生み出しています。

言葉とはこのような力を持っています。実際に人を動かすのです。

「秘境駅」でもそうです。もし牛山氏が「乗降客の少ない駅へ行こう!」とか「寂しい駅へ行こう!」いう本を出していたらいかがでしょうか。もう一つ力が足りません。当然、心に喚起されるイメージが全く異なったものになります。

駅としての役目をほぼ終え、寂しく色あせていく駅を「秘境駅」という絶妙な言葉で切り取ります。目の前の物理的な要素は一緒であっても、目に見える景色が変わってきます。

そして、その景色の変化は人々の価値観までも変化させます。「誰も利用しなければしないほうが魅力があり、そこへ行ってみたくなる」そのような価値の倒錯を生み出し、実際に人を動かします。

何よりこの日、歌内駅に立った私たち二人がそうでした。何もなく氷点下で雪が降る駅前で「すげー何もない、寒いー」と言いながらはしゃいでいるのです。外から見れば単なる何もない駅にいるだけなのに、「秘境駅に来た」という思いが喜びを与えるのです。

言葉があるから目の前に現実が生まれてくるのだと思います。言葉が人間の感情を動かし、その感情によって目の前に広がる世界のどの部分を注目するかが決まります。

単なる空気の振動であったり、網膜に入る光の濃淡である言葉が私たちの心を作り、肉体を動かします。そのことがまたフィードバックされ、新たな言葉の発見、感情の形成、行動の喚起へとつながっていきます。

今回の秘境駅と萌えっ子の体験を通じて、私は言葉の力を再確認することができました。そして、私の未来を作って行くのも私と言葉との関わりに大きく依存しているのだと思います。

具体的には私が「どういう言葉を聴き」「どういう言葉を読み」「どういう言葉を自分に投げかけるか」ということだと思います。

私の幸福感は、私の言葉の運用の先にあると思わせる体験でした。

ありがとう歌内駅

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。