情報流失
10月に入り企業の情報流出のニュースが続いている。私は職場も含めて新聞三紙に目を通しているが、そこに次々と現れる有名企業の名を目にして、何か根本的にパラダイムが変わる出来事が起こっているのではないかと震えを感じた。
とりわけ恐怖を感じたのは、証券会社の口座がハッキングされて不正売買が行われていたことである。盗んだ情報を利用して他人になることで利益を得るのではなく、財産そのものに直接手をつける行為であるからだ。
私は嫌な想像をした。私自身の証券口座が何者かにハッキングされて、身に覚えのない売買をされてポートフォリオがぐちゃぐちゃになっている様子である。
私は高配当株で安定した収益を得ることを目指して証券口座を育てている。まだまだ目標には程遠いが、1年半後に「えいやっ」と仕事を辞めて見切り発車のサイドFIREを始めようと計画している。
ローンを返した後の退職金と配当収入でなるべく長く遊びながら生活して、その間に思うように稼げなかったり貯金がなくなればまた働けばよいと思っている。
そういった私の思い描く未来が、ハッキングによって狂ってくる。早期退職まであと1年半になり、私はにわかに落ち着かなくなってきた。
情報流出のほとんどはAIが関わっていると報道されている。AIの進化により、今まで不可能であったことが次々と起こっている。そして、その進化のスピードの速さに目まいがしそうである。
これだけ周りの景色が目まぐるしく変わってくると、私は考えずにはいられないことがある。
「人間は何を目指してものを進化させるのであろう」
身の回りの単純な道具から、最新のAIまで、私たちはその性能を向上させることに血眼になっている。それは何を目指しているのだろうか。
より簡単に行うこと。つまり楽をすること。それにより、より利益を上げること。その行き先は「より良い気分になること」つまり「幸せになること」ではないのか。
テクノロジーによって人間は幸せになったのであろうか。人間といえば主語が大きすぎるので、「私」の幸せについて考えてみる。
疲れている私
私はテクノロジーによって疲れている。私が常に気にしなくてはならないもの、それは職場のパソコンとタブレット。個人所有のスマホやパソコンは自分のペースで見ることができるし、私はあえてそれらに没頭しないようにしている。
しかし、職場のそれはそうはいかない。保護者からの連絡、委員会や文科省からの通知、職員同士の共有情報、年末調整など事務的作業、役所からの指示、学校外の業者とのやりとり。私たちは、手元にある二つの端末を見ることなしに仕事を進めることができない。
最近では国のギガスクール構想もあり、生徒たちも一人一台タブレットを持つことが当たり前となった。親からすれば随分と高価な買い物である。であるから、私たち教師はその利用率を上げることが求められる。
端末で課題を受け取り、端末で提出する。授業ごとのチームスを作り、フォームスで答えを聞き出す。端末の使い方を覚えると同時に、授業で効果的に使わなくてはならない。さもないと授業に興味を持てない生徒は、すぐにタブレットで漫画やゲームを始めてしまう。
オールドファッションな私が、このようなテクノロジーと情報の海を見事に泳ぎきっているはずがない。なんとか格好つけようとしてあたふたする毎日である。
私が「どうして」と思うことは二つある。学校で学ぶために最新の情報端末が必要なのかということと、教えるためにこれほど多くの情報に関わる必要があるのかということ。
こういう問いを立てている時点で私は時代遅れな人間であるということがわかる。私はこのテクノロジーと情報の海で溺れかけている人間である。職場の情報端末が整備されればされるほど、受け取る情報も加速度的に増し、私は今それに疲れ果てている。
少し連絡箱を見ないうちに、委員会や文科省から「周知徹底すること」という通知が10も20も溜まっている。その「周知徹底」が仕事をする前提条件であるならば、私はそんな職場でまともに仕事をする自信がない。
70年代ぐらいか?
私にとって気持ちのよい時間、つまり幸せとはなんなのであろうか。思いつくままに書いてみる。
まずはSSS(スリーエス)のサウナ、相撲、酒。全国のサウナをまわり、立ち飲みで相撲を見ながら酒を味わう。乗り物でいうと幼少の頃から鉄道好き、自分で運転するならバイク。音楽に興味があり、うまくはないがギターを弾く。一生続けたいことが勉強。その中でも特に語学。英語は中学生から、イタリア語は20年以上独学。今は中断しているが台湾語と台湾華語、ヨーロッパのポルトガル語にも興味がある。一人で旅をするのが好き。ここ5年は農業が面白いと感じる。明石焼きに興味があり、趣味で自分の店を出したいと思う。
書き出してみると、このブログのカテゴリーそのままである。私はこれらを行い、そこから幸せを感じたくて生きているようだ。
話を冒頭の情報流出へ戻す。AIの進化により、私たちは利便性を享受すると同時に今までなかった心配事を抱えるようになった。人類の幸せの追求は人類を不幸にしている側面を併せ持つ。
私個人の幸せを考える時、現在、この2026年10月のようなテクノロジーの進化は必要ない。確かに語学を学ぶ上でAIは有効な手段となる。しかし、基本的にテキストと辞書と音源があれば外国語を学ぶことはできる。立ち飲みも相撲も、100年前にはすでにあった。
サウナは家庭用PCが登場するずっと前から存在した。ギターやエフェクターも、50年前のものの方がいい音を出す。鉄道の旅も昔の方が魅力ある列車が多かった。空冷エンジンでキャブ仕様の昔のバイク、是非運転してみたい。
私が好きなことを行うのに、現代のテクノロジーは必要ない。いつの時代から私が幸せだと感じていることは可能になったんだろう。
日本が敗戦の痛手から立ち直り、高度経済成長を経験し、それが終わった1970年代、そこまでくれば私のやりたいことは可能な時代になっていた。
世の中の進化が私の生まれた1970年代で止まっていたら、私は今の急激な世の中の変化に悩まされずに楽しく暮らしていたのだろうか。
そんなはずはない。その発想は2026年を知っているからこそ出てくるものだ。私が大正末期に生まれ、1970年代に今の私の年齢を経験したとしても、私はそのテクノロジーの進化についていけなかったタイプの人間であっただろう。
ただ、私が好きなことができる時代で物事の進化が止まってほしい、そういった都合のよい願望を持ちたいのは、現在の変化のスピードがあまりにも私の体の持つリズムに合わないからである。
食べる
職場で情報端末を前にしてイライラを感じることが多くなった。最近のAIがらみの悪いニュースが、そんな私に不安を加える。私たち、いや私はどんな世界をこれから生きようとしているのだろうか。これからやってくる世界は、私にとって希望よりも不安の方が大きい気がする。
数年前に原書で「Fuctfullness」を読んだ。実は世界はよくなっていることが書かれた世界的ベストセラーである。その時は救われた気がしたが、今は再びそれを疑う気持ちの方が強い。やはり私は根っからの悲観主義者である。
この夏実家に帰省した時、私は倉庫から七輪を取り出した。時代劇に出てくるような焼き面が円形で、そこから下がくびれた円柱型のそれだ。
七輪の中に消し炭と新聞紙を入れて火をつける。うちわであおぐうちに新聞紙の火が消し炭に移り赤くなる。これが着火剤となるが、ホームセンターで売られている商品よりはるかに力は劣る。
消し炭の上に炭を乗せて先ほどの倍ぐらいの力で風を送る。炭に移った火が安定してくる。そろそろ焼き網をのせてもよい頃だ。
私はその夜、鶏ももと鶏軟骨と鰯を七輪で焼いた。次男も一緒に帰省していたので、彼と二人七輪の前で農業用コンテナに座りゆっくりと食材を焼き上げていく。そんな二人の様子を、時折父親が見に来る。
鶏や鰯の油が炭の上に落ちて香ばしい煙が上がる。日が落ちてあたりが暗くなり、炭火が明るさを増す。焼き上がった鶏と鰯にレモンとオリーブオイルをかけて食べる。
七輪も炭もオリーブオイルもずっと昔から存在して、その中身はほとんど変化していない。それらを使って食材を調理していると、これでいいんじゃないかという気持ちになってくる。そこには職場の情報端末やAI関連のニュースに疲れている私と正反対の自分がいる。
なんのために私たちは進化や進歩を追求しようとするのか。私はそこから目を逸らし、七輪で得られるような幸せを噛み締めたい。

