最初で最後

さくら

新幹線さくら号のシートを180度回転させて四人用のボックスを作る。私は進行方向右側のシートに新大阪方面を向いてもたれている。私の右には妻、正面に母親、右斜め前には私の叔母が座っている。

この四人で旅をするのは初めてのことである。喜びと同時に、2回目はあるのかという思いも頭をよぎる。叔母は歳の割にはまだまだ若々しい。母親のシートの脇にはウォーキング用の杖が二本寝かされている。

「前屈みになりながらだと杖はいらないけれど、背筋を伸ばして歩きたいから」と母親は言った。

「おばあちゃんになったな」と私は思った。当然である。私も孫を持つ同級生がいる年齢である。

「いつかって言ってたら、その『いつか』は永遠に来ないから今ここで日程を決めよう」

今年6月のある日、私は強い口調で母親に言った。横には妻がいた。三人で予定を出し合って、10月の中で日程をすり合わせた。母は叔母も連れて行きたいという。

私にとっても願ったりだ。母と少し歳の離れた叔母は、義理の叔父と共に私のことをよく可愛がってくれた。ある部分では親以上の存在であり、私の妻との関係もすこぶるよい。

叔母に電話をして日程を伝えると、すぐに大丈夫だと返事がきた。私の父親と義理の叔父も誘ってみたが、父親は行きたくないと言い、叔父は歩くのが辛いとのことだった。

私たちは四人で旅をすることにした。行き先は鹿児島である。すぐに行程を決めてホテルとレンタカーを予約した。あとは1月前に新幹線の切符をとれば大丈夫と思っていた頃、熊本を地震が襲った。

在来線や高速道路とともに新幹線も不通となり、この旅も延期せざるおえないかと思ったが、新幹線は9月中に再開することとなり、私は発売日にみどりの窓口へ向かった。

思い

母が鹿児島行きを希望したのは、知覧を訪問したかったからである。

「自分の孫ぐらいの歳の若者が特攻機に乗って死んでいったと思うと可哀想で仕方がない」

母は私にそう言った。

母は「祈りの人」である。仏の力を信じて行動を続ける人である。朝晩、仏壇の前で般若心経を唱える。ご詠歌を読む。お寺の奉仕へ出かけ、時には京都の本山へ参拝する。通りすがりの道に小さな祠があれば手を合わせる。

私の中で一番強い母のイメージは、目を閉じて手を合わせている姿である。その影響か、私も実家に帰れば般若心境を唱え、お寺を訪問することが好きになった。

「知覧の基地から飛び立ち、沖縄の海で死んでいった孫ぐらいの年齢の特攻隊員に祈りを捧げたい」それが母の願い。

鹿児島まで母が一人で行くのはもう無理である。父は、特攻隊という非人間的な戦法に対して怒りでいっぱいになるので行きたくないという。だから、母の願いを叶えるのは私だと思った。

最近、実家に帰るたびに思っていることがあった。いつも食べきれないぐらいの種類の料理が帰省する私たちを待っていたが、その数がだんだんと少なくなってきた。

家事をする母の動きも、だんだんとスローになってきていた。今年に入ってからは、自転車に乗ることもやめてしまった。

母親の老いが、私の目で見てもはっきりとわかるようになった。少しでも早く母の願いを叶えてあげたい。だから私と妻は半ば強引に日程を決めて旅に出たのだ。

開聞岳

昼過ぎに鹿児島中央駅に着き、近くのレンタカー営業所へ向かう。私は先に早足で向かい、しばらくして母のペースに合わせた三人が到着する。少し前まで母と同じ速度で歩いていたことを思い出す。

指宿スカイラインから知覧の街へ入る。ここは一昨年の12月に仲人さんとの旅行で通った道だ。その時のことや武家屋敷のことなどを話しながら街を抜けて、航空基地のあった高台を目指す。

震災復興割りの効果もあってか、特効会館は多くの人で賑わっていた。私と妻は視聴覚ホールで席を確保し、母と叔母をそこへ誘導した。

語り部が、時折特攻隊員の書いた手紙を読みあげながらこの場所で81年前に起こったことを語っていく。私と妻は後ろの方で立ち見をしていたので、母と叔母がどのような表情でその話を聞いていたのかはわからなかった。私を含めて、周りから鼻をすする音が途切れなく聞こえてくる。

語りが終わると展示室を周って見た。私は母の前で涙を流すのが恥ずかしかったので一人で行動した。少し離れた場所から、ガラスケースに顔を近づける母の姿を見た。どんな思いで特攻隊員の手紙を読んでいるのだろう。

「戦争が起こったら兵隊に取られなようにお前を山に隠す」

私が幼い頃に、母が私に向かって言った言葉を思い出した。そんな母の息子は平和な時代を生きて、戦争に行くことなく50才を越すことができた。ありがたい話である。この平和な時代が、私のまだ見ぬ孫の時代までも続いていくことを切に願う。

特攻平和観音へお参りした後、近くの茶屋で休憩した。母は私たちにお礼を言った。これで長年の願いが叶ったと。嬉しかったが、同時に寂しさもやってきた。あと何回、母の思いを叶えることができるのだろうか。

「特攻隊員たちが見た最後の日本の景色を見よう」私はそう提案して車を南へ走らせた。美しい山の稜線が次第に目の前に迫ってくる。開聞岳である。

知覧の基地を飛び立った飛行機は、この山を通り過ぎて沖縄の海へと向かって行った。ここから先、飛行機が触れる場所は敵の艦船か海原か。どちらにしても絶望しかない旅路である。

そんな特攻隊員の最後の希望はなんだったかと想像してみる。自分が亡くなった後に訪れる生まれ変わった日本。自分の死が無駄になることなく、それを礎に創られた新しい国。残された人々が、自分のような境遇に合わず、生を成就できる場所。

私たちは、その最後の希望の世界に今、実際生きている。開聞岳を見て美しいと思い、そのまま美味しいものを食べ、何も心配せずに眠り、明日を迎えることができる時代にいる。

かけがえなき

ホテルのバイキングで朝食を済ますと、まもなく約束の時間になる。部屋に荷物を取りに行ってチェックアウトすると、タクシーの運転手が待っていてくれた。還暦過ぎの明るい人だった。私たちは昼過ぎまで、この運転手の解説により鹿児島市内を見て回った。

維新の英雄たちが生まれた鍛冶屋町から照国神社。西郷隆盛の銅像を見て城山。西郷洞穴から南州墓地。最後は磯庭園へ向かった。

運転手はずっと喋りっぱなしである。そしてその内容が的を得ている上に面白い。会社員をしていたが、観光に関わる仕事がしたくて定年を機にタクシー会社へ勤めたという。ということはわずか数年でこの域に達したということである。

そんな運転手と初めて見る鹿児島の観光名所に、母は大変喜んでいた。下車する先々で記念写真を撮ってもらった。多分、この日が今までの私の人生の中で、母と最も多くの写真を撮った日になるであろう。母は嬉しそうな表情をしていた。

鹿児島中央駅で昼食をとり、お土産を買ううちに新幹線の時刻が近づいてきた。鹿児島到着からまだ24時間と少ししか経過していない。私や妻にとってはあと1、2泊したいところであるが、母や叔母にとっては十分な時間であった。

鹿児島中央駅を離れると新幹線はすぐにトンネルに入る。鹿児島の市街地は一瞬で終わる。

妻と母と叔母と私。たくさん話をした。旅を企画してよかったと思った。6月に母に言ったように、いつか行ってみたいの「いつか」は決断しなければ永遠に来ないからだ。

その間にも私たちはどんどんと歳をとり続ける。50を超えた私にとって、それは体力面でも気力面でも不可逆的な後退戦を意味する。

母親は、現代の感覚で言うとずいぶん若い歳で私を産んだ。参観日などで、私は周りと比べて若い母の姿を見て嬉しく感じたものだ。

そんな母が、こうやって私の目の前で老いていく。

形あるものは全て移り変わっていく。その当然の世の中の摂理を私は目にしているに過ぎない。どの一瞬をとっても最初で最後なのである。だから、その一つ一つが愛おしく感じられるのだろう。

私は、最初で最後の旅を楽しんだ。母も叔母も妻も喜んでくれた。次はどんな形になるのかわからないが、生きている限り何らかの最初で最後はあるものだ。

疲労

情報流失

10月に入り企業の情報流出のニュースが続いている。私は職場も含めて新聞三紙に目を通しているが、そこに次々と現れる有名企業の名を目にして、何か根本的にパラダイムが変わる出来事が起こっているのではないかと震えを感じた。

とりわけ恐怖を感じたのは、証券会社の口座がハッキングされて不正売買が行われていたことである。盗んだ情報を利用して他人になることで利益を得るのではなく、財産そのものに直接手をつける行為であるからだ。

私は嫌な想像をした。私自身の証券口座が何者かにハッキングされて、身に覚えのない売買をされてポートフォリオがぐちゃぐちゃになっている様子である。

私は高配当株で安定した収益を得ることを目指して証券口座を育てている。まだまだ目標には程遠いが、1年半後に「えいやっ」と仕事を辞めて見切り発車のサイドFIREを始めようと計画している。

ローンを返した後の退職金と配当収入でなるべく長く遊びながら生活して、その間に思うように稼げなかったり貯金がなくなればまた働けばよいと思っている。

そういった私の思い描く未来が、ハッキングによって狂ってくる。早期退職まであと1年半になり、私はにわかに落ち着かなくなってきた。

情報流出のほとんどはAIが関わっていると報道されている。AIの進化により、今まで不可能であったことが次々と起こっている。そして、その進化のスピードの速さに目まいがしそうである。

これだけ周りの景色が目まぐるしく変わってくると、私は考えずにはいられないことがある。

「人間は何を目指してものを進化させるのであろう」

身の回りの単純な道具から、最新のAIまで、私たちはその性能を向上させることに血眼になっている。それは何を目指しているのだろうか。

より簡単に行うこと。つまり楽をすること。それにより、より利益を上げること。その行き先は「より良い気分になること」つまり「幸せになること」ではないのか。

テクノロジーによって人間は幸せになったのであろうか。人間といえば主語が大きすぎるので、「私」の幸せについて考えてみる。

疲れている私

私はテクノロジーによって疲れている。私が常に気にしなくてはならないもの、それは職場のパソコンとタブレット。個人所有のスマホやパソコンは自分のペースで見ることができるし、私はあえてそれらに没頭しないようにしている。

しかし、職場のそれはそうはいかない。保護者からの連絡、委員会や文科省からの通知、職員同士の共有情報、年末調整など事務的作業、役所からの指示、学校外の業者とのやりとり。私たちは、手元にある二つの端末を見ることなしに仕事を進めることができない。

最近では国のギガスクール構想もあり、生徒たちも一人一台タブレットを持つことが当たり前となった。親からすれば随分と高価な買い物である。であるから、私たち教師はその利用率を上げることが求められる。

端末で課題を受け取り、端末で提出する。授業ごとのチームスを作り、フォームスで答えを聞き出す。端末の使い方を覚えると同時に、授業で効果的に使わなくてはならない。さもないと授業に興味を持てない生徒は、すぐにタブレットで漫画やゲームを始めてしまう。

オールドファッションな私が、このようなテクノロジーと情報の海を見事に泳ぎきっているはずがない。なんとか格好つけようとしてあたふたする毎日である。

私が「どうして」と思うことは二つある。学校で学ぶために最新の情報端末が必要なのかということと、教えるためにこれほど多くの情報に関わる必要があるのかということ。

こういう問いを立てている時点で私は時代遅れな人間であるということがわかる。私はこのテクノロジーと情報の海で溺れかけている人間である。職場の情報端末が整備されればされるほど、受け取る情報も加速度的に増し、私は今それに疲れ果てている。

少し連絡箱を見ないうちに、委員会や文科省から「周知徹底すること」という通知が10も20も溜まっている。その「周知徹底」が仕事をする前提条件であるならば、私はそんな職場でまともに仕事をする自信がない。

70年代ぐらいか?

私にとって気持ちのよい時間、つまり幸せとはなんなのであろうか。思いつくままに書いてみる。

まずはSSS(スリーエス)のサウナ、相撲、酒。全国のサウナをまわり、立ち飲みで相撲を見ながら酒を味わう。乗り物でいうと幼少の頃から鉄道好き、自分で運転するならバイク。音楽に興味があり、うまくはないがギターを弾く。一生続けたいことが勉強。その中でも特に語学。英語は中学生から、イタリア語は20年以上独学。今は中断しているが台湾語と台湾華語、ヨーロッパのポルトガル語にも興味がある。一人で旅をするのが好き。ここ5年は農業が面白いと感じる。明石焼きに興味があり、趣味で自分の店を出したいと思う。

書き出してみると、このブログのカテゴリーそのままである。私はこれらを行い、そこから幸せを感じたくて生きているようだ。

話を冒頭の情報流出へ戻す。AIの進化により、私たちは利便性を享受すると同時に今までなかった心配事を抱えるようになった。人類の幸せの追求は人類を不幸にしている側面を併せ持つ。

私個人の幸せを考える時、現在、この2026年10月のようなテクノロジーの進化は必要ない。確かに語学を学ぶ上でAIは有効な手段となる。しかし、基本的にテキストと辞書と音源があれば外国語を学ぶことはできる。立ち飲みも相撲も、100年前にはすでにあった。

サウナは家庭用PCが登場するずっと前から存在した。ギターやエフェクターも、50年前のものの方がいい音を出す。鉄道の旅も昔の方が魅力ある列車が多かった。空冷エンジンでキャブ仕様の昔のバイク、是非運転してみたい。

私が好きなことを行うのに、現代のテクノロジーは必要ない。いつの時代から私が幸せだと感じていることは可能になったんだろう。

日本が敗戦の痛手から立ち直り、高度経済成長を経験し、それが終わった1970年代、そこまでくれば私のやりたいことは可能な時代になっていた。

世の中の進化が私の生まれた1970年代で止まっていたら、私は今の急激な世の中の変化に悩まされずに楽しく暮らしていたのだろうか。

そんなはずはない。その発想は2026年を知っているからこそ出てくるものだ。私が大正末期に生まれ、1970年代に今の私の年齢を経験したとしても、私はそのテクノロジーの進化についていけなかったタイプの人間であっただろう。

ただ、私が好きなことができる時代で物事の進化が止まってほしい、そういった都合のよい願望を持ちたいのは、現在の変化のスピードがあまりにも私の体の持つリズムに合わないからである。

食べる

職場で情報端末を前にしてイライラを感じることが多くなった。最近のAIがらみの悪いニュースが、そんな私に不安を加える。私たち、いや私はどんな世界をこれから生きようとしているのだろうか。これからやってくる世界は、私にとって希望よりも不安の方が大きい気がする。

数年前に原書で「Fuctfullness」を読んだ。実は世界はよくなっていることが書かれた世界的ベストセラーである。その時は救われた気がしたが、今は再びそれを疑う気持ちの方が強い。やはり私は根っからの悲観主義者である。

この夏実家に帰省した時、私は倉庫から七輪を取り出した。時代劇に出てくるような焼き面が円形で、そこから下がくびれた円柱型のそれだ。

七輪の中に消し炭と新聞紙を入れて火をつける。うちわであおぐうちに新聞紙の火が消し炭に移り赤くなる。これが着火剤となるが、ホームセンターで売られている商品よりはるかに力は劣る。

消し炭の上に炭を乗せて先ほどの倍ぐらいの力で風を送る。炭に移った火が安定してくる。そろそろ焼き網をのせてもよい頃だ。

私はその夜、鶏ももと鶏軟骨と鰯を七輪で焼いた。次男も一緒に帰省していたので、彼と二人七輪の前で農業用コンテナに座りゆっくりと食材を焼き上げていく。そんな二人の様子を、時折父親が見に来る。

鶏や鰯の油が炭の上に落ちて香ばしい煙が上がる。日が落ちてあたりが暗くなり、炭火が明るさを増す。焼き上がった鶏と鰯にレモンとオリーブオイルをかけて食べる。

七輪も炭もオリーブオイルもずっと昔から存在して、その中身はほとんど変化していない。それらを使って食材を調理していると、これでいいんじゃないかという気持ちになってくる。そこには職場の情報端末やAI関連のニュースに疲れている私と正反対の自分がいる。

なんのために私たちは進化や進歩を追求しようとするのか。私はそこから目を逸らし、七輪で得られるような幸せを噛み締めたい。

語学ノート

相乗効果

英語にsynergyという単語がある。語源辞典で調べたわけではないが、synとnergyという2つの要素から成り立っていることが推測できる。

synには「同じ」という意味がある。synclonizeは「同じ」「時間化する」を組み合わせて「同時に動く」という意味になる。sympathyは「同じ」「心」で「共感」である。

一方のnergyには「活動」という意味があり、日本語としても使われる「エネルギー」は、en「〜の中で」とnergyとの組み合わせである。

さてsynergyは「同じ」「活動」で「相乗効果」と訳されている。

こうしてみると、一見アルファベットの羅列である英単語が漢字熟語のように見えてくる。その漢字の一文字一文字、ここでいう英単語のパーツの多くは、古代ギリシャ語やラテン語に端を発している。

私は昨年秋からこのsynergy効果を感じている。正確に言うと今までも感じていたが、さらに大きくなったそれを感じている。私の心を震わせている分野は、語学である。

昨年の秋の時点で、私は5つの外国語を学習していた。始めた順番に英語、イタリア語、台湾語、台湾華語、ポルトガル語(ヨーロッパ)である。

しかし、フルタイムで仕事をしながらの5ヶ国語学習には無理があった。どの語も学習時間が足りなく、「できない」という気持ちが積み上がってきた。だから、私は台湾関係の二つを一時的に中断することにした。

ヨーロッパ系の3つの言語を同時に勉強すると、synergyを強く感じるようになった。今までの英語とイタリア語の距離にポルトガル語のそれが加わったからだ。イタリア語とポルトガル語は、同じラテン語をルーツに持つ言語である。

私的な感覚であるが、イタリア語とポルトガル語の距離を1とすると、英語と両言語との距離は5から10は離れていると思う。

しかし、この距離が一気に縮まる瞬間がある。それはラテン語を借りた英単語で、学術用語に多い。例えば「会議」に相当するごは英伊葡の順にconference, conferenza, conferenciaでありほとんど変わらない。

面白いのは伊と葡ではそれぞれriunione, reuniaoという言葉も「会議」の意味で使われることだ。英語でこれらの語と同じルーツを持つものはreunionとなるが、これは「同窓会」や「再会」を示し、会議の中でも少しニュアンスが変わってくる。

あるプロレスラー

興味のない人から見れば「だから何なんだ」ということであろうが、私はこのような気づきが面白くてたまらないと思う人間である。

今まで日伊という線上で起こっていた思考が、日伊葡の三角形の面の上で動いている感覚である。そして、その三角形の頂点間の距離は単語によって変化する。私はポルトガル語を始めて、この1年間たくさんの三角形を見てきた。

「この気づきを何かに記さないともったいない」

私はノートを作ることにした。「私デスノート」「頭(こうべ)ノート」に次ぐ第3のノートである。

ちなみに「私デスノート」には、自分の将来につながっていきそうな気づきやアイデア、またこうありたい自分の姿を、「頭ノート」には私が描写した風景が描かれている。

私は語学のノートを「スコット・ノート」と名付けた。英伊葡の距離感と関係性が私の頭の中に「スコッと落ちるノート」という意味と言いたいところであるが、本当は順序が逆である。

私は言葉遊びが好きで、時々ロンドンの方言であるコックニーのような言葉の使い方をする。コックニーでは階段を意味するstair はapple and pear(りんごと梨)、電話のtelephoneはdog and bone (犬と骨)と呼ばれることがある。

何のことかと思うが、これらは言葉の韻を踏んだ遊びである。stairとpear、phoneとboneが韻を踏んでいて、それらに似たような言葉がついてリズムをよくしているのだ。

私はこのコックニー的な発想に習い日本語でも密かに韻を踏んだ言葉を使っている。例えば、私の中では「難航」「南港」「軟膏」はいずれも前に「桂」をつけて呼ぶ。落語家の桂南光氏とかけているのだ。

私にはこのように韻を踏みながら使っている日本語が数十個ある。もちろん、妻をはじめとするごく親しい人の前でしか使わなく、あとは心の中で発音するのみであるが。

私の語彙の中でノートブックのノートは「スコット・ノートン」と言い続けてきた。私がプロレスに夢中になっていた1990年代に、新日本プロレスで活躍していらアメリカのレスラーだ。

どれぐらい前なのかわからないが、私はノートブックを表す言葉として「スコット・ノートン」を使い続け、今回三カ国語の語彙ノートを作るにあたってその固有名詞として採用したのだ。

これからの展開

このノートを書き始めて、3つの言葉を同時に学ぶことが楽しくてしょうがない。お互いの距離の伸び縮みと、ラテン語の影響が見え隠れするところがなんとも言えないのだ。

例えば「〜の場合は」という表現は、英伊葡の順に”in case of 〜”、”nel caso di〜”、”no caso de〜”とほとんど変わりがない。「恐れる」は”fear”、”temere”、”temer”と伊葡の近さが見えてくる。

さらに「嘘」という言葉は”lie”、”bugia”、”mentira”と一見バラバラのように見える。しかし、イタリア語の動詞で「嘘をつく」は”mentire”となりポルトガル語との関係が見えてくるのだ。

興味のない人にはなんてこともないであろうが、私にとってダイニングテーブいっぱいに各語の辞書を広げながら「スコット・ノートン」を作ることは、時間の経過を忘れる至福の時となる。

ノートを開くきっかけは、イタリア語やポルトガル語の文章を読む時である。読みながら「あっ」という気づきがある。ポルトガル語の”rio”という単語に出会う。川のことである。英語は”river”、同じrから始まっているが距離がある。

イタリア語で川は”fiume”、さらに遠い感じがするが辞書を引くと、イタリア語では「小川」とう意味で”rio”という語がある。

いろいろ調べるうちに私の中にある地名が浮かんでくる。アメリカとメキシコの国境「リオグランデ川」である。グランデ(大きな)リオ(川)という意味が見えると同時に、スペイン語でも川をリオと呼ぶことがわかる。

ヨーロッパ系の言語学習を2つから3つに増やすことで、線が面になるのを感じている。私はもう一つの三角形を作りたい気持ちになった。すなわち日本語、台湾語、台湾華語である。

さらに、ラテン系から少し離れたヨーロッパ系言語を学習すれば、大きな四角形となり、もっと多くのものが見えてくるという誘惑もある。

このように考えると人生は短すぎ、時間がいくらあっても足りない。だから当面は今の三角形に集中しようと思っていたのだが、そのスコット・ノートンもしばらく閉じる決断を、先日私は行った。

そのことについては、時を見て語っていこうと思う。全ては私がどのように生きて、どのように幸福を感じるかの問題である。

成長しない

書けない

私が木曜日にお酒を飲むことは少ない。なぜならこの日はこのブログの記事を書く日であるからだ。毎週土曜日に登校することにしているため、木曜に書き始め、金曜に見直しと追加を行い翌朝投稿ボタンを押す。

現在、土曜の朝7時過ぎである。私は目を覚まし、コーヒーをいれてパソコンに向かい始めたところだ。今週は私の長い高校教師人生の中でも有数のハードな週であった。

夜遅く家に帰ると酒を飲んで寝るしかなかった。気持ちが大いに乱れてシラフでは眠れそうになかったからだ。木曜日に今週の記事を書くことよりも、眠りに入って翌日に備えることのほうが大切であった。

何があったのか。直接私に非のあることが起きたわけではない。ただ、さまざまなことが同時にあちらこちらで起こり、私は責任ある立場のものとしてその対応に追われたのだ。

授業の空き時間は、生徒・保護者対応と同僚各所との調整根回しで消えていった。授業はほぼ丸腰で行くことになった。

それでも経験があるから授業はできる。ただ、肝心なものを忘れていったり、教えながらも別なことが頭に浮かびしっくりこない。職員室への帰り道、ため息が出た。できない自分を責める気持ちが湧き上がってくる。

私はこの気持ちを抑えたくてブログを続けていると言える。自分の低い自尊心、自分を責めたくなる気持ち、私の表情を暗くし私を悲観主義者にする元である。

それが今週は何度も湧き上がってきた。私は、木曜も金曜も酒を飲んで眠りに落ちた。

自分の場所

「今からは1秒でも長く機嫌の良い時間を過ごす」

50歳になった時、私はそう誓った。人生で大切なことはそれだと思ったからだ。そう思えばその状態になるように無意識の力が働く。私の機嫌の良い時間は増えたと思う。

その機嫌と不機嫌の収支が今週は一気にマイナス方向に振れた。人はなかなか変われないものだと思う。

土曜の朝、私は今比較的機嫌よくこの文章を書いている。今週職場で起こったこともなんとか見通しがついた。そしてこの二日間を自由に使うことができる。

今週は語学も読書もほとんどできなかったし、サウナにも行けなかった。この記事を投稿すればそれらができる。いい気分だ。

心乱された1週間であったが嬉しいこともあった。S君の存在である。彼は私と同期採用で同じ寮に住んでいて、今は私の勤務校で管理職をしている。

今週さまざまな出来事に対応する時、彼と協力しながら事を進めていった。一緒に仕事をしてみて、学ぶことが多くあった。焦る私を横目に、彼はいつも冷静であった。

彼と私の違いは現象を捉える枠の大きさと形である。時間と空間、どちらにおいても彼は適切な枠で現象を切り取り、その余白を利用しながら解決策を考える。その余白の有無がすぐにテンパってしまう私との違いである。

S君のような頼もしい人と働けてよかったと思った。それと同時に自分の教師としての力のなさを認めることができた。それは悲しいことではなく、さっぱりとした経験であった。

自分は管理職に向いていなし、教師としても凡庸である。困難な時ほど本当の自分が出る。今週、私は自分の立ち位置が見えた。その中で、残り少ない教師生活を過ごして行けばよい。

なぜ外国語

自習監督

英語科教諭の一人がインフルエンザに感染した。LINEで指示を仰ぎ、時間の都合がつく教師がその教諭の受け持つクラスに自習監督に行く。先週私が行った二つの自習監督の、そのどちらでも見られた様子について書く。

自習の場合たいていの場合はプリント学習か、教科書付属のワークブックを行うことになる。この日私が指示を受けたのは授業の予習プリントであった。

これから学ぶレッスンに出てくる単語や熟語を調べ、文法事項の解説を読み、本文に書かれている内容に対する簡単な質問に答えるものだ。

その日、プリントを配布すると生徒たちは一斉にタブレットを取り出してそれをカメラで写し始めた。そして、そのタブレットを横に置き、プリントに記入を始めた。

私は一瞬何が起こっているのかわからなかった。少なくとも、私の授業ではこのような光景は見られないからだ。好奇心に駆られて目の前の一人に聞いてみた。

「なんでみんな写真撮ったん?」

その生徒は私にタブレットの画面を見せてくれた。私が配布した自習プリントに変わりない。しかしよく見ると、そこには日本語しか書かれていなかった。

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令和八年九月場所

重圧1

表彰式で君が代が演奏されると、見る見る間に表情が崩れていった。横綱が泣いている。私はその姿を見て、大相撲の中でこの地位が持つ重さを感じた。

力士なら誰でも憧れる地位。掴むまでは眩しい光を発する。手に入れた瞬間、その光にとてつもない質量があることに気気付く。逃げ出したい、でも逃げ出せない。土俵を去ることだけが出口である。

四日目に高安に敗れたものの順調に白星を重ねる大の里。「勝ち続ける横綱が帰ってきて嬉しい」そう思いながら私は観戦した。

終盤になり黒星二つで安青錦に並ばれた。優勝決定戦の可能性はなくなり、千秋楽に勝った方が賜盃というスリリングな展開。こうなったら大の里は分が悪いのではないかと思った。

「追われるものより追うほうが強い」仁義なき戦いで菅原文太演じる広能昌三が言ったセリフ。追う安青錦は一度転落した谷を這い上がってきた男だ。

安青錦を序の口の頃から応援していた私であるが、この時ばかりは大の里に勝ってほしかった。強い横綱を頂点にした、秩序のある力の世界。その力の安定感があるからこそ、番狂せが面白くなるのだ。

重圧2

秋場所中ずっと豊昇龍のことを考えていた。

「彼は今どんな気分で過ごしているのだろうか」

私の中で豊昇龍はずっとヒール役だった。「メンチ切るな」とか「もっと謙虚になれ」など思っていた。そんな彼に対して今は同情する気持ちの方が強い。

霧島は妻が好きな力士の一人であるが、彼女は霧島が横綱になることを望んでいない。自分の好きな力士が豊昇龍のように苦しむ姿を見たくないという。

横綱になってまだ一度も優勝がない。出場すれば前半に思わぬところで星を落とすことが多い。負け越しを避ければよい大関とは異なり、横綱が最初の週に3敗でもすると休場の文字が現れる。

この一年半、彼はずっと苦しそうに見える。自分の選んだ道とはいえ、今の立場の重圧は予想できなかったものであろう。

解説の舞の海さんが言っていた。来場所も休んで、完全に体を復活させてから帰ってきてほしい。私もそう思う。九州場所に出場し惨めな結果になれば、来年早々にも引退の話が出てくるであろう。

時間をかけて体を治し、初場所で強い横綱を見せてほしい。

重圧3

今場所大関とりが注目されている力士が熱海富士であった。優勝こそしていないが、今年に入り二度も決定戦を経験し、三役としての力も十分についてきた。

「当たってまわしを取られたら、今熱海富士に勝てる力士はいないんじゃないですか」解説でもそう熱く語られていた。現在興隆を極める伊勢ヶ濱部屋を代表する存在である。

十日目を終わって8勝2敗、残り1敗で大関、それがダメでも2勝すれば来場所へ繋がる期待の中でまさかの四連敗。

せめて千秋楽では藤の川勝って悪い流れを止めたいところ。仕切りを重ねる二人を写すカメラ、ふと画像が花道奥へと切り替わる。そこにいたのは元横綱照ノ富士の伊勢ヶ濱親方。

こう言っては悪いが、愛想を振り撒きたい時でもそう見えない顔をしている。その表情を見て思った。「熱海富士は、取り組みの後あそこを通って帰るのか」。プレッシャーがかかる。

熱海富士、立ち遅れたものの藤の川を土俵際まで押し込む。そこで藤の川に体をかわされ突き落としをくらう。小回りのきく藤の川が慣性の大きい熱海富士を利用した感じ。

大関候補が8勝7敗で秋場所を終えた。がっかりして引き返す花道の先にはモニターを見つめる伊勢ヶ濱親方。熱海富士が挨拶をする。親方は微動だにせずにモニターを凝視。怒りのオーラがこちらまで伝わってきた。

横で騒がしい

生前、私の祖母がよくテレビで見ていた競技は相撲とバレーボール。画面の中に感情移入して、大声を上げながらの観戦であった。実家に帰り、祖母の部屋からあの声援が聞こえてくると、元気が伝わってきて嬉しかったものだ。

今場所、同じようなことが我が家のリビングルームでも起こった。

「いっちー、いっちー、キャァー、引いたらだめ!」

「もう、そろそろ勝たないとダメ。何があったの?悩みがあるの?」

一山本、伯の富士、王鵬、今場所前半これらの力士はなかなか勝てなかった。そして、この三人は私の妻が特に応援している力士である。

二人で夕食をとりながら、録画しておいた取り組みを見るのだが、横で妻が騒がしい秋場所であった。

最終的には7勝したものの、私はここ二場所の王鵬が心配である。なんだか気迫が伝わってこない。心に闇を抱えているように見える。私は「恋の病にかかってるんだろう」と周りに言っている。実際にそれで済めば良いのだが。

兄弟

絶好調の藤の川、その弟である碇潟が幕下上位に番付を上げてきた。来年早々にも、新たな関取兄弟が誕生する可能性が出てきた。

琴櫻と琴勝峰はよく似ているため兄弟だと思っていたが、そうではなく、幕下にいる琴手計が琴勝峰の弟。それを知ったのが四年前。その琴手計は琴栄峰となり、兄以上に土俵を沸かしている。

若隆景が二場所連続の休場。左足の大きな傷を見て「そんなに大ごとだったのか」と震えてしまった。来場所復活できても十両から。若元春と揃って幕内で見られる日を待つ。

朝紅龍のまわしの色は「紅」であるが、弟の朝翠龍は「翠」ではない。どうしてだろうと勝手に思っている。この小柄の兄弟の活躍も大相撲の見どころとなった。

さて、ここまで有名どころについて書いてきたが、我が兵庫県にも注目すべき兄弟力士がいる。

山響部屋の家島と家の島兄弟で、共に幕下下位にいる。姫路の南にある漁業の島、家島出身であることは名前からすぐにわかる。貴景勝の引退で関取が不在となった兵庫県を、この兄弟の出世で盛り上げて欲しいと考えるのだ。ただ、十両昇進の際にはもう少しひねった四股名を・・と思うのは私だけだろうか。

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欲張り

9月最終週

残り1週間で9月が終わる。学校の学年の半分、暦の一年の4分の3が終了する。

子供の頃から思っていたことがある。

プロ野球のオープン戦が3月に始まる。一月後に公式戦が始まり、夏休みの始めにオールスターがあり、9月に入ると残りゲーム数が新聞に表示され、マジックが点灯する。

「始まった」と思ってから「あと少し」までの時間的感覚が、後から振り返ると異常に短いのだ。

「もう野球シーズンも終わりなのか」を何十回も繰り返してきた。少年だった私は、あっという間に50を超えるオヤジになってしまった。

「大人になるってどんな気分なんだろう」

子供の頃の私はそう思っていた。

今の私と当時の私は地続きでつながっている。一日一日歳を重ねてきた。だから子供の頃と気持ちは変わっていないように思える。中身も子供時代と変わらなく思えるのだが、それは私のアウトプットを見ると錯覚であることがわかる。

毎日外国人教師と英語で話をする。日本語を介することなく、英語を英語のまま理解し、頭に浮かんだ英語を声に出す。

そんな私も中1のはじめ、英語を習っていた友人が私に示した単語を発音することができなかった。そこには”this”と書かれていた。

数年後、セサミストリートを見て、エルモの言ったセリフ”What’s next?”が聞き取れた時は嬉しかった。

確かに中身は変わっている。知恵や知識も増え、できることも多くなった。オヤジになった私が想像する「子供の頃の私の気持ち」は幻想に過ぎない。

私は成長を続けている。それはわかる。

ではなぜ、私はこの数十年間相変わらず欠落感を感じ続けるのだろうか。「もう九月になった。今年もあと3ヶ月で終わる。私は何もできなかった」どうして、この言葉が頭を回り続けるのだろうか。

自分では頑張っているつもりである。通勤時間はずっと学んでいる。歩くときは語学の音声を聞き、電車の中では読書をする。

家に帰り、お酒を飲まない日は、12時ごろまで語学や読書に加えて文章を書いたりギターを練習したりする。

休日は平日より早く目を覚ます。勉強するためである。なかなか起きてこない妻を尻目に、3カ国語を練習し、新聞を読み、本を手にする。家事を手伝うときもpodcastを聴きながらだ。

たぶん、平均的な50代のオヤジと比べると、かなり学んでいる方だと思う。

それなのに、私はいつも欠乏感を感じながら生きている。自分がどこを目指しているのか、どういう心の状態になりたいのかがよくわからない。

時間はある

「時間は誰の前にもある。ただ優先順位を間違えているだけ」

そんな言葉を聞いたことがある。確かにそうである。私の前に時間はある。しかし「時間がない」と感じ続ける自分も、確かにいる。どうやって折り合いをつけていけば良いのであろうか。

私は自分の気持ちを記しながら考える。私は確かに成長している。50代にしては学んで行動を続けている。しかし、この「時間がない」「私はまだ十分に行っていない」という気持ちだけはずっと変わらない。

子供の頃からずっと思っていた。「自分の心が落ち着かないのは、欠乏感を感じるのは、まだ十分に行なっていないからだ」。そう思い続けながら、気がつけば50代に入っていた。

この先、自分の心が落ち着き欠乏感が癒やされる時がくるのであろうか。

人生は永遠に続くものではない。というか、今の私の年齢を考えると心も体も元気で過ごせるのはあと二十数年というところか。

このまま走り続けていても心の平安は得られないのではないかとう不安がある。あれがしたい、これをしなくてはならないと、自分は行動の面で欲張り過ぎている。

ブログを書き始めて、この心の縛りに気がついたはずであるが、時折こうして浮かび上がってきては私を苦しめる。

何かを捨てないと楽にならないのではないか。何を捨てる。語学、文を書くこと、読書、サウナ、酒、相撲、バイク、明石焼き、農業、ギター、旅、鉄道。

確かに私は人並み以上に行なっていることが多い。こうやって記して見ると、自分が欲張りなことがよくわかる。南方熊楠のような頭脳を持っていたら、全て行うことができるかもしれないが、私は凡人である。

「何を捨てたら楽になるのか」そう考える反面で、何かをやめたらその事実がまた私を苦しめることも容易に予測できる。そんな袋小路に私は入っている。

抜け出すために

ここから抜け出すためには、項を一つ繰り上げてみるしかない。考え方を変えてみる。上空から私を眺めてみる。

私が上から見ている人間は、やりたいことをたくさん持っている。その数に対して行う時間がないことに苦しみを感じている。人生は短いと言って嘆いている。

こう考えてみよう。

目の前にたくさんの好きな食べ物がある。私は自由に食べることができる。できれべみんな食べたい。しかし、私の胃の大きさには制限がある。どうしよう。

もっと俗なことを考える。

私の前にたくさんの女性がいる。みな私の方を見つめている。誰一人とっても魅力的である。私には彼女たちを自由にする権利が与えられている。夢のような状況である。しかし、私の体力には限界がある。どうしよう。

上のような状況で嘆き悲しむ人間がいるであろうか。これらは、古今東西多くの人の人生の中でも例外的に幸運な状況である。

私は恵まれ過ぎているのだ。やりたいことが、魅力を感じることがたくさんある。そして、私にはそれを行うことのできる健康な体と恵まれた環境がある。

こう考えてみると、私の悩みは実は恵みであることがわかる。少しずつ行うのもよし。一つを深く行うのもよし。何をどうしていても、結局は自分は好きなことをしている状態に変わりはない。

全部を深く行うのは無理。しかし、その状態は幸せな状態でもある。

九月が終わるのが早いと感じようと、生きている限りはまた九月はやってくる。その間をやりたいことで埋めることができたら、例えそれが半端者の集まりであろうと、幸せなことであると思う。

今回は特に、文章を書きながら私は癒やされた。

付き合いにくい

楽しみ

何が楽しくて生きているのだろうと思うことがある。毎日朝が来るのが楽しみで仕方がないような人生を送れたらよいのだが、現状そうではない。

6時過ぎに二度目覚ましを止めて、遅刻防止のための三度目のそれで目を覚まし、トイレに行って髭を剃り顔を洗う。食欲があれば朝食を食べるが、駅でサンドイッチを買って職場で食べることもかなりある。

ワクワクするような1日の始まりとはいかない。働くことは、時には楽しいと思えるが、もう何十年も高校で働いているので新鮮さがない。

子供が小さいうちは、その世話で忙しかった反面、生きているという充実感もあった。息子たちはまだ学生の身分ではあるが、離れて暮らしている今、子育てはもう終わったに等しい。私ができることと言えば金銭面のサポートと、親の生き方を見せることである。

でもその肝心な「生き方」がどうなのだろうか。自分は一生懸命に生きているのだろうか。またそんな姿を見せる必要があるのだろうか。いつも自問自答しているが、なかなか自分が納得する気持ちにはならない。

やりたいことを考えてみる。

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複雑な思い

未成線

去年の夏、阿蘇へ弾丸ツーリングした仲間と今年は紀伊半島に行くことになった。阪神高速湾岸線の中島パーキングに集合し、そこから高速を乗り継いで十津川郷入口である五條を目指す。

大阪を縦断するのでそれなりの時間を覚悟していた。湾岸線で大和川を渡るとすぐに阪神高速大和川線に入った。驚いたことにこの路線は、大阪平野の真ん中にあってほとんどがトンネルであった。つまり川沿いに地面を掘り下げてそこに路面を作りコンクリートで蓋をしているのだ。

用地買収などの手間を考えると楽なルートであろうが、相手は大阪平野を形作った大河川の一つである。当然伏流水や流入する小さな河川の処理も大変だと思うが、土木技術の進歩によりそのような作り方をしても割に合うのであろう。

私達はあっけなく大阪市域を通り抜け松原ジャンクションから阪和道へ入った。すぐに南阪奈道路に入り東を目指す。私の大阪の地図は鉄道を中心として頭にあるため方向感覚が掴みにくいが、この道路は近鉄南大阪線に沿った道らしい。私はそのような高速道路があることすら知らなかった。

奈良県に入り、そろそろ一般の国道へ降りる頃だろうと思っていると国道24号線バイパスは高速道路と変わりなく、その名も京奈和道というそうだ。

私たちは中島パーキングからわずか1時間ほどで五條へ到着した。電車を使えばこの倍の時間はかかったであろう。大阪を車で走ることがほぼない私に取って、この道路の発達は驚きであった。

五條インターを降りて南下し、陸橋を渡る。下にはJR和歌山線が走っている。先ほど通った京奈和道と比べて、なんとも細い線に感じた。

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待つ気持ち

葛藤

一人暮らしをする息子たちが時々家に帰ってくる。たいていは荷物を置いてすぐに外出する。友達と遊ぶためだ。どこで誰と会っているのかはわからないし、成人した息子たちにいちいち聞くこともない。

遊んだ後、長男も次男も夜遅く帰ってくることが多い。大学生としては普通の生態であるし、私も大学生の頃は同様であった。

ただ、根が悲観主義者で心配性な私は悩まなくてもよいことで悩んでしまう。先日もこんなことがあった。

妻のスマホに次男から連絡があった。大阪で午後友達と遊んでそのまま神戸に帰るが夕食はいらないという。妻は一緒に食事できないことを少し残念がっていた。翌日が休みの私はどうせダラダラと遅くまで酒を飲んでいるから、帰ってきてから果物でも食べながら話をすればよいと考えていた。

10時を過ぎても玄関のドアは開かない。私はお酒を飲み終え、ネットサーフィンを始めた。

11時を過ぎた。いつ頃帰るつもりなのかLINEで尋ねてみたいがそれはできない。私も眠くなってくる。

日付が変わる前、私は歯を磨いて寝室に移動した。さすがに眠くなった。妻は帰ってくるまで待つという。私たちは9時ぐらいまでには帰ってくると勝手に考えていた。実際、その頃に帰宅することも多い。

布団の中で次から次へと心配の種が生まれては消えていく。

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