さくら
新幹線さくら号のシートを180度回転させて四人用のボックスを作る。私は進行方向右側のシートに新大阪方面を向いてもたれている。私の右には妻、正面に母親、右斜め前には私の叔母が座っている。
この四人で旅をするのは初めてのことである。喜びと同時に、2回目はあるのかという思いも頭をよぎる。叔母は歳の割にはまだまだ若々しい。母親のシートの脇にはウォーキング用の杖が二本寝かされている。
「前屈みになりながらだと杖はいらないけれど、背筋を伸ばして歩きたいから」と母親は言った。
「おばあちゃんになったな」と私は思った。当然である。私も孫を持つ同級生がいる年齢である。
「いつかって言ってたら、その『いつか』は永遠に来ないから今ここで日程を決めよう」
今年6月のある日、私は強い口調で母親に言った。横には妻がいた。三人で予定を出し合って、10月の中で日程をすり合わせた。母は叔母も連れて行きたいという。
私にとっても願ったりだ。母と少し歳の離れた叔母は、義理の叔父と共に私のことをよく可愛がってくれた。ある部分では親以上の存在であり、私の妻との関係もすこぶるよい。
叔母に電話をして日程を伝えると、すぐに大丈夫だと返事がきた。私の父親と義理の叔父も誘ってみたが、父親は行きたくないと言い、叔父は歩くのが辛いとのことだった。
私たちは四人で旅をすることにした。行き先は鹿児島である。すぐに行程を決めてホテルとレンタカーを予約した。あとは1月前に新幹線の切符をとれば大丈夫と思っていた頃、熊本を地震が襲った。
在来線や高速道路とともに新幹線も不通となり、この旅も延期せざるおえないかと思ったが、新幹線は9月中に再開することとなり、私は発売日にみどりの窓口へ向かった。
思い
母が鹿児島行きを希望したのは、知覧を訪問したかったからである。
「自分の孫ぐらいの歳の若者が特攻機に乗って死んでいったと思うと可哀想で仕方がない」
母は私にそう言った。
母は「祈りの人」である。仏の力を信じて行動を続ける人である。朝晩、仏壇の前で般若心経を唱える。ご詠歌を読む。お寺の奉仕へ出かけ、時には京都の本山へ参拝する。通りすがりの道に小さな祠があれば手を合わせる。
私の中で一番強い母のイメージは、目を閉じて手を合わせている姿である。その影響か、私も実家に帰れば般若心境を唱え、お寺を訪問することが好きになった。
「知覧の基地から飛び立ち、沖縄の海で死んでいった孫ぐらいの年齢の特攻隊員に祈りを捧げたい」それが母の願い。
鹿児島まで母が一人で行くのはもう無理である。父は、特攻隊という非人間的な戦法に対して怒りでいっぱいになるので行きたくないという。だから、母の願いを叶えるのは私だと思った。
最近、実家に帰るたびに思っていることがあった。いつも食べきれないぐらいの種類の料理が帰省する私たちを待っていたが、その数がだんだんと少なくなってきた。
家事をする母の動きも、だんだんとスローになってきていた。今年に入ってからは、自転車に乗ることもやめてしまった。
母親の老いが、私の目で見てもはっきりとわかるようになった。少しでも早く母の願いを叶えてあげたい。だから私と妻は半ば強引に日程を決めて旅に出たのだ。
開聞岳
昼過ぎに鹿児島中央駅に着き、近くのレンタカー営業所へ向かう。私は先に早足で向かい、しばらくして母のペースに合わせた三人が到着する。少し前まで母と同じ速度で歩いていたことを思い出す。
指宿スカイラインから知覧の街へ入る。ここは一昨年の12月に仲人さんとの旅行で通った道だ。その時のことや武家屋敷のことなどを話しながら街を抜けて、航空基地のあった高台を目指す。
震災復興割りの効果もあってか、特効会館は多くの人で賑わっていた。私と妻は視聴覚ホールで席を確保し、母と叔母をそこへ誘導した。
語り部が、時折特攻隊員の書いた手紙を読みあげながらこの場所で81年前に起こったことを語っていく。私と妻は後ろの方で立ち見をしていたので、母と叔母がどのような表情でその話を聞いていたのかはわからなかった。私を含めて、周りから鼻をすする音が途切れなく聞こえてくる。
語りが終わると展示室を周って見た。私は母の前で涙を流すのが恥ずかしかったので一人で行動した。少し離れた場所から、ガラスケースに顔を近づける母の姿を見た。どんな思いで特攻隊員の手紙を読んでいるのだろう。
「戦争が起こったら兵隊に取られなようにお前を山に隠す」
私が幼い頃に、母が私に向かって言った言葉を思い出した。そんな母の息子は平和な時代を生きて、戦争に行くことなく50才を越すことができた。ありがたい話である。この平和な時代が、私のまだ見ぬ孫の時代までも続いていくことを切に願う。
特攻平和観音へお参りした後、近くの茶屋で休憩した。母は私たちにお礼を言った。これで長年の願いが叶ったと。嬉しかったが、同時に寂しさもやってきた。あと何回、母の思いを叶えることができるのだろうか。
「特攻隊員たちが見た最後の日本の景色を見よう」私はそう提案して車を南へ走らせた。美しい山の稜線が次第に目の前に迫ってくる。開聞岳である。
知覧の基地を飛び立った飛行機は、この山を通り過ぎて沖縄の海へと向かって行った。ここから先、飛行機が触れる場所は敵の艦船か海原か。どちらにしても絶望しかない旅路である。
そんな特攻隊員の最後の希望はなんだったかと想像してみる。自分が亡くなった後に訪れる生まれ変わった日本。自分の死が無駄になることなく、それを礎に創られた新しい国。残された人々が、自分のような境遇に合わず、生を成就できる場所。
私たちは、その最後の希望の世界に今、実際生きている。開聞岳を見て美しいと思い、そのまま美味しいものを食べ、何も心配せずに眠り、明日を迎えることができる時代にいる。

かけがえなき
ホテルのバイキングで朝食を済ますと、まもなく約束の時間になる。部屋に荷物を取りに行ってチェックアウトすると、タクシーの運転手が待っていてくれた。還暦過ぎの明るい人だった。私たちは昼過ぎまで、この運転手の解説により鹿児島市内を見て回った。
維新の英雄たちが生まれた鍛冶屋町から照国神社。西郷隆盛の銅像を見て城山。西郷洞穴から南州墓地。最後は磯庭園へ向かった。
運転手はずっと喋りっぱなしである。そしてその内容が的を得ている上に面白い。会社員をしていたが、観光に関わる仕事がしたくて定年を機にタクシー会社へ勤めたという。ということはわずか数年でこの域に達したということである。
そんな運転手と初めて見る鹿児島の観光名所に、母は大変喜んでいた。下車する先々で記念写真を撮ってもらった。多分、この日が今までの私の人生の中で、母と最も多くの写真を撮った日になるであろう。母は嬉しそうな表情をしていた。
鹿児島中央駅で昼食をとり、お土産を買ううちに新幹線の時刻が近づいてきた。鹿児島到着からまだ24時間と少ししか経過していない。私や妻にとってはあと1、2泊したいところであるが、母や叔母にとっては十分な時間であった。
鹿児島中央駅を離れると新幹線はすぐにトンネルに入る。鹿児島の市街地は一瞬で終わる。
妻と母と叔母と私。たくさん話をした。旅を企画してよかったと思った。6月に母に言ったように、いつか行ってみたいの「いつか」は決断しなければ永遠に来ないからだ。
その間にも私たちはどんどんと歳をとり続ける。50を超えた私にとって、それは体力面でも気力面でも不可逆的な後退戦を意味する。
母親は、現代の感覚で言うとずいぶん若い歳で私を産んだ。参観日などで、私は周りと比べて若い母の姿を見て嬉しく感じたものだ。
そんな母が、こうやって私の目の前で老いていく。
形あるものは全て移り変わっていく。その当然の世の中の摂理を私は目にしているに過ぎない。どの一瞬をとっても最初で最後なのである。だから、その一つ一つが愛おしく感じられるのだろう。
私は、最初で最後の旅を楽しんだ。母も叔母も妻も喜んでくれた。次はどんな形になるのかわからないが、生きている限り何らかの最初で最後はあるものだ。


