姫路駅朝6時
私には二人の息子がいる。不思議なもので、年齢を重ねるごとに私に似ている部分が現れて、彼らを見ていると昔の自分に出会った気がする時がある。
長男はギターに夢中だ。私も学生時代はギターを弾いていた。そして卒業と同時に弾かなくなった。すっかりネックが反ったフェンダーのストラトキャスターを部屋に置いていたら彼が興味を示した。リペアショップで直して弾ける状態にしたら、DVD付きの教本を買って弾き始めた。
長男は今、学校でバンドを組んで精力的に活動をしている。私のCDもよく聴いている。朝食を食べながらOASISの曲を歌う彼を見ていると「こいつの半分は俺なんだ」と思うと同時に「このCDを買った25年前、こいつはどこにいたんだろう」と考えてしまう。
次男はスマホとパソコンを手に入れて以来ずっとYouTubeに夢中である。様々な動画を見る中で最近一番はまっているのは「スーツ交通」という鉄道もののYouTube。
彼に勧められるままに見て私もその魅力に取りつかれた。大学在学中から好きな鉄道に乗っては動画を投稿してきたスーツ氏は、20代前半にして私とは桁が1つ異なる年収を稼ぐ。時代、そしてお金の稼ぎ方が変化してきていることを痛切に感じさせられる。
「スーツ交通」以来、鉄オタの私を半分バカにしていた次男の態度が変化した。「車両とかマニアックな分野は興味ないけど、鉄道で旅がしてみたい」そんなことを言い始めた。
そういうわけで次男と私は青春18きっぷを手にして、朝6時の姫路駅にいる。
新幹線改札前の売店で朝食用の駅弁を購入し、播但・姫新線のホームへ向かう。目指すは6時10分発の姫新線上月行普通列車、下りの始発列車である。
JR姫路駅は県都神戸の駅を抑えて、兵庫県で一番規模の大きい鉄道駅である。東西を貫く新幹線と山陽本線に加えて和田山からの播但線と津山方面からの姫新線が乗り入れる。かつては姫路港へも路線が伸びていた。電車・ディーゼル・貨物と、多種多様の車両も見られて一日中いても飽きない駅だ。
日中はに賑やかなこの駅も、早朝の姫新線ホームは人がまばらである。静寂の中に1両のディーゼルカーのアイドリング音が響いている。
20名ほどの客を乗せて列車は定刻に出発した。18きっぷを持った私たちの今日の行き先は、次男が決めることになっている。「とりあえず津山方面に行きたい」という彼の希望でこの列車の乗客となった。
鉄路と道路
列車は姫路市内を北西に向かう。播磨高岡・余部と市街地の駅に停車するが、街の規模に比べて乗降客数は少ないように感じられる。播磨の中心都市で人口も50万人の姫路ではあるが、車に依存する割合は阪神間に比べるとはるかに高い。
私は車やバイクも好きだが、街の構造を考えた時は車よりも鉄道の駅を中心とした街の方がはるかに面白いと感じる。30年前はどの駅前にも個性があった。姫路は今でも駅前は観光客を中心に賑わっているが、昔に比べると質が異なる。ハレの場である2つのデパートを中心に個性的な個人商店に地元の人が溢れていた。そんな街を懐かしく感じる私は、車社会の象徴である郊外型ショッピングモールでは心がときめかない。
そのショッピングモールもアメリカではアマゾンなどの通販に押されて、ゾンビモール化しているところが多いと聞く。そのうち日本でも同じことが起こるであろう。時代はめまぐるしく変わっていく。
そのような街の変化と比べると、私が今乗っている姫新線は時代が止まったように感じられる。
もちろん車両や駅設備は変わっていくが、それ以外の構造物は大正末期に作られたままである。余部の手前で夢前川を渡る。山の合間に分け入って、車両基地を通り過ぎ太市の手前で国道29号バイパスの下をくぐり抜ける。
姫新線の開通の後に誕生したこの国道が、今まで何度そのルートを変えてきたであろうか。交通量の増加と共に道は整備され、今のバイパスは高速道路と変わらないほど立派な自動車専用道路となった。鉄道に例えると、単線非電化のローカル線が戦後70数年の間に高規格な新幹線になったようなものである。
約100年前に開通したこちらの姫新線は、当時建設された築堤の上を同じ半径のカーブで走っていく。トンネルも鉄橋の橋台やガーターも建設時と同じものだ。その事実だけで、無条件にこの路線がいとおしく思えてくる。
竜野の市街地を抜けて、播磨新宮の手前で揖保川を渡る。足元から大正時代と同じであろうガーター音が響いてくる。線路は丁寧に山を避けながら、栗栖川に沿って歩みを進める。
西栗栖の先のトンネルで千種川の流域に入る。現代では短い部類のこのトンネルも、シールド工法の発達していなかった100年前は困難な土木技術だったであろう。姫新線はなるべくトンネルを避けるように、右へ左へと進路を変えながら佐用へと向かう。
姫路から75分、7時25分着の佐用で乗り換え。ホームの椅子に座って姫路で購入した駅弁を食べる。
具材豊かな「おかめ弁当」に舌鼓を打っていると、地図方面から「スーパーはくと」が入線してきた。登場から25年を経過している車両だが、力強く軽快なエンジン音を響かせている。
しばらくすると上郡方面からも2両編成の「スーパーいなば」がやってきた。この山間部の小さな街には不釣り合いなほどの特急同士の華やかな交換。実際、智頭急行が開通するまではこの駅に特急が姿を見せることはなかった。
智頭急行の2大スターがエンジン音を震わせながら佐用の駅を離れていく。私たちはこの数分間の光景を姫新線ホームから弁当を食べながら見ていた。左右の耳に離れ行くそれぞれ異なる列車ディーゼル音が入り、そしてその音が小さくなっていく。今まで気が付かなかった「静寂」が強調される時間だった。
中国道を眺めながら…
佐用での乗り継ぎの時間は1時間。弁当を食べ、天然記念物である樹齢千年の大イチョウを見学して駅へ戻ると、津山行のキハ120系単行がホームで待っていた。
休日の朝8時半、兵庫から県境を越えて津山に向かう列車に誰が乗るのだろうと思っていたが、私たちのような18切符組以外にも地元の人たちがポツポツと乗り降りしていく。
上月から先の区間は2時間に1本列車があるか無いかの区間である。沿線に大きな街は無く、ほぼ中国自動車道と並走している。よそ者の私たちは、今こうやって楽しみでこの区間に乗っているが、私が地元の人間なら、たとえ鉄道好きだとしても、車を持っていればこの区間に乗ることはないと思う。
残念ながらそれが現実である。せめて30分に1本程度の運行で、所要時間ももう少し短ければ話は変わってくるであろうが、今のままでは車の圧倒的な利便性にはかなわない。むしろ今まで100年前の設備でよく頑張って残ってくれたと、褒めてあげたい気持になる。
所々に雨天時制限25㎞の標識がある。土砂崩れが起きていたとしても直前で停車できる速度である。裏を返すと、JR西日本が土砂崩れを防ぐような設備投資を行う気持ちが無いことを示している。
山の間の切り通しに細い路盤が伸びている。規格の低いレールの周りには草が生え、どこまでが軌道なのかわからない。前方の大きな鳥たちが列車に驚いて一斉に飛び立つ。そこには小鹿の死体が横たわっていた。この路線が廃止される時が来るとすれば、その跡はすぐに自然に戻り、見分けがつかなくなるであろう。
岡山県に入ると中国道と並走する。関西から西へ高速道路を延ばす時、山陽道や山陰道ではなく、その中間からまず建設された。中国山地の小都市だった津山に高速道が達したのは昭和49年と県都岡山よりも15年以上早かった。中国道の沿線には多くの工場や流通拠点ができたが、それは姫新線の衰退の始まりであった。
かつては大阪方面へと直通する急行が走った時代もあったが、今では津山と姫路間を直通する列車も無く、車内の乗客は学生とお年寄りが中心となった。
美作三湯の1つ湯郷温泉の入り口である林野駅に停車する。今は1面1線の駅構造であるが、一目見てかつては交換可能駅であったことがわかる。今は埋められてしまった線路跡に停車した急行「みまさか」から下車する乗客を想像してみる。いつも思うことであるが「あと30年早く生まれていれば鉄道の黄金期を体験できたのに…」。
今に視線を移そう。こうやって寂れゆく鉄道に思いを馳せて諸行無常の思いを実感できるのは、30年前ではなく今に生まれた特権である、そう思うことにする。
「砂丘」と「津山」
佐用から1時間で津山に到着する。4方面からの鉄道が交わる要衝の地であるが、現在の津山駅にその勢いはない。閉鎖された跨線橋、車両と比較して無意味に長いホーム、撤去された機回し線、板が打ち付けられて封鎖された売店跡。私はかつて自分が中学生だった時、急行「砂丘」に乗ってこの駅にやってきて時の話を次男に聞かせた。
急行でありながらグリーン車を連結したキハ28・58の5両編成が津山駅へと滑り込む。多くの乗客が入れ替わり、ホームには駅弁売りの姿も見られた。客車列車はもう姿を消していたが、併設する車両基地には様々な種類のディーセルカーが紫煙を上げていた。目立った街の無い砂丘号沿線で津山は特別大きな街であり、鉄道好きとして心がときめく場所であった。
次男と駅を歩きながら30数年前の自分に思いを巡らせる。目の前の彼は、私が急行砂丘でこの駅へやってた時の私の年齢を超えている。時の経過は本当に早くて、時に残酷なほどに思える。
あの時ホームに溢れていた人々は、あの駅弁売りはどこに行ってしまったんだろう。それぞれの人にそれぞれの人生があり、一生の内ある一瞬だけ地図上の同じ座標で出会って、また散らばってゆく。
今でも、あの30数年前の砂丘のエンジン音、ディーゼルの香りが脳裏にそして鼻腔に浮かび上がってくる。この子が私と同じ年になった時、果たしてこの駅は存在しているのだろうか、そんなことを考えてしまう。
今日乗車したのは、姫新線の内でも「光の当たる方の半分」である。ここからさらに西へ向かう「残りの半分」は、さらに過疎化が進んだ地域を走る。
津山で自転車を借りて市内を散策する。中学生だった私が食事をとった駅前の商店街は消えて、バスターミナルと駐車場になっていた。吉井川を渡り中心地へと移動する。休日の商店街はほとんど人が歩いていない。ポツンと開いていた店で大判焼きを買い、ガラガラのアーケード街のベンチでお茶と一緒に頬張る。
自転車を観光案内所に返却する。奥には高速バスの窓口がある。この駅からは京阪神方面に頻繁に高速バスが発着している。駅に来る人は鉄道よりも高速バスに乗りに来ているという感じだ。
かつて鉄道の要衝だった津山は、駅も街も自動車が中心の場所になってしまった。「いつまで姫新線に乗ってこの街に来ることができるのだろう」そんなことを考えながら、私たちは南へと進路をとった。