時間があった
私のモヤモヤは「効率よく」生きられないことからやってきている、そんな気がする。
私にとって”有意義な事”、例えば語学学習や読書や身の回りのものの手入れを、できるだけ短い時間で、一日のうちにできるだけ多く詰め込んで行う、そんな時間の過ごし方を理想としていた。
しかし、そのようなことはなかなかできることではない。私は仕事をしているし、寝る時間も必要であるし、家事もそれなりに分担している。
「時間があれば理想通りの過ごし方ができるが、忙しいのでそれができなくても仕方がない」これは私の心の中の言い訳であり、ある意味精神安定剤として機能していた考え方であった。
去年春の緊急事態宣言発令以降、自宅で仕事をすることが増えた。まとまった時間が私のものになった。通勤時間だけでも往復1時間半節約でき、同僚と飲んで帰る時間も私のものになった。
自宅では自分のペース配分で仕事ができた。作ろうと思えば、日中に私用の時間を作ることもできた。たまにあった休日出勤もなくなった。私は、いつも欲しいと思っていた自分の時間を手にすることができた。
そして去年のちょうど今頃、モヤモヤMAXがやってきた。
一日中ベットから起きられない。意識がある場所が、夢の中なのか現実なのか区別がつかない。そして、その両方の場所でひたすら涙を流した。何も食べる気にもならないし、実際に妻が心配して持ってきた水とヤクルトしか喉を通らなかった。
私は自分のキャリアの中で初めて、心が原因で仕事を休んだ。2日目からは少しマシになったが、しばらくの間心は沈んでいた。
「時間があれば思い通りのことができる」と考えていた私に、その時間が与えられ、実際は何も変わらなかった。
今まで使ってきた言い訳が通用しない状況になり、等身大の自分が現実と向き合う時がやってきた。そして、その自分は意外と力が無く、小さい自分であった。
心の奥底ではわかっていたが、私にモヤモヤが取りついている理由は、時間が無いから思い通りに生きられないことではなく、目の前の現実に対しての心の在り方がズレているためなのだ。
今考えれば、1年前のあの時、つらい出来事ではあったがモヤモヤMAXを体験してよかったと思う。
あれ以来、目の前のことに対して心をコミットさせる方法が少しずつ変化している。そしてその変化は、私の気持ちを徐々に楽にしてくれていると思えるのだ。
ねばならない病
ずっと前から気付いていたことであるが、私は「~しなければならない」ということを抱えすぎている。「~しなければならない」は「~するべきではない」と表裏の関係であり、そのことが余計に自分の心の在り方に制約をかけている。
私の心はこの「ねばならない病」に深く蝕まれている。この病気は、言い換えれば心が凝り固まり過ぎて、柔軟に物事を考えることができない状態を指す。
例えば休日の昼間、予定にはなかった1時間の昼寝をしたとする。目を覚ました時、この「ねばならない病」が私の心に現れる。
「この時間はイタリア語の学習をするはずの時間だったのに…」
私は貴重な時間を無駄にしてしまったような感覚に襲われる。そして焦る。
「ここで逃してしまった1時間を取り返すために、今から集中して学習しよう」
当然、そのようなネガティブな気持ちで学習しても、頭の中には入ってこない。学習の成果は、かけた時間というより質によって大きく異なるからだ。
時間をかけた割には効果が表れないから、更に焦る。あの1時間の予想外の昼寝が引き金となり、私はモヤモヤしながらその後の時間を過ごすことになる。
少し離れた場所からそんな自分を見ると、滑稽な事この上ない。
たかだか休みの日の出来事だ。イタリア語をしようと思っていた時間に昼寝をしてしまった。ただそれだけの事。
「うどん定食を食べるつもりでお店に入ったら、本日のおすすめがミックスフライ定食で、よさそうだったのでそちらを注文した。美味しくて満足しました。」
本質的にこれと何が変わるというのだろう。
「思わず1時間眠ってしまった。体が疲れを感じていたのだろう。眠ってスッキリした。昼寝って気持ちイイね。さあ勉強しようか。」
これでいいではないか。そんな簡単な発想が「ねばならない病」にかかった状態では、心に浮かび上がってこない。後から考えればどっちであってもいいことに煩わされ、モヤモヤとしたまま時を過ごすことになる。
なんのための「~ねばならない」なのか、理由を考えようとしても端的に説明できない。
どうして今日中に靴の手入れをしなければならないのか。
どうして今、イタリア語のこの部分を学習しなければならないのか。
どうして今月は2万円節約しなければならないのか。
私には説明できない。私に説明できることは「これらは何となく私の頭に浮かび、それがいつの間にか強力な思い込みに変わっていった」ということである。そして「何となくから形成された思い込み」によって私は苦しめられる。
1年前のモヤモヤMAXは、この思い込みの解消は時間を与えられるだけではできない、ということに嫌が上でも気づかされて起こった現象であった。
もつれた糸を解す
人生をトータルに考えていかなければならない。そもそも何のための「効率」であり「ねばならない」なのだろうか。
モヤモヤMAXの後、私は自分の気持ちに従って行動しようと思った。「~ねばならない」と思いながらも、脇道へそれたい気持が出てきたら「それもアリか」と思うようにした。
去年の5月は、しきりに所ジョージの言葉を検索した。
”人間は頭がいいから、明日のこととか、来年のことを考えちゃうでしょ。 そうじゃなくて、もうちょっとばかになって、今日のことしか考えられないと、幸せになりやすいのにね”
”遊びに理由なんてないんだよ”
”自分以上のものを求めるのではなく、自分の持っているものを楽しむ”
”膝が痛かったら痛む膝で何ができるかを考えればいい”
”ガッカリも度を超すと面白い”
「自分を好きになり、今を生きなさい」
彼の言葉から、このメッセージが強烈に伝わってくる。私は少しずつではあるが、ダメな部分も含めて自分のことを好きになりつつある。
逆に言うと、今まで自分で自分のことを好きではなかったということに気付かされる。ダメな自分を理想の自分に変えるための「~ねばならない」であったのかということに思いが至り、ハッとさせられる。
1年間かけて、心の凝り固まった糸を少しずつ解きほぐしている。去年の今頃、モヤモヤMAXがあったことが信じられないぐらい、今は心が軽くなっている。
とはいうものの、未だに「効率」とか「~ねばならない」を気にする自分がいるのも確かなことである。先日も、山陽電車3000系との楽しい1日を過ごすにあたって、迷った挙句、車内で語学学習をせずにはいられなかった。
まあ、そういうどうしようもない部分を持った自分も含めて「それもアリか」と思いながら生きていく。
「私が考える”効率”なんて、神様の目からしてみれば、とんでもなく小さなことですね。」
あるブログを読んでいて、こういう言葉に出会った。
そうだ、私は、大きな枠組みで見れば取るに足らないことに心苦しめられて生きてきたのだ。
来年の今頃、もっと自分を好きになった私が、もっと軽い気持ちで、モヤモヤMAXを振り返ることができるといいな、そう感じる。