真っ赤な広告
短かった秋が終わり一気に冬の寒さがやってきました。新聞をめくっていると冬の味覚が詰まったカラーの全面広告が目に入ってきます。
タラバガニ、ズワイガニ、イクラ、銀鱈、ホタテ、一面に美味しそうな魚介類が並んでいます。カニ鍋やタラチリは冬にこそ食べておいしい料理だと思います。ズワイガニの足が2.5キロ入って一万円です。「たべたいな」と思いながらも私は次の瞬間別のことを考えていました。
それは人間の持つ業、罪深さについてです。
私がおいしそうだと思いながら見ていたものは食材であります。私たちに食べる幸せと栄養を与えてくれる食材であります。
しかしながらそれらは別の言葉を用いて表わされるともできます。
大陸棚の底、海面から200メートル下の海から網によって引き上げられたひん死のズワイガニは、生きながら熱湯に放り込まれ灼熱の中で命を落とします。
死体となったカニは腕をもぎ取られて、その他大勢のカニの腕と共に箱に詰められて、今度はマイナス20度の極寒の世界に放り込まれます。カニはこの時点で生きていないので何も感じることはないでしょう。
しかし仮にカニが人間並の知性を持った生き物だとして、他のカニの成れの果ての姿を我ごととして重ね合わせることができたならどんな気持ちになるのだろうかと、私はありえない想像上のカニに共感して考えます。
体をバラバラにされたカニは、注文が入るとあるものは鍋用の足の集まりとして、またあるものは蟹味噌用の頭兼内蔵の集まりとして全国へ発送されていくのです。
ある広告では5歳ぐらいの男の子が足元から切断されて茹で上げられたタラバガニの死体を手にして笑顔で微笑んでいます。その下には体を割かれて、焼かれて切り刻まれたイカの死体の写真が並んでいます。しかも丁寧に「(死体を)直火で香ばしく焼き上げた」という説明までついています。
別の広告では殻をむかれて肉が露わになったカニの死体と、酸欠と圧死で死んだ後腹を割かれて取り出され調味液につけられたニシンの子供の間でうっとりと微笑む女優の姿がみられます。
これらの広告は、カニや魚や貝の死体がいかに美味しそうでいかに安い値段で沢山手に入るかをアピールしています。
リバプールの残虐王
冬の味覚の新聞広告について極端な表現を使って書いてしまいました。しかし、あながち嘘を書いているわけではありません。私は時にこのようなことを考えずにいられない性格をしています。
大学に入学してすぐ、幼馴染のCP君が彼の家で私に興奮気味に話しかけてきました。
「この曲を聴いてみてくれ」
それはHeartworkといい、ツインリードギターの物悲しいメロディーが印象的な美しい曲でした。ですが、彼らはジャンルでいうとデスメタルです。ボーカルはデス声、時折ブラストビート、美しいメロディライン、掃き溜めに鶴のような曲です。
私は一度聞いてこの曲が好きになりました。そして彼らのアルバムを買いました。バンドの名前は「カーカス」、英語でcarsassと綴り、死骸や死体という意味があります。
本当かどうか知りませんが、このバンドのメンバーは動物を殺すことに反対でその考えを広めるためにバンドで活動している、という話を聞きました。
彼らはリバプールの残虐王といわれ、歌詞の内容は死体や医療を扱ったものが多く、特に初期の作品は人々に嫌悪感を持たせる歌詞とサウンドでした。具体的には私が新聞で見た広告の冬の味覚の食材が人間に置き換わったような内容です。
そんな彼らがメジャーになる以前、初期のアルバムで歌詞の内容と矛盾のないジャケットを用い、販売中止になるなどしました。そのジャケットとは死体写真のコラージュです。
話が長くなりましたが私が言いたいことはここからです。それは、私たちは常に死体写真のコラージュを目にしながら何も感じていないということです。
先ほど私が触れた新聞広告は、死体写真を集めたものに他なりません。カーカスのアルバムジャケットとの違いは、それが人間であるか否かということです。
カーカスのアルバムジャケットを見ると普通の人は引きますが、冬の味覚の広告を見ると人は美味しそうと思います。しかし、どちらも写されているものは命あるものの成れの果ての姿にすぎません。
想像力と感謝
私はベジタリアンになれとか、そういう類のことを言うつもりは毛頭ありません。私自身も肉や魚は大好きで毎日食べていますし、これからも食べ続けます。
私が「何か違うな」と感じることは、私たちが口にするものはすべて私以外の命であるという単純な事実が忘れられている昨今の状況です。
特に動物性タンパク質を摂ると言うことは、誰かが、どこかで、何らかの方法を用いて動物の命を殺めているということになります。それは私たちが命を保ち、次の世代を残すためには必要なことでごく自然なことであります。
しかしながら、その事実を先進国に住む現代人は忘れがちだと思います。だから不必要に命を奪い、それを消費することなく捨ててしまうことも平気で行います。
「1年間にフードロスが〜あった」という記事は、命を奪われながら人間の命のもとにならずにゴミとして捨てられた生物が山のようにあることを示しています。
職場を歩いていると、廊下に鶏の唐揚げが落ちていることがあります。生徒たちが食堂で買って食べ歩きをしながら落とし放置されたものです。それを掃除しながら私は考えます。
ブラジルかどこかで育てられ、地球の反対側まで輸送費を使って運ばれ、調理をされて、一カップ百数十円で売られる命ってなんなのだろう。おそらく生徒たちが自分で鳥を育てて、自分で頸動脈を切って殺し、羽をむしり内臓を取り出して肉にして、それを唐揚げにするのであれば、もっと違った態度で食べ物に接することができると思います。
私たちに必要なことは食べ物とそのもとになった生命をつなぐ想像力、そしてその生命が形を変えて個々の前に現れてくれたことに対する感謝の気持ちです。
格安で大量の命を奪い、文字通り捨てるほど持つことができる、私たちは人類の歴史を考えた時極めて例外的な時代に生きています。そのことを忘れた時に引き起こされる災いを私は恐れています。
新聞広告を見ながら私はそれがどんな災いなのかを考えて憂鬱な気持ちになりました。今から久しぶりにカーカスのアルバムを聴いてみます。