お昼ご飯を食べに(続き)

土曜の朝の葛藤

久しぶりに外食をしたことについて書こうと思ったのですが、投資について触れるうち予想外に前振りが長くなってしまいました。それだけ投資を始めてから私の外食の在り方が変わったということで、まだ書きたいこともありますが、今回はすぐにタイトル通り昼食について書きます。

先週土曜日の話です。私は朝、ある葛藤をかかえていました。そしてその葛藤こそ、私を苦しめてきたモヤモヤをよく表しています。

最終的に私のモヤモヤの根源はどうしようもないこと、つまり仏教でいる生老病死であると考えています。そしてその次に来るのが、現在と未来との距離の取り方です。

どういうことか。単純に言うと「今を全力で楽しめないこと」「未来のために今は我慢しなければならないと思い続けること」「”効率”を求めすぎて一見無駄なことができないこと」これらになります。

天気の良い土曜の朝「今日バイクで走っておいしいものを食べたら気持ちイイだろうな」と思います。しかし、同時に私の中に以下のような気持ちも湧き上がってきます。

「今日1日で何冊本を読むことができる?」

「ブログの記事を増やす絶好の機会ではないのか?」

「最近語学学習がおろそかになっているのでは?」

そして投資を始めてからは、これらにお金の囁きが加わります。

「本日使うお金を配当で得るにはいくらの元本が必要?」

今まで何度もこれらの葛藤の後、遊びに行くことをやめました。そしてモヤモヤをかかえながら家で本を読んだり語学を行ったりするのです。

本来、読書や語学学習は楽しいことです。しかし、私はそれらと単純に遊びに行くことの間に線を引いていました。その線の基準は「未来の私を作るうえで効率が良いかどうか」です。

50に近いオヤジにとっての「未来」とは何なのでしょうか。こうやって距離を置いてみると私の思い込みのアホらしさが見えるのですが、心に余裕のないときはそれが分かりません。

ブログを書き始めて次第に心が柔らかくなり、自分を客観視できるようになってきましたが、それでも時々、私にしみついたこの思考法が顔を表します。

よく晴れた先週の土曜もこの葛藤が起こりました。

しかし、結局私は「効率を忘れて一見無駄なこと」を行う選択をしました。つまり、心を空にしてバイクにまたがりました。

播州ラーメン

バイクに乗ったらまず頭に浮かぶこと、それは「早く市街地から離れたい」です。とにかく信号で止まることが面倒なのです。だから、通常は北か西へと向かいます。

この日は北へと向かいました。播州平野の中の信号の少ない道をのんびりと走ります。日差しの暖かさが、体に当たる風とちょうど釣り合いがとれています。バイクって気持ちがいい乗り物だなと思います。

走っているうちにお腹が減ってきました。そして口の中が数年前に食べた播州ラーメンの味になりました。そのラーメンとは小野市にある「らんめん」というお店のものでした。

播州ラーメンは醤油味の甘いスープが特徴です。らんめんのスープも甘く、上にのったもやしの食感が印象に強く残っていました。

私は記憶を頼りに小野の街を走りました。ハンドルにスマホホルダーをつけて、ナビを頼りに進めばすぐに到着できますが、私は自動車でもバイクでもナビを使いません。

これも私の思考が硬直しているためかもしれません。しかし、記憶や街の雰囲気を頼りに目的地へ近づくことは、私にとってゲームみたいで楽しいのです。

らんめんは旧市街地と新市街の接点、十字路に接していて向かいにガソリンスタンドがあったはずです。私は車に気をつけながら小野の市街地をグルグルと回ります。

駅前の商店街のアーケードが見えます。両側に店はほとんどありません。かなり先まで続いています。人々の生活スタイルの変化と街の移り変わりを感じさせる光景です。

それほど大きくない小野の市街地を走るうち、見慣れた通りに出ました。らんめんはすぐ近くにありました。広い駐車場にバイクを止めて店内に入ります。時刻は正午前、店内は多くの人で賑わっていましたが、私はギリギリ待つことなく席に座れました。

卵ラーメンとチャーシューおにぎり

久しぶりに食べるここのラーメンは記憶通りの味でした。甘みの強いスープに細身のストレート麺が絡みます。そして私が待ち望んだあのもやしです。ほとんど生なのではないかと思える熱の通り方で、噛むと少し生臭く感じられるのですが、それがとてもおいしいのです。

私にとって久しぶりの外食でした。しかし、食べている間はおいしくて「この値段を配当金で稼ぐには…」というような考えは浮かびませんでした。

ここまで来たのなら

お腹が満たされました。たまには何も気にせずにブラブラして、美味しいものを食べるのも良いものです。再びバイクにまたがり市街地を離れながら私はあるお寺のことを考えました。

「もうすぐお彼岸がやってくる。お彼岸と言えば浄土寺」

らんめんから10分ほどでお寺に到着しました。時刻は午後1時。ちょうど午後の拝観が始まる時でした。

駐輪場から本堂に向かい緩やかな坂を上ります。この辺りはなだらかな丘陵地が続いて高い山は見えません。加古川とその支流が長い時間をかけて作った地形です。

一通り境内を回ります。中には八幡神社もまつられています。しかも敷地のど真ん中にです。日本人の宗教に対しての懐の深い歴史を感じさせます。

境内にはほとんど人の姿が見えません。私は浄土堂に入りました。

国宝 浄土寺浄土堂

ここへ来るのは約20年ぶりです。前回は妻と二人で来ました。まだ子供は生まれていませんでした。寺の景色は変わりません。でも20年という時が経過しています。私たちから二人の分身が誕生しました。命とは何か、生きるとは何か、そう思わずにはいられません。

このお堂の素晴らしいところは、堂内が土足禁止で中には阿弥陀三尊像以外何もないところです。がらんとしたお堂の中心に仏さまが三体、その周り360度、どの方向からも床に座って仏さまを眺めることだできます。

人はほとんどやってきません。入ってきても足早に見学して、5分ほどで去っていきます。人が去ると静寂がやってきます。私は場所を変えながら仏と向き合います。

足元数十センチの場所から仏を見上げます。この寺の開山は重源上人です。目の前の仏さまは仏師快慶の作です。教科書と資料集の中にあった世界が、今私のすぐ目の前、本当に手の届く距離にあります。

私は1時間ほど何も考えず仏さまを見ていました。

私の理屈なんて…

こんな空間が存在するのです。鎌倉時代初期から800年にわたって、仏さまもお堂も変わらずにここにあり続けています。

がらんとして何もない建物の中に、ただ3体の仏像が東を向いて立っています。お堂は内側から見ると柱や梁が朱、その間が白く塗られた2色の世界です。仏像の背後には蔀戸(しとみど)という細かい目をした窓があります。

日没時、この蔀戸から入った太陽の光が床で反射し、更にそれらが壁や屋根裏の朱色や白を集めて、最終的には仏を照らし、そこに極楽浄土の世界を作り出すそうです。その太陽の光は1年に2度、お彼岸に最も強く入ってくるようにこの建物は設計されていると聞きました。

私はこの空間にいるうちに心が震えて涙が出てきました。うまく言葉にはできないのですが、圧倒的な豊潤さが私に迫ってくるのです。

この豊かさは何なのでしょうか。

これだけ空間を”無駄”に使い、これだけ時間を”無駄”に使うことでここに豊かな世界が現れます。800年間、人々が守り続けたいと思えるぐらいの豊かさが現れます。

私が求めている”効率”は、仏の目にはどのように映っているのでしょう。前回書いたコンビニと外食の話を思い出します。そのようにして無駄遣いを減らして、浮いたお金を投資に回すとします。それが、私の人生の豊かさとどうかかわるのか。

たしかに金銭面では豊かさは増します。それは私が自由にすることのできるお金が増えるという豊かさです。しかし、私がコンビニや外食で使ったお金は私以外の人を豊かにします。世の中はそうやってお金を回すことで豊かさが分配されます。

私は自分のことだけを考えてモヤモヤを解消しようとしてきたのではないか。自分が豊かになれば気持ちが楽になると思ってきたのではないか。自分とは何か、他人と区別することができるのか。そもそも、私は豊かさをお金の問題だけとしか考えてこなかったのではないのか。

私の考える理屈など仏の前では取るに足らないものに思えてきます。「無駄」とか「効率」とか「役に立つ」とか「将来」とか、私が勝手に自分のなかで作り出し、その影に苦しめられているのが他でもない私自身なのです。

じゃあどうすればよいのか。すぐには出てきません。ただ、こうやって圧倒的な存在の前で打ちのめされると、不思議と気分がよくなります。自分が一度リセットされて、生まれ変わった新しい時分でスタートできそうなのです。

今度は夕方の浄土寺を訪問して、極楽浄土を目の前に考えてみたいと思います。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。