ため息

疲労感

2学期が始まって3週間が経過しようとしている。教師、生徒ともに夏休み気分も抜けて、長い2学期の序盤が淡々と進行している。私は10月の中間考査までの日数をカウントして、授業の進め方を調整する。深く教えるところを考えたり、時には英語以外のことの話をしたり。

職員室へ向かって歩きながら、言いようもない虚しさを感じることがある。この時期に限ったことではない。私がこの職業についてから何十回も感じてきたことだが、最近は特に強く感じる。時に一日暗く沈み込んでしまうくらいの気持ちになることもある。

「一体私はここで何を教えているのだろうか」

私はため息をつく。

英語に決まっている。検定を通った教科書を使って、高校生に対して、文部科学省が定める指導要領に従って英語を教えていくのだ。

音を聞かせ、単語の発音をし、文章を音読し、文の構造を考えさせて、話の内容を理解させて、学んだ表現を応用してアウトプットさせる。この流れを基本にしながら、その中にさまざまな活動を取り入れて学習活動を行う。

授業をしている間は、私も元気である。行うべきことは決まっているが、生徒の反応は日によって変化する。だから、私はアドリブを効かせながら、それに対応して順番や内容を変える。まるでライブを行っているような感覚になる。

生徒の反応があると楽しいし、「できる」を積み重ねていく姿が見えるのも嬉しい。一方的に説明を始めたら5分で眠りにつく生徒たちも、活動を与えてあげると活発に動く。だからペアやグループでできることを考えて、私がかけた梯子を上を登らせていく。

「問いを聞いて、それに対して自分の意見を伝える」または、「相手の言ったことを理解して、それに共感なり異議なりを表す」

一般的なコミュニケーションは以上のような要素が積み重なって構成させる。一対一、一対複数、複数対複数、いずれにせよ音声なり文章なりゼスチャーや視線といった非言語要素を行き来させることで、コミュニケーションは成り立っている。

そして、私たちが従うべき学習指導要領において最も重視されることが「コミュニケーション活動」に他ならない。だからこの活動を英語で促進させる授業は良い授業となる。

私たち英語教師はそのような授業を目指して研鑽を積み、授業計画を立てて、教材を作って、授業を行う。少なくとも、建前上はそうなっているし、私を含め多くの英語教師はそのことを意識しながら仕事を行う。

私は今、ものすごく深い疲労感に襲われている。笑顔で授業を行っては、その後に何度もため息をついている。

「私は一体何を教えているのだろうか」

言語

各単元の終わりには「パフォーマンステスト」を行うように私たちは指導されている。このテストは、簡単に言えばその単元を学ぶことで「英語で何ができるようになったか」を図るためのテストである。

しかし「何をできるようになったか」の中には「世の儚さについて感じる心を持てた」などの能力は含まれない。基本はアウトプット活動、つまり英語で話したり書いたりする能力となる。

私たちは「表現できる生徒」を育てることを目指して教壇に立っているのだ。それはそれで大切なことだと思う。しかし、私の心が最も疲労を感じる部分もここである。

英語教育においてESLとEFLという概念がある。English as a Second Language (第2言語としての英語)とEnglish as a Foreign Language(外国語としての英語)という意味である。

フィリピンやインドといったESLの環境にある国々とは異なり、日本はガチガチのEFLの国である。あらゆる面で日常生活に英語のコミュニケーションが求められることはほとんどない国で、英語ができなくても暮らしに困ることなない。

1億2千万人の日本語のマーケットが存在し、どんな学問であっても日本語で学ぶことができる。単一言語でチャンスを掴み成功することが可能な、世界でも稀有な国の一つである。

そんな中で私たちはコミュニケーション、アウトプットにフォーカスした英語を教えている。私からすれば、意味がなく薄っぺらなアウトプットが量産される。

私は生徒の発表を聞きながら「Good Job!」と褒める。確かにうまく表現することができた。生徒に罪はない。しかし私は「果たしでこれがEFLの国で、巨大なマスとして向かう方向なのか」と思わずにはいられない。

ダメな英語教師

こうやって文章を書いていると、なぜ私がこのように疲労感を感じているのがわかってきた。私はこの国の英語教師として不適切な考えを持っていて、そのことと現実に教室で行っていることとの齟齬に苦しんでいるのだ。

外国語とは私にとって、私を構成する一部である。私のものの見方を作り、私が持たなかった形に世界を切り取り、私の中に新たな感情を作り上げる。

自分を表現するための英語ではなく、表現の中身を作るための英語なのだ。

「私の好きな国はイギリスです。イギリスはヨーロッパにあります。首都はロンドンです。フィッシュ&チップスが有名です。」

パワーポイントを使い、このような内容を英語で発表、そんな授業をすることもある。be動詞と一般動詞の区別もつかない生徒が多い中で、このような英語表現ができれば上出来かもしれない。

しかし、それは本当に私の教えたいことなのだろうか。決してそうではない。コミュニケーションとか表現力とか、そんなものをつけるために外国語を学ぶのだろうか。私はそうは思わない。

言葉を学ぶということは、その言葉が紡がれてきた人々の歴史を思想や行動様式込みで自分に憑依させることである。それは自らで自らを洗脳する危険な行為でもある。

英語を学ぶとき、私はアングロサクソン人の凶暴性や支配欲を無意識のうちに取り込む。同時に彼らの持つ美や秩序の世界、理性に対する信頼など、日本語では持ち得なかった世界に触れることもできる。

言葉は私たちの見る世界を形作る。だから新たな日本語であっても新しい言葉を知った後では、その言葉を知る前の世界に戻ることができない。

ましてや外国語を学ぶと、極端な話、自分の中にもう一人の自分ができる。外国語を学ぶことは、人間にとって劇薬のような作用ももたらすこともある。何しろ自分の知らない自分が現れるのだ。

例えば外国語の一つのフレーズ、文章を知ることで人生が変わることがある。日本語訳ではダメだ。その言語で頭に入り、心に落ちるから震えるほど感動するのだ。

そのドキドキ感、スリルを生徒たちにも感じてほしい。私は英語のそんな側面を伝えたいのではないか。しかし、そんなことを言う英語教師に私は会ったことがない。

「国際社会の中で活躍するため」「外国人とコミュニケーションをするため」「多くの情報に触れるため」これらが英語を学ぶ理由だと思う教師がほとんどの中で、私は異常な教師であろう。

私が笑顔で教室を出た後、深い徒労感を感じるのはこれが理由だと思う。自分のためにも生徒たちのためにも、私はこの職業を長く続けない方がよいかもしれない。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。