苦しいです
私は今、金曜の夜にこの記事を書いています。基本的に週に一度土曜に記事を更新するので普段は火曜か水曜日の夜に記事を書き始めます。もう4年間もブログを続けているにも関わらず、私の文章を書く速度は遅く、一本の記事を書くためには2時間はかかるのです。
自分を振り返り心を整えるための文章なので、書き始める前にテーマを決めることは続き物の記事を除いてあまりありません。キーボードを前に頭に浮かんだテーマをその時の気分の文体「ですます体」か「である体」を選択して書き始めます。
たいていは平日の夜に二度、1時間ずつパソコンに向かい、土曜の朝仕上げをして投稿という運びになります。連続2~3時間使って書き上げてもよいのですが、一度冷めた目で読み返したいのでそれはあまりしません。ブログに公開するということは自分だけが読む文章ではなくなり、人様に不快な思いをさせる可能性があるからです。
100%誰が読んでも全くダメージを与えない文章を書くことは無理ですが、できるだけ読む人のことを考えた文章を書きたいと思っています。そしてその丁寧さを念頭に思いを綴ることが自分の心の状態を整えることにもつながると感じています。
ところが今私は焦っています。明日投稿する文章を前日の夜遅くに書いているのです。しかも、一日の仕事を終えて体はかなり疲れています。正直言ってこうやって文章を書くのが苦しいです。しかし、その苦しさは私に大切なことを教えてくれます。
私は今なぜ苦しいと思っているのでしょうか。それは時間に追われているからです。「ブログを書かなくてはならない」、「しかし優先順位の高いことを行ううちに書きそびれてしまった」、「明日は記事更新の土曜でブログ執筆の優先順位が上がったがもう時間がなくて苦しい」これが私の心の声です。
何をするのか
結局私は同じところでいつも苦しんでいるのです。そしてその根本は「時間」です。時間がないことが私を苦しめるのです。時間は「命」と言い換えることができます。それは「この世にいることのできる期間」に他なりません。
私はその期間の短さについて嘆き、使い方について不満を持ち、長さと使い方のバランスについて焦りを感じているのです。
このことを解決するためには論理的に考えて二つの手段しかありません。一つは物理的に行うことを減らすことで、もう一つは与えられた時間は短くないという精神状態を作ることです。
両方からアプローチすることができれば私の苦しみは減るかもしれません。しかしそのアプローチを行うためにも時間とエネルギーを要します。どうやったら苦しみが減るのか考えて実行するのです。なんだかお釈迦様の行った修行のようです。世俗的で平凡な私にとってものすごくハードルが高い気がします。
片方を考えてみることにします。行うことを減らす方です。
私が普段の生活をしている中で、睡眠以外で最も時間を使ってることを考えます。これはすぐに出てきます。労働に付随した時間です。
私は高校教師をしています。朝7時に家を出て職場に8時前に着き、夕方6時ごろ学校を出て1時間かけて帰宅します。午前7時から午後7時までの12時間が私の「労働に付随した時間」であります。土曜はたいてい部活動で半日働きます。日祝は基本的に休日ですが、働くこともあります。
以上に述べた時間は私の基本的な「労働に関するスケジュール」ですが、基本はちょっとしたことで崩れます。働く時間が前倒しされることはめったにありませんが、後ろ側には頻繁に伸びていきます。
最近ニュースでよく取り上げられ知られてきていますが、教師の労働時間は決められているものの、実際それは形だけです。この記事では詳しく述べませんが、私も無給の時間外労働は普通に行ってきました。
ちょっとしたトラブルがあれば労働時間はどんどん後ろに伸びていきます。ここ数週間の私もこれに近いものがあり、遅くに家に帰るとブログ執筆という気分ではなくなります。
就寝するまでに残された時間で私は考えます。検定が迫ったイタリア語学習をするのか、仕事のための英文を読むのか、9月場所の幕内取組のダイジェスト動画を見るのか、衝動買いした本やマンガを手にするのか、妻や子どもと会話する時間を持つのか、それともブログの記事を執筆するのか。
最近のように「労働に付随する時間」が増えて、自分の手持ちの時間が減ると本当に苦しくなってきます。もちろん、私の心の状態は文章を書くことによって保たれているのでこのブログをやめるつもりはありません。しかし有限な時間の中でブログ執筆を選択することは、その時間でできていた別のことを放棄することに他なりません。
そのできなかったことに対して悔しいという気持ちが「どうやったらブログを書きながら時間を確保できるのだろう」という方向に私の頭を向かわせます。そして、それはいつも堂々巡りで終わります。限定要因があるからです。
限定解除
限定要因とは他ならぬ「労働に付随する時間」です。今の私の人生の中で最も時間を使っている要素です。おそらく、世の中の多くの人も同様でしょう。
私はよく動物について考えます。例えば牛です。牛たちはずっと草を食べ続けています。一日何時間食べているのでしょうか。5~6時間は食べていると思います。あの巨体をカロリーの低い草で維持するのですから当然のことかもしれません。食べて、寝て、繁殖するだけの存在に思えます。
そしてそのことは人間以外の全ての動物に当てはまります。私の目から見ると、動物たちは食べて個体としての自らを維持し子孫を増やすことしかしていません。動物に労働という概念はないと思いますが、人間に当てはめると労働に付随した時間がほぼ全ての中で生きているのです。
私たち人間は幸運なことに「個体を維持して繁殖する」以外の活動を持つことができる存在です。それは一方では苦しみの元ではありますが、そこから得られる愉悦の方がはるかに大きいと私は感じています。
話が逸れましたが、私が自分の行いたいことをする時間を確保するためには、この「労働に付随する時間」を削るしか手段がないのです。そして、それを削った後どのように「個体を維持して繁殖する」のかという命題に突き当たるので私の考えは堂々巡りをするのです。
もっとも私は年齢的に「繁殖する」という部分は考えなくてもよいのですが、繁殖活動の結果この世にやってきた子どもたちの養育はまだ残っています。
私は教師という仕事は好きなのですが、やはり時間的な拘束が大きすぎると感じています。夕方5時に職場を出られて土日祝に休みを取ることができればよいのですが、それは現在の時点では現実的ではありません。世間では教育現場の働き方改革が叫ばれており、徐々に環境も整備されてくるとは思いますが、現状を考えると5年10年の時間が必要でしょう。
私にとって大切な時間は今なのです。気力体力共に充実して体も自由に動かすことができる今やりたいことをしなくては、私は自分の人生に後悔すると思うのです。
後悔は行ったことではなく行わなかったことに対してするものだと言われています。オールトラリアのホスピスで数多くの患者の死を看取ったブロニー・ウェアは、人は死ぬ時何に後悔するのかを本に記しました。最も後悔することとして以下のような言葉が書かれていました。
I wish I’d had the courage to live a life true to myself, not the life others expected of me.
(他人が自分に望む生き方ではなく、自分に正直な人生を送る勇気を持てていたらなあ)
「どういう生き方をしたいんだ」私は何度も自分に問いかけます。
本を読みたい、ゆっくり音楽を聴きたい、湯治に行って何もせず漫画を読みたい、期間も場所も決めずに旅に出たい、明石焼きの店を開きたい、夏野菜を自分で作りたい、相撲を昼間からずっと見られる生活をしたい、徒歩で四国八十八カ所や西国三十三カ所を巡りたい、イタリアで半年ほど暮らしてみたい、日本中のサウナに行きたい、台湾語を勉強したい、世界中の鉄道に乗りたい、バイクで北海道を走りたい…
問いかける度にどう生きたいのかの答えは変わり、リストはどんどん長くなっていきます。仕事に疲れてブログの締め切りを気にしながらキーボードを打っている今の私からすると現実感の湧かないものもあります。
同じことを続けて違う結果を望むことは愚かなことであります。私が自分に正直な人生を送るためには入力を変える必要があります。そして、その変化を行う場所はもう分かっています。
私は仕事をする時間を減らすことを考えていきます。どうやって?真剣に考えて行動すれば道は必ず見えてくるはずです。