どちらで行こうか?

新たな悩み?

12月12日の全国通訳案内士2次試験から一月半が経ちました。試験用の勉強をやめると、今度は本棚から未読の本が私に「まだ読まれてないよ」と視線を送ってきます。そんなわけで、私はこの間かなりのペースで読書をしています。

本棚の本を読む傍らで、書店にもよく行きます。もともと書籍に関しては財布の紐がゆるい私ですが、クレジットカードで買うようになってからはその傾向に拍車がかかりました。

加えて、通勤途上に公立の図書館があるため定期的にそこへ立ち寄って本を借りてきます。買おうかどうか迷うレベルの本がタダで借りられるので、読む読まないは別にして目についた本があるとサッと手に取ります。

そのようなわけで、私の寝室には相変わらず未読の書籍があふれています。しかし、私は本を読み続けているので、少しづつ減って、また少しづつ溜まる、いわば流れのある堆積であります。

読むのは主に紀行文、ビジネス書、新書、エッセイといった脳に対する負荷が低いものが中心となります。そのような書籍を通勤電車や家での空き時間に読んでいきます。読書はとても楽しく心を満たしてくれる行為でありますが、最近はいろいろな人を知ることで新たな悩みというか、少し考えるべきことも出てきました。

それは服装に関してのものです。

世の中には素晴らしい人がたくさんいます。本を読むことは、時代を問わずそれらの人と出会うことです。本を通じて、それらの人の考えと自分の気持ちを同期、追体験しようとします。

「ああ、こういう考え方で行動していたのか。すごいな。」そう思えることは読書をしていて至福の瞬間でもあります。

そして最近、偶然かもしれませんが、そのような人たちの服装に関する記述を続けて目にすることがありました。そして私は考えさせられました。

「私は今のような服装をしていてもよいのであろうか。頭の中と身の回りを整理し、もう一度服装について考えてみてはいかがであろうか」

今はそんな気分です。

どちらにも魅力がある

私の中での迷いは、一言で言うと「服装に関してもっと手間と時間とお金をかけるかかけないか」ということです。

なぜこんなことを考えるのかと言うと、私が読書をする中で両方のタイプの人に出会い、そのどちらのタイプの人にも感心させられたからです。それぞれの考え方をまとめてみると、以下のようになります。

手間・時間・お金をかけない

  • 時間がもったいない。人生は短い、他人の目を気にするな。
  • 人が一日にできる判断の数は決まっている。服装ではなくもっと大切なことに使いたい。
  • 中身が備われば、何を着ててもそれなりに見える。優先順位は中身磨き。
  • 弊衣破帽。志を高く持つこと。服装はその次。
  • 最近は安くて良いものがある。お金を出さなくても充分満足できる。
  • ブランドは記号。自分をどう見せたいかのマウンティング合戦にはきりがない。
  • 清潔感が大切。現在はお金をかけなくてもいいものがたくさんある。

手間・時間・お金をかける

  • ブランディングの時代。個人をどう見せるかは服装によるところが大きい。
  • 服装に気を配れることは、その服を着て出会う人にも気を配れること。
  • 素晴らしい職人の世界がある。世界観が変わるほどの服や靴がある。
  • 服は人類史上最初の人工臓器。2番目は歯。
  • 本当に自分にあった服を着ることで、心や考え方も変わってくる。
  • 「イタリアに行ったら靴を誂えろ」という諺がある。靴は第2の脚。
  • 着ている間ずっと心がときめくのなら、値段が張ってもそれは高い服ではない。

私の周りを見ると、手間・時間・お金をかけない派の方がやや優勢であると感じます。それを端的に示しているのは、デパートやファッションビルの衰退です。

かつてはこれらの場所はお洒落を求める人々で溢れていました。私が少年の頃、DCブランドブームがありました。デパートやパルコなどファッションビルにはこれらのブランドが売られ、若者たちもそれなりにお金を使っていました。30数年前を振り返ると、当時の価格と今のそれはそれほど相違がないと思います。

現在、地方の多くのデパートは売上不振にあえいでいます。多くの店舗が消え、ファッションビルもなくなりました。残っている店舗も、紳士服売り場は縮小の一途をたどっています。

現在好調なのはユニクロを始めとする郊外型の安売り店舗とアウトレットモール、それにネットによる購入です。

社会全体がカジュアル化していて、人々は服にお金をかけなくなり、くだけた服装でも許される雰囲気があります。

私がそのことを驚きをもって感じたのは、2年半前に仕事で訪問したシアトルでした。アマゾンやマイクロソフトなど世界的な企業が本社を構えるこの街の中心部、数多く並ぶ高層ビルから出てくるのはカジュアルな格好をしたビジネスマンたちの姿でした。

ITエンジニアたちに、堅苦しいスーツにネクタイは不要なのかもしれません。そういえば、スティーブジョブスもいつも同じ格好をしていました。

世の中がカジュアルな方向に向かう一方で、そんな中であるからこそ光を放つ店もあります。私は頻繁に神戸の中心街へ出かけますが、そこでは数多くのセレクトショップや仕立て屋が頑張っています。「履き倒れの街」と言われる神戸ですが、靴職人もそれなりにいて、若い世代も育ってきているようです。

旧居留地や北野のあたりを歩き、お洒落に着飾った人々や意匠を凝らしたお店のディスプレイを見ると、これこそ文化であり平和な時代の人々の営みの象徴であると思わずにはいられません。

私の立ち位置

さて、服装に関していろいろと考え始めた私ですが、現在の立ち位置を考えてみたいと思います。

以前の私は無計画に服を買いながらも「あれが足りないこれが足りない」と言っていました。あるブランドのパターンオーダーのスーツを中心に仕事着をそろえていたのですが、何らかの欠乏感と物足りなさを感じ続けていたのです。

今思うと、それは私の心の状態を表していたのだと思います。心が整っていないから、着るものは十分にあるはずなのにまだ足りていないと思うのです。仏教で言う渇愛です。これを解決するのは「足るを知る」という考えなのは分かっていましたが、頭に概念があるだけでは何も変わりません。

そんな中、私はある日近藤麻理恵さんの本を読み、そして行動しました。結果、持っている衣類の量が半分以下になり、欠乏を感じることもなくなりました。

今の基本

これが現在の私の服装(仕事着)の基本ラインです。

黒いズボンを3本、黒・濃い茶色・明るい茶色のベルトとそれに色を合わせた靴3足を順番に繰り返していきます。シャツやジャケットはどう組み合わせても合う基本的な色合いばかりです。

朝、洗顔歯磨きの後、靴下を履きます。靴下も紺か黒なので迷いません。いつもの黒のズボンを履き、昨日と違う色のベルトを取り、適当にシャツとジャケットを着て、ネクタイはせずにシルバーのチーフを入れ、ベルトと同じ色の靴を履いて出勤です。

朝の気分がすごく楽になりました。服装について頭を使うことがないのです。シャツにしてもズボンにしても、悪くなったら捨てて同じものを買い足せばいいのです。靴箱もクローゼットもスッキリして気持ちいいです。

服装についてあれやこれやと考えていた頃と比べて、明らかに朝の表情もいいと思いますし、昔に戻りたいとは思いません。

しかし、ここからなのです。服装に関するさまざまな人の考えを知った後、私がそれをどう消化して行動に移していくのか、その岐路に今私は立っています。

たかが服装のことですが、それはこれから自分がどういう人生を送っていきたいのかということにつながっています。

これからどうする

「ワクワクしながら生きていきたい」「充実した人生を送りたい」「死ぬ前によかったと思える人生を過ごしたい」

私にとって最も大切なことであり、現状ではこれらができないと思ったところからこのブログは始まりました。

2年半続けてみて、私の周りでさまざまなことが変わってきています。20年近く変わらなかった、持ちながらも欠乏感を感じたままだった服装についての変化もその一つです。

今はそれなりに満足しています。しかし、それで十分かと言えばそうではありません。

”手間・時間・お金をかけない派”の意見の中で最も共感できるものは「一日のうちにできる判断の数は決まっている。もっと大切なことに使いたい」というものです。

服装以外にも細かなこと、例えば仕事で自分で考えれば誰でも分かるような簡単な判断を求められたり、家で妻に食事のメニューの詳細を聞かれると疲れを感じる時があります。

「自分で考えればわかるやろ」とか「あなたの作るものは何でもおいしく食べるから」と言いたくなります。

そのようなことで疲れる前に、脳のエネルギーはもっと創造的でワクワクすることに使いたいと思うのです。

反対に”手間・時間・お金をかける派”の意見では「素晴らしい職人の世界がある。世界観が変わるほどの服や靴がある」というものにたまらなく魅力を感じます。

先日、井上ひさし氏の書いた「ボローニャ紀行」を読みました。氏がボローニャで靴を注文しようとしたときの下りが印象に残りました。採寸して2週間で利き脚の靴を作り、それを室内で1か月履いた感想を聞いてからもう一方を作るので合計2ヵ月かかるというのです。

10分で買う靴を決める私が、このような靴を履いたらどんな世界が待っているだろうと想像すると、ワクワク感が止まりません。

どういった気持ちで、どういう質の人生を送るのか、確かに服装はそれと密着に関係していると思います。

私が進むべき方向は、今のシンプルな服装を維持したまま、その質を上げていくことなのかと思います。

具体的には黒のズボン、ジャケット、シャツを自分の体に合った心地よいものに変えていく。3種類の靴を履きやすいものに変えていくということです。

しかし、ここでも「どの程度まで」という問いが生まれます。

神戸にあるある靴工房の料金は32万円からとなっていました。自分専用の木型を作り、複数の職人が最上の革を使って時間をかけて作るのでそういう値段になります。

ここまではいかなくても、パターンオーダーでいけば10万円以下で靴を作ることができます。10万の靴を買ったことはありませんが、無理をすれば買えないことはない金額です。

私は自由な生活を目指しサイドFIREも目指しています。10万円と言えば250万円の金融資産に相当する額です。良いものを買えば、それだけサイドFIREが遠くなります。

しかし、私の人生はいつまで続くのか誰にも分かりません。良いものを身につけて気持ちが高まり、行動が変わるのは今なのかもしれません。

この塩梅が非常に難しく、自分のなかに強い芯・哲学・人生観を持つことが求められるのです。

どちらのタイプの人であれ、私が本を読んですごいなと思った人に共通することがあります。それは、服装がゴールではないということです。

こだわる人も、こだわらない人も、何か自分が全力で求めるものがあり、それを求めるために服装や持ち物にこだわったり、またその逆であったりするのです。

このことはとても重要なことであり、私が自分をよく見せることを第一に考えて服装にこだわれば失敗するということを示唆しています。このことが分かっただけでも、私にとっては収穫です。

服装に関して、自分がどういう方向に進んでいくのか、迷っていますが力を入れるのはそこではないと思うので、気持ちは案外ゆったりとしています。


投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。