お酒をご馳走になった
今日は木曜日。仕事が終わり、いつもの立ち飲みへ行く。
店内には客が3~4人。その中に郵便局勤務のK君がいた。彼は、この店の常連で私と仲が良いWさんに連れられて来るうち、一人で店へ来るようになった新たな常連客。そのうち、私とも知り合いになった。
15分ほど一緒に飲んでいると、K君は店主から一升瓶を受け取り、店内のお客さんに向かって、
「よろしかったら、このお酒を一緒に飲んでいただけませんか」
理由を聞く。彼は今まで非正規雇用で働いていて、この度郵便局に正式採用された。先輩のWさんが、お祝いのお酒を一本店に入れたそうだ。
今日、K君が店に来たので、店主がそのことを彼に伝え、その場にいた皆で祝杯を挙げるという流れになった。
K君がWさんに電話する。「ありがとうございます。…… 今日皆さんでいただいていいですか?」
「俺が来るまで待て」などと、ケチなことをいうWさんではない。その場で乾杯、一杯ずつ祝い酒を味わい、残りはこれから来るお客さんのために取っておかれた。
私は「久しぶりにいいもの見たな」と温かい気持ちになった。
知り合いの吉事に何かを送り、その何かが本人だけではなく周りにいる人、さらに見知らぬ人にまで伝わっていく。考えるとワクワクするようなこの「恩送り」の風習、私の周りで無くなりつつある。
先輩とサシ飲み 3つのパターン
恩送りの一番わかりやすい例が、先輩に誘われて飲みに行くことである。予め計画された飲み会ではなく、普段、何かあった時「ちょっと行って、話しようか?」という状況。
職場の先輩が私に声をかける。「今日、軽くいこか?」駅へ向かう途中の居酒屋で、瓶ビールを注ぎ合いながら先輩の話を聞く。気持ちがほぐれ、私の話も聞いてもらう。たこブツやホッケの塩焼きを一緒につつき、飲み物は瓶ビールから徳利へと移行、時間は瞬く間に過ぎていく。
1時間半後、よい心持ちでお勘定。
私の経験上、この先3種類の展開が存在する。飲んでいる人数や年齢構成によってさらにバリエーションは分かれるが、ここは先輩とサシで飲んで6000円の場合。
展開1:「ここはいいから、俺にまかせて」
展開2:「それじゃあ2000円だけ頂戴」
展開3:「割り勘でいこうか」
殆どの場合、展開1か2になるが、たまに3の場合がある。皆さんいろいろと懐事情もあるけれど、飲みトークの内容が説教や自慢話の後の割り勘は、結構酔いが醒めてしまう。私はこれをS&W(説教&割り勘)と呼ぶ。
展開1の場合「ここはいいから」と言われても、こちらも大人、「私も払いますよ」と一度は言ってみる。そんな時、先輩からかなりの確率で出てくる言葉がある。それは、
「この分は、君が上になったら後輩にしてあげて。俺もそうしてもらったから。」
この先輩も若き日、その先輩からプレゼントを受け取っていたのである。そして、”先輩の先輩””を直接知らない私が、今度はその恩を受け取る。
私も働き始めて20数年が経ち、年上と比べて下と飲みに行くことの方が多くなった。さすがに後輩5人を連れて飲んだ後「ここはすべて俺が…」とはいかないが、こちらが誘ってサシで飲む時は、私が勘定を持つことにしている。
そして、礼を言われたら、ほろ酔い気分の私は後輩に、私が先輩から受け取ったあの言葉を渡す。「自分が間接的に受け取ったお金が、時間と人をずらしながらつながっていく」なかなか楽しい気分になる。
時代の変化と共に消滅するのか
このちょっとした「恩送り」の習慣、お酒に関して言えばずいぶん減ったと思う。
まず、職場の人間と飲みに行くことが少なくなった。送別会や忘年会といった予め計画された会はあるが、突発的なものは減った。その日の終わりごろ、少し話を聞いてもらいたかったり、気持ちをリセットしたい時、サッと目が合って「ちょっと行こか?」の会。小1時間ほど飲んで話して「じゃあ明日」の会。
こういった、少人数の突発的で後を引かない飲み会は「恩送り」をしやすい。
今は時代が変わり、後輩とのお酒は、誘い方によっては”パワハラ”と呼ばれてしまう。何軒もハシゴして、終電まで続くような会は私も嫌いだが、このパッと行って、チャッと飲んで、シュッと気分転換できる会、仕事の効率と人間関係のクオリティーをあげるのに有効だと思うのだが。
そういえば、上司もそのまま帰宅することが多くなったと感じる。なかなか給料が上がらないこととも関係しているのかもしれない。
仲間としての連帯意識、個人間の付き合いが減少していることも「恩送り」をする機会を減らしているのかもしれない。
人間は迷惑をかけたりかけられたり、祝福したりされたりしながら生きてきたと思うのだが、今はこの「お互い様」がなくなりつつあると感じる。恩を送ったり送られたり。これには、いろいろ気を使って煩わしい部分もあるが、自分を誰かが見守ってくれているという安心感は、それ以上のものだと思うのだが。
今日、WさんからK君を通じていただいた酒、おいしかった。今度はK君がまだ見ぬ後輩のために、この店にお酒を入れるところを見てみたい。そんな文化、消えつつあるが、残ってほしいし、少なくとも私が関わる部分では残していこう。