顔を少し上げてみると
こんにちは、大和イタチです。
「十分恵まれているにも関わらず、心からの幸せを感じられない」そのズレを調整するためにブログを始めました。第1回を書き終えて読んでみました。気持ちの整理をノートにしていた時は、メモや箇条書きで終わっていましたが、タイトルと段落をつけた文章を見ると、何となく頭の中も整理されているような気分になるので不思議な感じがします。
頭は少し整理されても相変わらず心はモヤモヤした状態です。こんな状態だからなのか、道行く人々の顔を見ると「自分と同じ気持ちではないのかな」と思えてしまいます。自宅→駅→電車→職場、約1時間の通勤時間の間、常に近くに人がいるわけで、スマホをほとんど見ない私の視野には道行く人々の表情が嫌が上でも入ってきます。そして、それらの人々の表情を見るたびに「モヤモヤは私一人じゃない」と思わずにはいられません。
朝の通勤の時間帯は特にひどいです。職場の最寄り駅で下車し、階段を下る時に反対側の人々の表情を見ます。数十人、数百人の色の無い顔が私の横を通り過ぎていき、その瞬間だけで今日一日気が滅入りそうになります。無表情にスマホを眺めながら歩く人、力ない目をして前の人の背中を見ている人、すれ違っているのに私と目が合う人はほとんどいません。「みんな何か心にモヤモヤを抱えながら生きているのかあ」と思いながら見ているのですが、そういう私もモヤモヤなので実はすれ違う人たちも私を見て気を滅入らせているかもしれません。
それにしても、どうしてみんなこんなに楽しくなさそうな表情をしているのでしょうか。幼稚園や小学校の横を歩くとほっとします。全力で楽しさを表している子供が見えるからです。彼らの持つワクワク感が私中年オヤジにも伝わってきます。中学生→高校→大学と年を重ねるごとに自由は増えていきますが、楽しいこと、ワクワクすること、人を笑顔にさせることは減っていくのでしょうか。このようなことを思いながら通勤しています。でも、こんなことを考えながら道を歩く私の表情を想像してみると、少なくとも私に人の表情をとやかく言う資格はありそうにありません。それとも、実は道行く人々はそんなに悪い表情をしているわけではなく、私の心のモヤモヤがフィルターになって、私の視覚を歪めているだけかもしれません。
歴史上最多の笑顔
今から20数年前、私は初めてデジタルカメラを使いました。職場のものでした。黎明期のデジカメは画質も荒くプリントされたものを見て「やっぱりフィルムはまだまだ残っていくな」と思ったものです。それから5年ほどで、プリントした画質は素人目にはあまり変わらなくなってきました。その間、確か2000年代初頭だと思いますが携帯電話にカメラが付きました。この時から、写真の概念が変わりました。写真は、プリントアウトして眺めるものというより、電子媒体の上でやり取りされるものになったのです。フィルムや紙の制約を受けなくなった写真は、携帯電話の記憶容量の増大と相まって、ほとんどコストのかからないものとなりました。フィルム代、現像代を合わせると1枚当たり数十円のコストがかかっていた私の子供時代から考えると隔世の感がします。
そして無料となった写真は爆発的に増加します。世界で撮影された写真の枚数の総計は出しようがありませんが、今全世界で撮影されている写真の枚数は、写真用フィルムが最も売れた年に製造されたコマ数の数十倍または数百倍はあるでしょう。老若男女問わず、何かあるとスマホを取り出し撮影するというのは、もはや現代人の定型的な身体運用になりました。目の前に有名人がいて、それを見に来た人々が全員スマホを片手に持ち、直接ではなくスマホの画面を通じてその有名人を見ている、一昔前なら滑稽話として扱われていたことが今では当たり前すぎて笑えません。
前置きが長くなりましたが、私が言いたかったことは、写真がタダになった今、おそらく写真の歴史上最大数の笑顔がその中に含まれているのではないかということです。観光地でピースサインをしながら微笑む人々、中年のおじさんやおばさんもスマホで自撮りをします。そして、一番笑っているのは中学・高校生。一日何十回も友達同士、笑顔を撮影。年齢を問わずにSNSが普及し、それら撮影された笑顔はツイッターやインスタグラムを通じで世界中の人に公開されます。「インスタばえ」「リア充」といった言葉が生まれ、個人の一日が画像・動画付きで全世界に公開される、そんな時代になりました。百人や千人の話ではなく、日本だけでも数百万数千万の単位でSNSのアカウントが存在します。
人に公開される個人の日常。できれば笑顔を見せたいものです。実際にSNSの世界には笑顔が溢れています。私は、単純に、幸せそうな顔をしている人を見ると自分も幸せになったような気がして嬉しいのですが、同時に「どうして自分は笑顔じゃないのだろう?そうなってもいいはずなのに。」と思ってしまいます。「リア充」という言葉に代表されるように、現在ぐらい実際の暮らしと幸福度の関係に敏感な時代はないのかもしれません。自分の暮らしを誰かに公開して、その幸福度を査定してほしい、笑顔の写真と「いいね」の数はそういう相関関係となっており、それを行うことで実際に多くの人は幸せを感じているのだと思います。
これだけSNSが存在する時代、私が毎日すれ違うあの人々も何割かは自分の笑顔を、そして幸せを公開していることでしょう。しかしながら、今日も通勤しながら気持ちが滅入ってくるのは、やはりすれ違う人々というより、それらの人々の表情を読み取る私の網膜と脳との間にもやもやフィルターがあるからなのでしょうか。