自然状態の人間
「一寸先は闇」
“There is no knowing what will happen in the future.”
新しい年を迎えるたびに「今年はどんな年になるのだろう」と思う。それと同時に「あと何回正月を迎えることができるのだろう」とも。
僕たちは、今日と同じような日が明日もやってきてそれがずっと続いて行くように考える。それは人間を狂気から救う心の機能だ。先のことは分からないにしろ「明日死ぬ」と思いながら正気で生きていくことはできない。
人間に生まれてよかったと思う。食物連鎖の中にダイレクトに投げ込まれた、いわゆる”自然状態”の中では、未来を考えながら生きていくことができない。
海中の小魚、川辺を舞う昆虫、森をはい回る小さな哺乳類、食物連鎖の頂点にいる動物以外、今この瞬間も捕食されるされる高い可能性の中で生きている。そして、事実ほぼすべての動物は他の動物の餌となりその生涯を終える。
人類はアフリカで誕生したことになっているが、初期の人間は食物連鎖の頂点に立つことができなかっただろう。体格を考えれば上位のいい所まで行っているが、肉食の猛獣たちにはかなわない。
おそらく、我々の遠い祖先はアフリカの地でたくさん食べられていただろう。他の動物と同じ”自然状態”の中で、捕食したりされたり。そしてそのような環境では、時間の概念は持てなかったかもしれない。「時間」が無ければ「死」も存在しなかっただろう。
人間に生まれてよかった
なぜ人間が二足歩行を始め大脳が発達していったのかは分からないが、結果的には私はその恩恵を受けているし、そのことで悩んでもいる。
人間の進化が食物連鎖のルールに風穴を開け、体力的に最強ではなくてもその頂点に立てるようになった。少しづつ余裕ができてきた。未来が正確に分からないことは変わりがないが、かなり高い確率で明日の生存をあてにできるようになった。
他に選択肢などなかったのだが、この時代に人間として生を受けてよかったと感じる。
毎日の生活でトラブルに巻き込まれることはあるが、自然状態の動物のように命を奪われることはほぼない。つまり、私たちは時間をコントロールすることができる。来週のこと、来年のこと、10年後のことを考えながら生きていくことができる。
「死」は誰に対しても例外なくいつか訪れること、それは分かっていても、そのことをうまくかわしながら生きていくことができる。
僕がブログを始めたのは、人生の半分が過ぎようとする中でモヤモヤを抱えたまま生きるのが嫌だったから。しかし、今、自分が人生の折り返し地点にいる保証など何もない。40%かもしれないし80%まで来ているのかもしれない。
とは言っても、こんな予測を立てられること自体が幸せなことかもしれない。少なくとも、頭の中では40数年後までの未来を予測いながら生きることができる。
自然状態を克服したはずが…
ここ1月以上、ニュースはコロナウィルスの話題で持ちきりである。
人口1,100万人の都市が封鎖されるというニュースを見たあたりから、この出来事の深刻さを意識するようになった。その後すぐに伝えられた10日間での大規模な仮設病院の建設。裏を返せば、そのような一見不可能に思えるぐらいのことをしなければならないくらいひっ迫した状況。
クルーズ船のニュースやイタリア・韓国での感染拡大、そして日本でも感染が広がり、今では中国本土のニュースがあまり入ってこなくなった。
死者の数も増え続けている。2月末現在、全世界で3千人近くの人がこのウィルスによって亡くなった。
人を死に追いやる理由は数限りなくあるが、僕はこのコロナウィルスで亡くなった人々の気持ちを考える。
新型肺炎の存在が明らかになってまだ2か月も経っていない。2か月前といえば、台湾を旅行し、実家に家族で帰り新年を迎えた。「今年はどんな年になるのだろう」新しい年を迎えることと、1つ年齢を重ねることの不安が混ざったいつもの複雑な気持ちになった。あの頃、すでに中国大陸では混乱の種がまかれていたのだ。
中国の人々も、まさか数週間後に国中がこのようなパニックになるとは予想していなかっただろう。数週間前にはその名前さえ知らなかった病気によって、あっけなく命を落としていく。
自分たちの周りに何が起こっているのかわからないまま体が衰弱していく。明日やること、1か月後の予定、3年間の計画、それぞれ自分の未来が当然やってくることを前提として生きながら、その道が一瞬で絶たれる。しかも相手は目に見えないウィルスによって。
自然状態でのバトルロワイヤルを知恵を持って克服したかに思えた人類が、食物連鎖上位の捕食者ではなく、目に見えない敵によって簡単に命を奪われる。
人生の儚さを感じずにはいられない。
どうやって生きていけばいいのか
亡くなった人々の気持ちを考えると僕も気持ちが沈んでくる。クルーズ船での船旅、誰もが味わうことができるものではない。時間とお金を使う最高の贅沢の1つ。そんな旅の終わりが隔離と感染、そして三途の川への船出となる。
天国から地獄への垂直落下。こんなことを書いている私も、明日ウィルスに感染しない保証はどこにもない。
人生はつくづく儚いものだ。
僕はどうやって生きていけばよいのか。
未来の計画を立てることをやめればいいというものでもない。人生は儚いかもしれないが、そうであるとは限らない。せっかく、人間が余命を計算することができる社会を作ったのだ。それにのっかって生きたい。
僕はイソップ童話の子羊と狼の話を思い出した。
小川で水を飲んでいる子羊に狼が因縁をつける。「俺の飲む水を汚したな」と。
子羊は狼の下流にいるので狼の言い分は通らない。その事実を狼に告げると狼は「お前は去年俺の悪口を言った」と別の因縁をつける。
子羊は生まれて半年なので去年はいなかった、と申し開きをするものの、腹をすかせた狼は子羊を食べてしまった。
何とも後味の悪い話だ。人間の視点で見るとなんの罪もない子羊が理不尽にも命を落とす、そんな不条理なお話。
しかし、罪とか理不尽とか不条理は人間の作り上げた考え。人間は自然状態を完全には克服していない。日常生活では意識しなくても過ごせる死が、自然の摂理によって時に牙を剥いてくる。
Learn as if you were to live foever. Live as if you were to die tomorrow. (永遠に生きるつもりで学び、明日死ぬつもりで生きなさい)
捕食される心配のない食物連鎖の頂点で時間を手に入れたことへの感謝、そしてその時間は時に不条理な方法で奪われることがあること、この二つの事柄を毎日確認しながら生きていくしかないと思う。