2020年も終わりをむかえようとしている。私の中で変化の兆しが見えた1年だったと言える。いろいろなことがシンプルになってきている。複雑から単純へ。今まで頭の中でわかっていた概念が、実感を伴って理解できるようになってきた。
「服が無い」がない
2月に近藤麻理恵さんの本を読んだ。「人生がときめくかたづけの魔法」というベストセラーは、妻が買ってきたものであった。しかし、読んで内容を実行したのは私の方だった。
和室に持っているすべての服を並べ、1つ1つを手に取りこう考えた。「この服を持つことは私の心をときめかせるか?」
その結果、約半分の服を捨てることになった。私の体は1つで、一度に一組の服しか着ることができない。どう考えても多すぎる量の服を持っていた。しかし私はいつも妻に向かってこう言っていた
「着る服が無い」
雑然としたクローゼットの中からまずシャツを取り出す。そしてそれに合わせるジャケットとズボンを考える。そこから「靴は何色にしようか、ベルトはこれでいいのか?」「そういえば今日はスーツの方がよいのではないか?」朝の貴重な時間をどうでもいいことで消費していく。
コンマリ流片づけを行った後、ほとんど服を買わなくなった。すっきりしたクローゼットや下駄箱を、また不要なもので溢れさせるのが嫌だった。
衣類が少ないと物事をより単純に考えられるようになってきた。こんな感じだ。
仕事用の服
- ジャケット2種類
- 黒のズボン2本
- 黒、濃い茶、明るい茶色の靴と同色のベルト
- スーツ上下
- シンプルなシャツ1週間分
私の職場は基本的にネクタイなしのジャケパンで構わない。スーツは特別な時用に1着あればよい。
上のワードローブのポイントはズボンと靴である。今までここの種類が多かったため、それが悩むポイントになっていた。
学生の制服のようにズボンは黒のみ、靴は3種類をローテイションで回していく。その代わり、これらは少し上質のものをきれいな状態で履く。ズボンも靴も傷んできたものから、同じ色・同じ形のものを買えばいい。
他人は私が思う以上に私の服装を気にしていない。実際私も、同僚がどんな格好で仕事をしているのか、いちいち覚えていない。
大切なことは、清潔な服や靴を身に付けることであり、朝さわやかな気持ちで家を出ることである。
どうして私は、こんな簡単なことに20年以上気が付かなかったのだろう。今になってそう思う。
一週間の内5日を過ごす仕事着がシンプルになれば、残り2日の休日用の服は、極端な話1種類でもいいぐらいだ。靴はカジュアル1足とバイク用のブーツがあればよい。
雑多な物を持ちすぎるより、いい物を少なく所有した方がはるかに気持ちがいい。年当初と比較してはるかに所有物は少ないにも関わらず、年末の私はもう「服が無い」と言わなくなった。
無条件にありがたい
朝、目を覚まし台所へ行き1杯の水を口にする。その時、感謝の気持ちが湧き上がってくる。
「今日もこうやって体を動かすことができる。なんて有難いことなのだろう」
「私は恵まれているのに幸せを実感できない」そんな思いからブログを書き始めた。1年半前のことだ。最近では記事更新のペースも落ちてきているが、それでもだいたい週に1回、この1年半で130回以上自分と向き合い、幸せについて考えてきた。
画面の向こうでこれを読んでいるであろう読者の存在を頭に入れながら、私と私のアルターエゴである大和イタチが、幸せとは何か、頭の中からひねり出そうとしてきた。
その答えはまだわからないが、最近無条件にありがたさを感じるようになってきた。「モヤモヤしててもいいんじゃないか、こうやって自由に体を動かして、飲み食い出来て、言葉をしゃべることができて、毎日過ごすことができたら」そういう気持ちになることがある。
特に朝、私の体のモードが「静から動」に変わる時、そうやって切り替えができることが嬉しい。それは寝たまま、つまり「静のまま」の状態は死を意味していて、毎日死を克服していることを感じているからかもしれない。
ブログを書き始めていたころを振り返ると「~しなければならない」という呪縛に取りつかれた私であるが、「元気に生きてたら、それだけでええやん」と思えるようになってきた。
もちろん一日中そのような気持ちになるわけではない。仕事や家庭といった毎日の生活で、怒りや悲しみを感じて心を揺り動かされることはあるが、それを含めて「まあええか」「それもアリか」と思えることが多くなった。
「人はどうして生きているのだろう」とか、「私はいったい誰で私以外の存在とどういう関係にあるのだろう」など、相変わらず哲学的な問いに頭を奪われる一方で、ただ単純に「こうやって朝を迎えて、水を飲んで体を動かせることがありがたい」そう思うことができる自分ももう一方に現れ始めた1年であった。
本当に仕事を変えたらダメ?
6月にふとしたことから、明石焼き屋を開業することを思いついた。最初は冗談であったが、今では本気の要素も入り始めている。
そもそも、働き始めて20数年、職を変えるという発想が無かった。「60歳の定年まで働いて、年金受給まで5年間関連した部所で再雇用してもらい、後は年金をもらいながらゆっくりと暮らす」それを疑うことなく今まで過ごしてきた。
65歳になった自分は、私の頭の中では今の体力・気力そのままだ。もっと言えば自分の元気さは、20代の頃とそれほど変わっていないと思える。
しかし、そんなことはあり得ないのだ。「お前は今この瞬間を100%楽しむことができているか」「老後に今と不釣り合いな幸せを予測していないか」私は自分に問いかけながらドキリとしている。
「時間があれば」「お金があれば」という条件付きで、将来の楽しい姿を想像している一方で、「今本当に時間はないのか?」「本当に楽しいことをするために使えるお金はないのか?」という問いは避けようとしてきた。
私は今を全力で生きていないことを「老後楽しんでいる自分の姿」に置き換えて、問題を考えることを避けてきたのだ。
「退職したら、その時いくらのお金と時間をどうやって使う?」その問いに対して私は具体的に答えることができない。その時がやってきたら「70歳になったら…」などと問題を先送りする姿が想像できる。
この1年間、書籍や動画から様々な魅力的な人を知った。すべての人に共通しているのは「今、この瞬間行動している」ということ。「考えがまとまってから」でもなく「時間やお金ができてから」でもなく、今なのだ。考えながら、お金や時間を作りながら行動するのだ。
今を生きている人が、20年後の「今」も楽しそうにしている姿は容易に想像できる。しかし、希望を20年後に置いたまま、今モヤモヤと生きている人間が、20年後の「今」を全力で生きている姿を想像することはできない。
それならば私にとって大切なことは、今日一日、そしてこの瞬間なのではないか。
「お前は今の生活に本当に満足しているのか?」「お前の人生でやっておきたいことがあるのではないか?
私が必死に避けようとしてきた問いが目の前に現れる。
別に「今すぐ明石焼きの店をやれ」というわけではない。「今まで自分が取りつかれていた思い込みが本当のことかどうか考えろ」そう言っているのだ。
「今の仕事を辞めたら困る」
→ 何に困る?お金?見栄? ⇒ 多分お金
→ これから必要な費用を計算したことあるか? ⇒ ない
→ 1年間フリーになったらやりたいことないんか? ⇒ ある
→ フリーになった後自分で稼ぐ力はないんか? ⇒ ・・・・・
・専門性の求められる仕事を20年以上やってきた。
・田舎に帰れば少しではあるが田畑がある。
・今年英検1級を取得し、次はイタリア語2級を目指す。
・明石焼きを毎週焼いて研究している。最後の鍋職人と知り合った。
私の中でこれらのドットをどうやってつなげていけばよいのだろうか。何となくつながっていきそうな予感はある。特にこの1年間は、いろいろと行動でき、手ごたえもあった。
不必要な保険やその他経費を見直したり、お金の勉強を始めたり、簿記の検定を受けたりと、それらの行動を行う中で「今の仕事を定年まで続けなくては」という考えは徐々に無くなってきている。
複雑に絡み合ったモヤモヤの糸がシンプルになり、「何とかなるかも」と思い始めている自分もいる。このまま仕事を続けるのか、明石焼き屋を始めるのか、それともこのブログを基にして別のことを考えていくのか、未来はわからない。
しかし、明るい気持ちで自分の直感を信じ、心地よさを感じるアンテナを磨いて行けば、悪いようにはならない、そう感じることができた年末でした。
来年も、ドットが繋がることを信じて行動していきます。