2021年秋
3年前の秋、私は何気なくネット検索にある言葉を入れ、その結果を見て狂喜しました。入力した言葉は「デッキバン モデルチェンジ」、検索結果には2021年12月の文字が見えたのでした。
あの人気のないデッキバンがモデルチェンジをするなんて、ひょっとしたら製造中止になることも覚悟していた私にとって信じられないニュースでした。マイナーな車種とはいえ好きな人はいて「ジャパニーズピックアップトラック」などと呼ばれ紹介動画もいくつかありました。
私は毎日のようにHPを検索してデッキバンの新しい情報を探しました。そしてモデルチェンジが近づくにつれ、さらに嬉しい情報が届いてきました。
今までハイゼットの1タイプという位置付けだったデッキバンですが、新モデルではアトレーにも設定されるというのです。アトレーはハイゼットに比べて商用車のテイストが薄い車です。その上、アトレーにはターボエンジンが搭載されるというのです。
私の心は決まりました。デッキバンを購入するにあたって唯一心配だったことはエンジンのパワーだったのです。私は日常的にはほとんど車に乗りませんが、月に一回程度実家へ片道2時間以上かけて車で帰る用があるのです。
若い頃は平気で夜通し運転していた私ですが、この年になると非力な車で2時間以上のドライブはストレスと疲労が溜まります。
そんな中、デッキバンにターボエンジン搭載の知らせは「私のためにダイハツが頑張ってくれたのではないか」と思うほどでした。もともとデッキバンは街の電気屋さんが横置きできない冷蔵庫を配達するために開発された車です。パワーのあるエンジンなど必要ありません。
そんなデッキバンがより乗用車テイストの強いアトレーに設定され、ターボエンジンを搭載されるとなれば、これは私が思っていた通り「かっこよくデッキバンに乗る」時代がきたということに他ならないでしょう。
私の心は決まりました。次の車はアトレーデッキバンです。しかし、それまでに行うことがありました。妻を説得することです。
大抵のことで私のセンスを理解してくれる妻ですがデッキバンだけは「あんなスリッパみたいな形はイヤ」と言い続けていたのです。
奇跡の後迎えた朝
アトレーデッキバンが登場してから2年半、私はさまざまな方法で妻にデッキバンの素晴らしさを伝えようとしました。しかし、物事はたいていそうですが、気持ちのない人に対して押せば引かれます。順序が違うのです。だから私はデッキバンのことを口にするのをやめました。
しばらくすると奇跡的なことが起きました。妻が「オレンジ色のデッキバンはかわいいと思う」と言い出したのです。
それから数ヶ月後、あと1年は乗るはずであったミニバンが調子を崩し、これ以上乗るのが危険な状態になりました。
私たちはオレンジ色のアトレーデッキバンを買うことにしました。何だか信じられないような気分でした。あれだけ苦労して説得しようとしたことが夢のように感じられました。
ダイハツに連絡をして普通のアトレーの試乗を申し込みました。デッキバンの試乗車を置いているところなどないのですが、同じエンジンなので感触はつかめます。
ディーラーへ向かう朝、私は「話があるんだけど」と妻に起こされました。
「昨日寝る前に写真を見て驚いたの。そしていろいろ考えたら私たちに今必要な車じゃないと思ったの」
妻が写真で見たものはデッキバンの純正荷台カバーでした。妻はそのあまりの貧弱さとかっこ悪さに絶句したようでした。
確かに妻は気持ちがデッキバンに傾いた時、何度も私に「あの荷台を覆うカバーはあるの?」と聞いてきました。私は「純正のものがあるよ」とだけいい加減に答え、どんなものか説明しませんでした。
妻は頭の中でカスタムショップが作っているようなカッコいいトノカバーを想像していたのでしょう。そして前日私が寝た後で見た純正カバーに幻滅して我に帰ったのでしょう。
正気になった妻は私に真剣に話しました。私たちの現状、子どもたちのこと、お互いの親のこと、そしてそれらがこれからどういう変化をしていくかということ。そんな中でデッキバンが「今日買いに行く車」として適切なのかどうかを。
妻のいうことにも一理あります。というか正しいです。私が想像するデッキバンは常に趣味の延長にあります。片道2時間以上の運転を定期的に行ったり、時には子供達を実家に連れて帰ったり、歳をとっていくお互いの親を乗せたりということを考えると私の考えていることが最適という結論は出てきません。
とはいっても私の気持ちがついていきません。私は半分ふてくされながらダイハツに行き、妻とアトレーの試乗を終え適当に店員さんと話をしてディーラーを後にしました。
倒錯した心
私の長年憧れた車は、それに手を触れる直前で私から離れて行きました。なんとも悲しい気持ちになりまいたが、ダイハツを去りながら私は「ここへ再び来る」と思うと前向きな気持ちになりました。
さて、デッキバンは再び夢となりましたが、定期的に遠い実家に帰る私たちには車が必要になります。「カーシェアリングにしようか」という考えも浮かびましたが、今の頻度で帰省することを考えると費用面でそれほど違いがありません。変わらないのならいざという時に使える方がいいのかと思い、私達は中古車を探すことにしました。
「中古」にしたのは「時期が来たらデッキバン買うよ」という妻と私との合意を表しています。
ある大きな中古車店をふらついていると、一人のベテランの店員さんが私たちに近づいてきました。この道のプロというオーラが漂っています。
店内のテーブルにつきました。妻がトイレに行っている間、私は今日ここへ至るまでの道筋、デッキバンに対する私の思いや妻とのやりとり、親を含めた家族の状態をマシンガンのように語りました。
妻が帰ってきた後、店員さんは「私に任してください」というと私たちを展示場へと連れて行きました。
私は1時間後、車購入の手続きをしていました。オレンジ色のアトレーデッキバンに乗るはずだった私達は、今、オレンジ色のハイブリットカーに乗っています。
「ガソリンエンジンがあるうちはハイブリットに乗らない」私はそう思っていました。「ぶりぶりハイブリットなんか乗りたくない」と周りの人に言っていました。
しかし、乗ってみるとモータの加速は素晴らしく音も静かでとても1200ccの車とは思えません。先日初めて実家を往復してみたのですが、前に乗っていたミニバンより疲労度も小さかったです。中速域からの加速は爽快の一言なのです。燃費も今まで乗った車の中で最高でした。
「自分はまだまだ頭の硬い人間で見たいものしか見ていない。それをあのベテラン店員さんが教えてくれたんだ」私はそう思いました。駆動方式がJR貨物のDF200型機関車と同じなので、DF200と呼びながら運転を楽しんでいます。
さて、あれほど手に入れたかったデッキバンを逃した私ですが、実は今気持ちが落ち着いています。
妻が「オレンジ色のデッキバンを買ってもいい」と行った時、私は嬉しさと同時に寂しさを感じていました。それは本当に倒錯した気持ちなのですが「欲しいものが手に入ったら寂しくなる」と思ったのです。
ありがたいことに、今の私はモノで欲しいものがほとんどありません。服や靴やカバンも最低限で古くなったらそれを買い替えるだけです。CDは減る一方で、本は図書館で借ります。バイクやパソコンはそれぞれ1台あればいいし、スマホも最新機器でなくてもよいです。
私が欲しいのは何より時間とその時間を生み出してくれるお金であって、モノはもう十分に満たされています。そんな中で「これが欲しい」と例外的に熱くなれるものがアトレーデッキバンです。
それを手にしてしまったら私はもう「これが欲しい」と熱い気持ちになることができないのではないかと思ったのです。そのような執着が消えた状態は歳を取った身には良いかもしれませんが、私はもう少しの間、若い時のような「あれが欲しいこれが欲しい」という気持ちを味わってみたいのです。
心配がもう一つあります。ハイブリットの乗り心地を味わった今、実用面を考えると次に買う車も今と同様かもう少し大型のハイブリットになると考えるのが妥当です。
そうなると私はいつデッキバンに乗ることができるのでしょうか。「欲しいもの」を持ち続けるのもいいですが、歳をとり過ぎるまでにはそれを手に入れたいのです。歳をとり過ぎれば「欲しい」が「どうでもいい」になりそうだからです。
そうなるとデッキバンは私のセカンドカー、つまり純粋に趣味の車として手にいれるというのが正解というのが結論です。それはそれで先立つものが必要になるので、私の発想と行動力が試されることになります。