いつもの駅で
4月も下旬に入り少しづつ暖かくなってきた。今年はコロナウィルスのため、花見も何もなく休日もほぼ家でじっとしている。そのため季節を感じる機会も少ないが、それでも通勤途中でツバメの姿を見た時は心が弾んだ。
「ああ、また今年もツバメの巣作りの季節がやってきたか」そう思いながら最寄り駅へと向かう。駅の周りにも何羽かツバメが飛び回っている。「例年ここに巣を作る」はずである場所を見てみると、そこは長い針のついたゴム製のマットで覆われていた。
駅に隣接するチェーン店のベーカリー。その入り口の斜め上の小さな換気口、その庇の上がツバメの子育ての場所であった。入口の真上ではないため、店に入る客にフンは落ちてこないが、よそ見をして歩いていたら落下物を踏みそうになってしまう。
去年のツバメが2度の子育てを終えた後、秋ごろ空になった巣はきれいに取り除かれていた。「今年は1からの巣作り大変だな」と思っていたところに、あのトゲトゲの針のマットである。
店の責任者が変わったのか、会社の方針が変わったのか、とにかくこのベーカリーは今年、ツバメがこの場所で子育てすることにNoの姿勢を示した。
小学生の頃、ゴム銃でツバメを打とうとして祖父に注意されたことがある。「ツバメはいい鳥だから打ってはダメ」と。獲物がスズメなら何も言われなかった。結局、僕の腕前に撃ち落される鳥は1羽もいなかったのだが。
産業構造の変化?
確かに人はツバメに対して寛大であると思う。田舎では巣を作ってもらえる家であることが誇りであり、都会でも人々は優しく見守る。これはツバメが多くの虫を捕食する、農耕民族にとっての益鳥でありるからであろう。
それにツバメは渡り鳥である。日本で子育てをしたツバメは、冬の間台湾やフィリピンなど南の国で過ごし、春と共に再びこの地へ帰ってくる。飛行機で飛んでも3時間以上かかる場所にどうやって渡っているのだろう。そんな苦労をしたツバメが季節を告げてくれる。それだけではなく日本で巣作りを行う。繁栄の象徴として扱われる。
ツバメの到来とともに命溢れる季節がやってくる。気温が上がり、日照時間が長くなり、米作りにまつわる作業が増える。そんな時期に巣作り・子育てをおこなうツバメは、この国の人々の田畑の実りを求めるメンタリティーに合うのであろう。
戦後70数年間で高度経済成長から安定成長へと変化する中、産業構造はすっかり変わり、有史以来過半数を占めていた第1次産業の従事者は一桁代へと減ってしまった。田畑に全くなじみのない人がほとんどの街で、ツバメの持つ意味も変わってきているのだと針のマットに覆われた換気口を見ながら感じる。
去年まであそこで子育てをしていたツバメはどこへ行くのだろう。確かに店の外観を汚し、店員に巣の真下の新聞紙を取り換える手間をかけ続けていた巣ではあるが、立ち止まって子育てを見守ったり写真を撮ったりする人も多かった。
僕にとっては、十数年前の自分に思いを馳せる場であった。「この親鳥のように、妻も私も赤ん坊に手を取られて自由が無かったなあ」と思うが、同時に大変さと達成感は表裏一体であり、あの時期の子育てを経験できたことに感謝の念が湧き上がる。
100%親に依存した状態から一人で生きて行けるようになるまで、人間なら20年ほどかかるこの過程をツバメは数週間で見せてくれる。しかも何度見ても飽きることが無いから不思議だ。
価値があると思うのだけれど…
ツバメの子育てを見ることのできる価値をどのような度量衡を持って計ればよいのか。そもそも、すべてのことに価値のある・なしを計ろうとするところに現代の息苦しさの一端があるのかもしれない。
べーカリーにとっての価値は何なのだろう。
・従業員が食べて行けるだけの利益を上げること。
・自分の所のパンのおいしさをできるだけ多くの人に知ってもらうこと。
・パンを通じて人々の食生活と健康に貢献すること。
・地域の経済活動を活発にすること。
・国内の食料生産者を応援すること。
上にあげたような様々な価値があり、それらが混ざり合ってお店をしているのだと思う。ベーカリーと一言で言っても、様々な立場の人が様々な時間で働いていて、その価値を単純化することはできない。
しかし、あの毎年ツバメが子育てを行っていたあのスペース、本業とは全く関係ないかもしれないけれど、1年の内3か月ほど自由にしてあげる余裕はないのかなあと思う。
従業員が出社した時、ツバメの子育ての話をする。地面に敷かれた新聞紙を取り換えながら、雛の成長の具合を見る。パンを買った客が店から出て、ふと巣を見上げる。店の前を通る数多くの人の中で何%の人かが、僕のように自分の子育てに思いを馳せる。
僕が店の責任者なら、こんなことを考えてワクワクして、毎年この時期がくるのを楽しみに待つだろう。売上とか客寄せなどという価値ではない。
誰もが生まれ、育ち、年をとっていく。貨幣とか商品が存在するはるか前から繰り返される生命の営みだ。人々の心が貨幣や商品に奪われる中、この生物の根源的な姿をかわいらしい姿で身近に見せてくれるツバメにどうして価値が無いといえるのだろうか。
商売をしている人から見れば、いささか自分勝手で独りよがりにに思える僕の考えだとは思う。たかがツバメの巣作りが1カ所邪魔されただけだが、僕の心はモヤモヤに覆われている。それは、巣作りに対してあのトゲのあるマットを置いてしまうメンタリティーが他の場所でも見られ、それに息苦しさを感じているからだと思う。
「ほかの場所?」意識を向ければ目について嫌な気持ちになるが、これも仕方ない。自分の気持ちを整えるためにも、他の息苦しさを考えてみる。