18切符
「民営化は仕方がないとしても分割は勘弁してほしかった」実施から35年以上過ぎても私は国鉄改革に対してそう思い続けています。鉄道の魅力は全国を網羅したネットワークにあるからです。
確かに現在でも国鉄時代の路線は日本全国に広がっています。しかし会社が分割された結果、それぞれのJRが自分のことを中心に考えるため会社をまたいでの輸送が弱くなっています。
私が年をとることを楽しみにしていた理由の一つに「フルムーンパス」の存在がありました。夫婦合わせて88歳を超えればJR全線でグリーン車に格安で乗ることができます。しかし、いざ資格ができたと思えばフルムーン自体がなくなってしまいました。代わりにJR西日本では「おとなび」という制度ができましたが、利用会社が限定されるためその魅力はフルムーンに遥かに劣ります。
このようにお得な乗車券のほとんどが各会社内で完結する昨今ですが、青春18切符は今年の夏も販売されることになりました。これも毎年その販売の有無が心配され続けている切符で、正直に言ってJRも積極的に売る気がないと思います。
それでも全国を網羅してくれる切符をこの夏も売り出してくれたことに感謝しつつ、先日妻と二人で日帰り旅行を楽しんできました。
複々線と新快速
私たちは滋賀県の長浜を訪問することにしましたが、最初にしたことはJRに乗り西へと向かうことでした。理由の一つは明石駅の「山陽そば」を食べてみたかったということと、もう一つはできるだけ西から新快速に乗っていい席に座りたかったということです。
妻は最近「ドランク塚地のふらっと立ち食いそば」というテレビ番組がお気に入りで、立ち食いそばが食べたくてしょうがありません。しかし、女性一人で入るのはハードルが高いため私と一緒の機会を利用しての立ち食いそばでした。
明石でそばを食べると長浜へ向かう新快速まで少し時間があったので一つ西の西明石に向かいます。どうしてこのような行動をするのかというと、新快速電車は常に混雑していてできるだけ西の駅から乗る方が座れる確率が高いと考えたからです。
私はかつて西明石に住んでいたことがあります。毎朝通勤で利用した懐かしいホームで新快速電車を待ちました。やがて米原経由近江塩津行きが十二両でやってきました。このうち前四両が長浜まで行きます。結論をいうと、西明石まで来たものの車内は混み合っていて私たちは座ることができませんでした。大阪で大半の客が入れ替わり、そこからやっと旅らしくなりました。
新快速は関西を代表する列車であり、その速さと快適さが魅力です。速さの担保となっているのが西明石ー草津間130キロにわたる複々線です。223系電車はこの区間を満員の増客を乗せたまま気持ちよく飛ばします。
草津を過ぎると田園地帯が広がるようになります。列車は都市間輸送から地域輸送の意味合いを増し、こまめに停車していきます。定期的に新快速と普通、たまにコンテナ列車が混ざってすれ違います。
私は妻に昭和39年9月までのこの区間の様子を説明しました。首都圏と関西や九州、それに関西と日本海側の各都市を結ぶ特急や急行がひっきりなしに走り、さまざまな種類の貨物列車や荷物列車が見られました。夜になると10本以上の夜行列車が駆け抜けました。
私の生まれる遥かに前ですが、タイムマシンに乗れるのならこの時代のこの場所を選びたいと思うような線区で、その根底にあるのは多様性です。さまざまな行き先のさまざまな種別の列車がさまざまな車両を用いて運行されていることで、効率化・パターン化された現在の鉄道の反対の姿です。
妻は話半分に聞きながら窓の外を眺めています。米原駅で「特急しらさぎ」を目にして「あれに乗ってみたい」と言います。名古屋からやってきたことと金沢や富山に行くには敦賀で新幹線に乗り換えする必要ができたことを伝えると「新幹線ができても直通の列車を運転すればいいのに」とつぶやきます。「鉄オタの気持ちをわかっているな」と嬉しくなります。
私たちの新快速はしらさぎの後を追って出発し、約10分で長浜に到着しました。
文明開花先進地
四両編成の新快速から数多くの乗客がはき出されました。私たちのように観光で来た人が多そうです。橋上駅のためホーム真上のコンコースに上がり、多くは黒壁スクエアのある東口へと向かっていきました。私たちは同じ「スクエア」でも長浜鉄道スクエアのある西口へと向かいます。私の趣味に付き合ってくれる妻に感謝です。
駅から線路沿いすぐにその施設はあります。旧長浜駅舎と資料館、それに静態保存庫の三つの建物から成り立っています。ここにこのような鉄道博物館がある理由は、この街が明治初期の鉄道先進地であったからです。
意外なことに長浜と最初に鉄道で結ばれたのは京阪神や中京地区ではなく、日本海側の港町敦賀でした。まだ東海道線が開通する前の話で、敦賀からやってきた人はここで汽船に乗り換えて大津に向かいました。
敦賀長浜間の測量が開始されたのが明治4年、開業が明治15年でした。当時本州で鉄道が開通していたのは東京横浜間と神戸大津間にすぎず、この区間の開通がいかに早かったのかがわかります。
保存されている駅舎は日本最古のもので明治の雰囲気をよく伝えています。開業から明治35年まで使用されていたといいます。1902年のことなので2024年の今、実際にこの駅舎を利用して列車に乗った人はもういません。数年前からさまざまな書類の生年月日記入欄から「M」の文字が消えました。明治時代が過去のものになろうとしています。
資料館を軽く眺めて静態保存庫へ向かいます。ここには二両の機関車が保存されています。D51蒸気機関車とED70電気機関車です。
私の年代は蒸気機関車が現役で活躍していた時代を知りません。そのため蒸気機関車は「過去の産業遺産」という感覚でしか見ることができません。一方で電気機関車、特にそれに牽引されて客車列車は全盛期から衰退まで一緒に経験してきました。
ブルートレインを引く電気機関車は憧れの存在でした。蒸気機関車の全盛期を知る世代にとって電気機関車は、それらを駆逐した憎い存在だったかもしれません。そんな電気機関車も現在は貨物列車以外で使われることはほとんどありません。
私は北陸地方で活躍したED70を眺めてまわりました。床下にはさまざまな重そうな部品が取り付けられています。その一つ一つに意味があります。運転席に入ることができました。目を閉じて北陸路の景色を想像しました。モーターとブロワーの音にジョイントを刻む音が混ざります。一人妄想の中で鉄萌えしています。
素敵な時間を過ごすことができました。あとは妻の希望に沿って行動します。
湖畔を眺めながら
私たちは関西で唯一というホワイト餃子を出す店で昼食をとりました。餃子とイタリアン焼きそばをあてにビールを飲むといい気分になってきます。
古い街並みを眺めながらゆっくりと歩きます。大通寺からゆう壱番街を通って湖のスコーレへ向かいます。暑さに疲れたので黒壁地区の喫茶店でお茶を飲みます。お土産を買って駅前のびわ湖水族館を眺めていたらいい時間になりました。
どうせなら違ったルートを通って帰りたいということで、私たちは北へ向かう列車に乗りました。高月、木ノ本と湖北の田園の中を列車は進んでいきます。この辺りは仏像で有名なお寺が数多くあります。「今度はお寺めぐりをしたいね」妻にそういう私の片手には缶ビールがホールドされています。
「高速で列車が通過する二つの幹線を接続させるための施設です」という雰囲気が満載の近江塩津駅で姫路行きの新快速に乗り換えます。この列車に乗っていれば2時間半後に神戸に着きます。
子供の頃読んだ鉄道の本に「湖西線は踏切がなく、新幹線並みの線路規格」というような表現が書かれていました。私は開業から50年経ったこの路線のそのような高規格ぶりを観察しながら窓の外を眺めています。
近江今津からは琵琶湖が見えます。かつてこの場所にあった江若鉄道の痕跡も探さなくてはいけません。時折サンダーバードや貨物列車とすれ違います。いつものことですが私は挙動不審にキョロキョロしながら列車の旅を楽しんでいますが、妻は歩き疲れたのか横で寝息を立てています。
「琵琶湖の景色を見るのが楽しみ」と言っていたのですがこの有様です。結局妻が1番楽しそうにしていたのは、飲食と買い物をする時でした。私は観光地での買い物が苦痛でたまりません。しかしまあ、こんな挙動不審な私と一緒にいてくれることに感謝して買い物にも付き合いますが。
堅田を過ぎると連続した市街地になります。大津の中心部を遠くに眺めながら列車はトンネルに入り、抜けるとそこは山科で東海道線に合流します。
自転車がブームな昨今、琵琶湖を自転車で一周することは「ビワイチ」と呼ばれ国内外から多くの人を集めています。私たちは東海道線、北陸線、湖西線、3つの路線を使って列車でのビワイチを行いました。
全盛期は過ぎたとはいえ、3つとも重要度が高く輸送量の多い在来線です。しかしそれもいつまで続くのかわかりません。東海道線は今のままでいる可能性が高いのですが、残りの二線の今後は敦賀まで開通した北陸新幹線の今後のルートによって左右されます。
私にとって最悪なシナリオは北陸本線と湖西線が3セクになって切り離されることです。正直言って新幹線にはそれほど興味がありません。私がいつも夢見ているのはネットワークと多様性です。そしてその理想郷は最初に述べた昭和39年9月までの東海道本線にあります。
国鉄が「分割」された時、「並行在来線は三セク」の方針ができた時にこのような流れが進むことは決まっていました。敦賀から先のルートがまだ決定していない今、寝息を立てる妻を横に、せめもの夢を見ながら私は帰路につきました。
関連記事: 東京デート