ある平日の朝
ゴールデンウィーク後のある平日の朝、6時過ぎに目を覚ます。と同時に今まで体験したことの無いような感情に襲われる。一言で言うと「モヤモヤMAX」。
全てが嫌になり何もしたくない。ベッドから起きる気持ちになれない。目を開けるのも嫌な気分。頭の中にマイナスのイメージばかり浮かんで涙が溢れそうになる。
夢の中で泣いているのか実際に涙を流しているのかわからない状態。でも、目を覚ましたくはない。意識があればマイナスのことしか頭に浮かんでこないからだ。とにかく眠りたい、今の感情が夢であってほしいから眠ってしまおう、しかし仕事に行くためには今起きないと、そんな攻防が続く。
1時間ほど夢か現実かわからない状態が続いた。今日は確実に仕事に行くことができないとわかった。仕事どころか、明日を正気で迎えられるかもわからないような心理状態。
トイレにも行く気にならない。何も食べたくないし、何も飲む気にならない。少しのどは渇くが冷蔵庫まで行く気力が無い。妻に「今日は仕事を休む」とだけ言って布団の中に潜り込む。
とにかく目を開けたくない。「夢を見ないノンレム睡眠の時間をできるだけ確保したい」そんな気持ちでうとうととする。寝室のカーテンから光がこぼれてくる。その色合いから今日は快晴に違いない。鳥のさえずりが外から聞こえてくる。普段なら気分をよくするこれらのこともどうでもよく感じられる。
布団にもぐったまま眠ったり起きたりの状態が続く。一度トイレに行く。水も飲まずにすぐにベッドへ。さすがに妻が心配してやってくる。昼食も食べる気にならない。ひたすら布団の中で過ごす。どうにかしてこのモヤモヤを取り除きたい。
何もできない一日
僕は夢うつつの状態で上質な化粧筆を想像する。ものすごく柔らかな毛を使い職人が手作りをした高価な一品。モヤモヤが頭にやってくるたびに、その筆を使って汚れを丁寧に取り除いていくようなイメージを頭に浮かべる。
普通の状態ではまず考えつかない奇妙な想像。しかし、この日の僕は真剣にこの筆を持って頭の中というか心をきれいにしようとしていた。
カーテンの隙間から入っていた光も弱くなる。夕方になったようだ。今日初めての水分、ヤクルトを一本口にする。食欲は相変わらず無い。いつまでも寝ていたい気分だ。ヤクルトの甘みと酸味が頬の粘膜にキューっと浸み込んでいく。
続けてコップ1杯の水を飲む。粘膜の間に入り込んだヤクルトの味が薄められて出てくるのを感じる。結局この日、口の中に入れたものはこの2つだけだった。はるか昔に離乳をして以来、固形物を何も食べない日を過ごしたのは初めてのことだと思う。
「どうしてこんな気持ちなんだろう?」朝に比べて少し楽になったせいか、こんなことを考え始めた。しかし、相変わらず布団から出る気にならない。そのまま翌朝の目覚ましをセットして眠りについた。「仕事を再びすることができるのだろうか?」「明日目覚めた時、僕は正気でいるのだろうか?」「精神科医に見てもらった方がよいのではないか?」いろんな思いが頭の中に渦巻く。
どうしてこんなことに
こうしてブログの記事を更新しているということは、僕は今、何とか立ち直っているということ。あの日の翌日には仕事に行くことができた。食欲も回復して3食食べることができている。普段と変わらない日常を取り戻したように思えるが、それでも寝る前は少し不安になる。
「朝、目が覚めてあの日の気持ちになったらどうしよう」そんな不安から、情けない話だが、妻に「一緒に寝てほしい」とお願いをする。妻とは寝室は同じであるが、普段は眠りにつく時間が異なるのだ。幼い子供が母親と寝たがるように、いい中年になった男が妻に幼児のようなお願いをする。
いろいろ考えた。どうしてこんなタイミングで、こんなことが起こったのか。
実はこの記事は僕がブログを書き始めて100番目の投稿。書き始めた1年前は「100本も記事を書けば自分のモヤモヤの原因がわかって心も整っているだろう」そう思っていた。
しかし、結果は真反対で、丁度100本目の記事で「モヤモヤMAX」について書く羽目になってしまった。
自分の心を整えたくて始めたブログで、僕は今まで何をしてきたのだろうか。確かに、文章を書くことでモヤモヤ解消への手掛かりになるようなことも感じてきた。しかし今まで最大のモヤモヤを感じることにもなった。
僕はゆっくりと何が悪かったのかを考えた。僕が自分に課している足かせが次々に浮かび上がってくる。
- 英語、イタリア語、台湾語の3か国語を毎日勉強する。
- シャツ、スーツ、靴、身の回りのものをきちんと整える。
- 週の最初はお酒を飲まず、週末に良いお酒を味わう。
- ブログを定期的に更新する。語学のサイトを立ち上げる。
- バイクのメンテナンスをできるだけ自分でやる。
- 本棚の未読の本を読む。
- コンマリ流片づけを衣類以外でも行う。
リストはまだまだ続く。「こんなことができたらいいな」「こうすべきだな」その数の多さに自分が支配されていて、それがモヤモヤの原因になっている、そのことは分かっていた。
しかし、僕には言い訳があった。仕事は忙しいし、大きくなったとはいえ子供にもまだ手がかかる時がある。妻の両親のために月に一度は片道2時間かけて田舎に帰る作業もある。とてもじゃないけど全部こなす時間はない。
「時間があれば実現できる項目も増える」
⇒「そうすれば僕の人生はより良きものになる」
⇒「必然的にモヤモヤを感じる必要もなくなる」
無意識のうちに僕はこの思考方法に慣れてしまっていたのだと思う。いわば時間の無さを担保にして適度なモヤモヤと共生している状態。そして今回のこのコロナ禍で、僕のモヤモヤを取り除いてくれるはずの時間を手にすることができた。
リストは短くなったのだろうか?
確かに語学の勉強はいつも以上にできた。しかし、いろいろなことに予想以上の時間と労力を奪われて、できることがあまりに少ない。半日あればできると思っていたことを着手しないまま何日も経過していく。
ブログを書くスピードも落ちた。2月にドメインを取ったままの語学サイトはまだ1記事もアップできていない。
サウナの代わりに始めたランニング。いいことではあるが、継続することを要求される。また時間が奪われる。
在宅勤務が増え、生活のリズムが変わった。週末以外も酒を口にするようになった。ダメだという気持ちを抱えながら、つい飲んでしまう。
いつも以上に語学を勉強しても、力が伸びている実感がない。どれだけやればいいのだろう?
「時間があれば…」というくくりで棚上げしてきた項目に対して、次々と予想外の回答が示される。
「僕は結局時間を手にしても、幸福を実感する活動のできない人間なのか…」想像したくない現実が目の前に現れる。
どうすればいい?
記事を書きながら気付いてはいたが、僕の弱さは「今、この瞬間、ここにある現実をありのままに楽しめない」こと。「~ねばならない」「~すべきである」それをクリアしなければ幸福はやってこない、そのように考えてしまう。
「それではいつまでたっても幸福になれない」時間が自由になるものの手ごたえの無い毎日を過ごすうち、僕の心は疲弊してあの日悲鳴をあげてしまったのだと思う。
さあ、これからどうすればいい?
正直、この自分の性格が嫌になる。しかし、そんな自分と付き合っていく以外の方法はない。できれば、自分を好きになりたい。「これでいい」といつも思って生きていきたい。
とりあえず「モヤモヤMAX」だったのは、今のところあの1日ですんだことは救いである。今は無性に”所ジョージ”の姿を見たくてしょうがない。TVを録画して見る。ブログで記事を探して読む。彼の生き方に僕の心を癒し元気づけてくれる滋養がある、そんな直感に従った行動。
今からしばらくは、自分の心の声に耳を澄まして、やりたいことだけやっていこうと思う。単語を忘れてしまっても、バイクが汚れても、せっかくついた筋肉が落ちたとしても、今は仕方が無いと思う。