140年前の謎
今回の旅で丸亀城を訪問するにあたって二日目の日程をどうするのか少し悩んだ。仲人さんからは「水軍の遺跡なんか面白いかも」と言う提案を受けていて、私も行ってみたい思った。
瀬戸内海は世界でも珍しいぐらいの風光明媚な多島海であり、西国や日本海側の街と京・大坂とを結ぶ重要な交通路であった。室町から安土桃山時代にかけて、ここには村上水軍がいてその痕跡が残り日本遺産にも認定されている。しかしその中心地は愛媛県の今治方面であり、今回1泊2日の旅行では少し遠すぎる。
どうしようかとある本をパラパラとめくっていると興味ある記述に出会った。その本は歴史アナリストの外川淳氏の書いた「城下町・門前町・宿場町がわかる本」で、そこに明治初期と現在の日本の都市人口のランキングが載っていたのだ。
リストには明治10年時点での人口の多い都市が、2015年にはどう変化したのかが表にまとめてあった。1位東京、2位大阪、3位京都と現在でも大きな都市が並ぶ中で「10位徳島」の記述を発見した。人口は5万7千で当時の福岡や新潟より多い。
そんな当時の”大都市”である徳島の2015年のランキングは87位である。「これは面白い」と思った。明治の初め徳島は仙台(6万1千)や和歌山(5万4千)と肩を並べる都市だったのだ。しかも禄高を見てみると、徳島:25万石、仙台:62万石、和歌山:55万石と人口に比べ徳島の石高は明らかに低い。
「徳島って面白そうですよ。謎を解きに行きましょう」私は仲人さんに提案し快諾を受けて二日目の日程を決めたのである。
朝、ホテルのサウナに入り汗をかいた後朝食をとる。過去3回の私たちの食べでもホテルを選んだのは私である。サウナーになって以来ホテルを選ぶ優先順位が変わってしまった。朝からしっかしと汗をかいて幸せな気持ちになる。
さて、車を徳島へと向かわせるのであるが、私たちは直接最短ルートで向かわずに空港通りをまっすぐ南へと下った。徳島県美馬市で脇町の街並みを見て、吉野川に沿って徳島へ入りたかったからだ。
高松平野が尽きて国道193号線が谷に入る頃、前方に巨大な誘導灯施設が見える。かつて山陰本線にあった餘部鉄橋をさらに長く高くしたような建築物だ。山がちな国土のこの国で滑走路を建設するのがいかに大変でコストがかかるかを象徴している。
塩江温泉を抜けて県境を通り、ワビサビ号は吉野川水系へと入る。四国三郎と呼ばれるこの川は、日本の中でも独特な光景を作り出している。それは、阿波池田から下流が中央構造線に沿って流れているためである。山間であるにも関わらず流れが真っ直ぐであり、美馬から下流は幅の広い谷の真ん中を通る。何度通っても不思議な感覚になる場所である。
脇町は讃岐からやってきた道と吉野川に沿った東西の街道が交わる交通の要所で江戸から明治にかけて栄えた町である。この街には「うだつが上がらない」の語源になったうだつを備えた建物が数多く残っていて、私たちはその街並みを見るためにやって来たのだ。
それぞれの家族
車を駐車場に停めて町の中に入っていく。時間帯が早く観光客の姿はほとんど見られない。私たちは明治にタイムスリップしたかのような町の中を静かに歩いていく。オーバーツアリズムが問題になっている昨今の中で、このレベルの街を他の観光客に会わずに歩くことはレアなことだと思った。
メインストリートである南町をゆっくりと東に歩いていく。所々に現在風の家屋があるが、概してよく街並みが保存されていると思う。
内燃機関がなく荷車で物を運んでいた明治時代から、自動車が一部の人だけの物である時代を経て、現在は地方へ行けば一人一台車を持っている。そのような急激な時代の変化の中で、明治と同じ道幅を保ち車庫を持たない建物を維持するのは大変なことであったと想像する。
あるイタリアについてのエッセイで読んだ話。石造りが基本のこの国の建物は数百年前に建てられたものもざらにあり、街並みも中世から変わっていない場所が多数ある。それは世界中から多くの人々を惹きつけてはいるが、そこに暮らす人にとって駐車場の不足は深刻な問題であると書かれていた。
変化する時代の中で、変わらないものは人を惹きつける価値となる。しかし変われないことで失われる価値もある。人の生きられる時間は有限であり、私が失った価値が未来の価値を作ることにもなる。
街の外れの川に差し掛かった。橋の向こうには古い劇場が見える。私たちは昭和初期に建てられたその劇場を見学し、元来た道を引き返した。
「ここの欄干にカメラを置いて家族写真を撮った。いい写真だった」
仲人さんが言う。
結婚式の前、仲人さんのお家に妻と一緒に招かれて奥さんの手料理をご馳走になったことがある。そのときお子さんたちも一緒だった。まだ中学生ぐらいであったであろうか。私はそれ以来お子さんたちには会っていないが、仲人さんと飲むとき近況をお聞きする。もうそれぞれが家族を持っていて幸せに暮らしているそうだ。
目の前の欄干で家族写真を撮って20数年。時は過ぎ、世代は変わり、今度はお子さんたちが子どもたちと家族写真を撮る順番になった。仲人さんはあの時の欄干を見て何を感じているのだろうか。
美馬市で言えば、私にも家族の思い出がある。息子たちがまだ小学生の夏休み、私たち家族は吉野川に沿って旅行をした。そのある一日、美馬市で吉野川に合流する穴吹川で川遊びをしたのだ。当時海水浴には毎年行っていたが、川で泳ぐのは初めてのことであった。
水は冷たいが、川には瀬や渕があり、なにより流れがあって遊んでいて面白い。私も童心に戻って息子たちと時間が経つのを忘れて川遊びを楽しんだ。「こんなに面白いのなら毎年来たい」と思ったが、その時以来家族で川遊びをすることはなかった。おそらく、私にとって一生でたった一日の特別な日であった。
手掛かりを求めて
吉野川に沿って徳島市に入り、駅前の「ポッポ横丁」で昼食を食べる。なかなか味のある商店街であるが空き店舗が目立ち歩く人も少なめである。駅から至近の場所でこの状態である。ということは、他の日本中の中小都市と同様に徳島の人も列車に乗って駅前に買い物に来ることを止めてしまったということであろう。
徳島駅のバス停にはイオンモール行きのバスが見える。なんということだ。高校生やお年寄りと言った交通弱者まで駅まで列車に乗って、そこからわざわざバスに乗り換えてまで郊外モールに行って買い物をするのだ。
モータリゼーションに加えて明石海峡大橋の開通が徳島の商業にダメージを与えたと新聞で読んだことがある。いわゆるストロー効果である。徳島市から神戸までは高速バスで1時間と少しであり、運転頻度も高く料金も安い。三宮駅前に立つと四国各地へ向かう高速バスを頻繁に目にする。
明治10年には日本で十指に入る都会であった徳島からデパートが消えて久しい。駅から眉山の方角を見ると明らかに元デパートであった建物が見える。私がお遍路さんのためこの街に何度か続けて訪問していた頃は、そこにそごうデパートがあった。
私たちはそんな徳島の賑わっていた時代に迫りたくてこの街に来ている。
駅から東へ歩き、歩道橋で線路を超えて城の敷地内へと入っていく。お堀の石垣に関する案内が出ている。石垣を長い面として考えた時、その中央に一定の間隔で石が飛び出しているのだ。これは「舌石」と呼び、その上に立てられた柱を支えた石であった。柱の上には三角形に飛び出した城壁があり、堀から攻めてくる敵を攻撃する場所になっていたそうだ。
解説がなければ気づかずに通り過ぎていたただの石の出っ張り。しかし、数百年前の人はいろいろなことを計算してここに石を積み、その上に城壁を築いた。このように痕跡が残っているものならいいが、世の中にはその跡を失い現代の人間がたどり着くことのできない古の知恵が多く存在していることでろう。
ところどころ解説を見ながら場内を移動する。仲人さんと御殿や天守閣の位置を予測しながら歩く。徳島城博物館の前に着く。「徳島がどうして江戸から明治初期にかけて大都市であったのか」この問いに対してこの博物館からわかることを探していく。
常設展示室の一つに徳島城の復元模型が設置されていた。かなりの規模と精密さである。私は興奮した。今は石垣ぐらいしか残っていない場所に堀や塀が張り巡らされ、中には御殿を始めとする大小さまざまな建物が配置されている。御殿のすぐ裏に屋根の色の異なる施設があり「大奥」とある。城の中にあんなにも大きな女だけの世界があったのか。
私は仲人さんとあれやこれやと話しながら模型に夢中になっていた。おそらくかなり挙動不審な中年だったであろう。そのおかしさにが気になったのか一人の60代後半ぐらいの男性が近づいてきた。博物館のボランティアガイドの方であった。何となくであるが私と同業者の匂いがした。歴史好きで高校の日本史の教師になり、退職後も研究を続けながらガイドもしている、と勝手に想像した。
城好きが少ないのかわからないが、館内にはそれほど人がいない。だから、幸運なことにこれ以降私たちはこのガイドの方を独占しながら博物館をまわることができた。
私たちはいろいろと質問を投げかけた。ガイドの方は待ってましたとばかりに、展示物を指さしたりタブレットの画像を示したりしながら私たちの疑問に答えてくれた。
城の構造や参勤交代の様子、徳島の町割りや農地の所有システム、短い間ではあったが私たちは多くのことを学ぶことができた。もちろん、私たちが最初に立てた問いに関して、ここだけですべてが納得する答えが見つかるとは思っていない。しかし、なるほどと思える理由がいくつも見えてきた。
- 藩政が安定していた。改易や転封もなく、江戸を通じて蜂須賀家が徳島藩を治めてきた。
- 藍、塩、タバコ、砂糖といった日持ちする特産品に恵まれていた。
- その中でも藍は他に栽培できる地が少なく、徳島藩が独占していた。
- 現在兵庫県である淡路島も徳島藩の領地であった。
私の暮らす兵庫県では「五国」という言葉が使われる。県を構成する摂津・播磨・丹波・但馬・淡路の旧国名である。しかし、淡路島が兵庫県になったのは明治以降でその時も徳島とひと悶着あったらしい。農業・漁業ともに豊かなあの淡路があれば、徳島は強いなと実感できる。
私が来るたび不思議な気持ちになる、中央構造線が作り出したあの真っすぐでだだっ広い吉野川沿いの地形も徳島を豊かにした理由であった。上流からの養分と沖積した土砂が藍を始めとする作物の栽培に適した土壌を作り出したのだ。
その土地にやってきて、土地の様子を見て、博物館で学んで、人の話を聞いて考える。本当に深く理解しようと思えば、まだまだやるべきことはあるが、たった半日であってもこうした体験をすることは私に学ぶことの楽しさを教えてくれる。
次のステージへ
車に乗り込み北東に進む。大鳴門橋を渡り、かつて徳島藩だった淡路島へ入る。私が住む神戸は、明石海峡大橋の開通以来徳島から買い物客を奪い続けている。少し申し訳ない気分になった。
明石大橋に差し掛かり神戸の街の夜景が見えてきた。私は仲人さんに話しかけた。
「現存12城すべて行きましたね。これからどうしましょう?」
2年前のひょんなことから始まったこのレアな組み合わせの旅、四回目が終わろうとしていた。とりあえずの目標だった現存12城も昨日の丸亀城で終わっていた。ここから先、旅を続けるのなら何か新しいコンセプトがほしい。
「こうやっていっしょに旅をしてみてどう思った」
仲人さんが私に尋ねた。
「すごく楽しかったです。何より勉強になります」
私は日本史の知識が乏しい。中学校社会科の教師を目指していたが、主に人文地理を中心に学んでいたため歴史分野が弱いと自分でも自覚している。3年前に全国通訳案内士の勉強を始め、私はこの国の歴史を学びたいと強く思った。歴史と結びついてこその地理であると思った。
もっと言えば、歴史だけではなく哲学、地学、植物学、経済学など、私が旅をして見て感じる物をフルに味わおうと思えばあらゆる分野の学問が必要になってくる。”必要”というか、ある方が断然面白い。
私たちがこのレアな旅でやっていることはなんなのだろうか。城や歴史的建造物を見る。博物館や資料館に入る。何もないような場所でも古の痕跡を探そうとする。ホテルのサウナと夜の居酒屋を除いて、私たちは常に貪欲に何かを学ぼうとしている。
買い物はなし、エンターテイメントもなし、体験施設もなし、私たちは常に問いを立てながら辺りをキョロキョロと見回して、見えないものを脳内に再現しようとしている。それが私にとってはたまらなく楽しい。
私たちの年齢差と立場もちょうどいい。同じ年齢や同等の立場だったら、私の我が出てくるであろう。父親と兄の間ぐらいの年齢で立場は上であるが、基本的なことは私に任せてくださるので私も仲人さんに喜んでもらいたいと張り切る、そんな関係である。
何より日本史の知識の豊富な仲人さんは私の質問に答えてくれる。答えがすぐに出なくても一緒に考えてくれる。そんな人と一緒に学びの旅ができるなどそうそうあることではない。そういった意味ではこれも”レアな”経験である。
「1年に一度ぐらいは行こうか。私がよく知らない県は‥」
レアな旅は続くことになった。今度は仲人さんの訪問したことのない場所を中心に旅をする。仲人をお願いして約20年間は時々会ってお酒を飲むだけの関係だった。ひょんなことで2年前から二人で旅をする関係に変わった。
人生は何が起こるかわからないから面白い。さらに、そこに学びが入るから面白みが増す。レアな経験は続く。私たちは人生を楽しみ、そして学び続ける。