今度は西へ
最近では少しレアなこと、それは婚姻に際して仲人を立てること。その中でもかなりレアなことは、その仲人さんと一緒に旅をすることである。私は縁あってそのような体験を去年6月、10月と二度も行うことができた。そして先日三回目の旅を終えた。
初めて読む人のために事の経緯を記す。
私は2021年に全国通訳案内士の試験を受けた。そのいきさつを書き出すときりがなくなるのでここでは省略するが、ともかくその年の12月に二次試験を終えてその後しばらくして仲人さんと飲む機会があった。
杯を酌み交わしながら通訳案内士の話になった。英語による口頭試験のテーマは「城下町」であった。私の仲人さんは日本史が専門で、その中でも城下町は最も造詣の深い分野であった。
「一緒に城下町ツアーしませんか」
私の提案に仲人さんも賛同していただき、松阪・津・伊賀上野を巡るツアーを行ったのが昨年6月。とても楽しくストレスのない旅だったため二回目の話もとんとん拍子に進み、10月には一乗谷と福井を巡った。
どちらもとても学びのある旅であった。私たちは買い物も全くせずにひたすら古の痕跡を巡った。五感を最大限に働かせて現代の景色の中に数百年の歴史を見出そうとした。仲人さんは私の質問に丁寧に答えてくれた。想像力を働かせて表れ景色は刺激的で学ぶことは本当に楽しい、そう思える経験であった。
家族旅行とも友人との旅とも違う旅であった。好きなところだけ行くと言えば一人旅に近いが、仲人さんとの旅行は解説付きである。もう20年間も私たち夫婦の後ろ盾になってくださっている方との二人旅。確かにレアで独特で味わい深いものがある。
ということで私は仲人さんに三度目の旅を提案した。最初の二回は東への旅であったので今度は西へ向かうことにした。私はミニバン「日本文化ワビサビ号」で仲人さんの自宅へと向かった。両側のドアの下部に錆が出ているからこう呼んでいる。そのサビも時間の経過と共に同心円上に広がり、少しシャレにならないぐらいの大きさになっている。少し恥ずかしいが今更どうにか隠せるレベルではないので気にしないでおく。
二人の乗せたワビサビ号は山陽道を西へと向かう。山陽道といっても街を避けて山間部を走るため、自分が今どのあたりにいるのかは看板を見ないとわからない。これが国道2号線なら走りながらおおよその場所がわかって変化があるのだが、山陽本線に対する新幹線と同様に新しいものほど人気を避けてつくられる。
それでも吉井川や旭川といった大きな河川を渡ると岡山県を走っていることを実感する。ワビサビ号は岡山ジャンクションから岡山道に入り北へと向かった。最初の目的地は高梁市の備中松山城である。
よく残ってくれた
賀陽インターからループ橋へ向かうと高梁の街が一望できる。山の合間に高梁川が流れ、わずかに形成された平地にびっしりと建物が立っている。それが高梁の街である。私たちは川沿いの国道を少し北上した後右折、伯備線を渡って谷間へと入っていく。途中山陰へ向かう特急やくもが見えた。今年の2月、この列車でここを通って出雲へ向かった。山間の小さな街を走る振り子式特急列車、絵になる。
駐車場でマイクロバスに乗り換えて途中の降車場まで運ばれる。ここから先は徒歩で天守まで向かわなくてはならない。備中松山城は最も高い場所に天守が現存する城でその標高は400mを超える。私たちは舗装されていない山道をゆっくりと歩いて登っていく。
「こういう時、植物学の知識があればといつも思います」私は仲人さんにいう。仲人さんは日本史が専門である。私は人文地理や自然地理に興味がある。城に登りながら戦国時代や地形の話はするが、目の前にある草木を細かく分節する語彙を私たちは持ち合わせていない。
草木だけではない。地面を這う虫や周りでさえずる鳥。見上げた空に浮かぶ雲の形。山を登りながら私達の体と心に生ずる変化。どんな事であってもそこには学ぶべきことがあるし、知れば知るほど、語彙を増やせば増やすほど目の前の景色は面白くなる。
15分ほど歩くと大手門後に到着した。「足軽箱番所跡」の立て札が立っている。ここから天守までの間、仲人さんに足軽についての説明を受ける。
私の目の前には当たり前のようで当たり前ではない光景が広がっている。山の上に何重にも石垣が組まれていてその上が平らに整地され、さらにその上に建物が建てられているのだ。
石は地面を掘れば出てくるというものではない。それなりの大きさの石が取れる場所から運んでくる必要がある。人工的な動力を持っていない時代、これだけの石や資材をこんな山の上まで持ち上げるのに一体どれだけの労力がかかったのであろうか。想像すると気が遠くなりそうになる。
私たちは天守の中に入り、その後二重櫓を見学した。漆喰に50年前の日付の落書きがある。私はそれを見て少しムッとしたが、仲人さんは「あと300年経ったら価値が出るかな」と柔軟である。確かに、全てはどう切り取るかである。どうせなら機嫌良くいられるように目の前を切り取って生きたい。
この城がどうして今まで残っているのか不思議な気持ちになった。室町から戦国時代にかけて城は平地へと降りてきた。城下町はそれと共に現れた。山上の天守は象徴としての役割を果たすために残されたのだろうか。実際に藩主の屋敷は高梁の街の中、現在高梁高校にあたる場所にあった。
よく残してくれたものだと思う。明治維新で主人を失った天守は荒れ果てていたという。昭和になって修復する運動が起こり、多くの人の力によって現在の姿を取り戻した。
私たちは1時間ほど城に滞在したのち山を下った。古き時代の面影を残す街で私たちは季節ものの鮎を食して次の城へと向かった。
かなりの場所
私たち二人を乗せたワビサビ号は国道313号線を南へと下って行く。高梁川の支流の成羽川に途中まで並走し、分水嶺を超えると今度は小田川の谷に入る。しばらく下流へ向かうと井原の街に出る。デニム生地で有名な街である。私にとって初訪問の街でありいろいろと気になるが、今回はどこにも立ち寄らず西へと向かう。
県境をあっけなく超えてしばらく走ると福山市神辺地区に入る。この場所で西から東へと流れてきた芦田川が山にぶつかって南へと流路を変える。その東から西へと突き出た山の上に私達の目指す神辺城跡がある。時刻は4時過ぎ、急がないと資料館が閉まってしまう。
住宅街を抜けて狭い山道を登ると山頂近くに資料館と駐車場があった。私たちは閉館時刻の近づいた資料館に入る。館内には係の1名と私達のみである。三階の展示室から時代通り順番に見学していく。
私にとって驚きであったのは、この山から高屋川の谷を挟んで反対側、備後国分寺側の山の斜面に数多くの古墳があったことである。地形の模型のこの場所が、古墳を示す赤い点でいっぱいになっている。芦田川が土砂を運び現在の福山のある平地を形成する前は、この辺りまで海が入り込んでいたのではないかと想像する。ここは古墳時代の人にとってかなりの場所だったのではないであろうか。
資料館を出て駐車場と反対側の神辺城跡へと向かう。”城”が見たくて来る普通の人はがっかりするであろう。何しろここには石垣すらほとんど残っていないのだから。石垣や櫓は17世紀初頭に福山城を建築する際に持って行かれたと言われている。石や木材の価値が現在とは全く異なることを教えてくれる。
山を歩いていると石垣を剥ぎ取られた廓らしき場所が所々に現れる。今では木々に覆われているが、城が現役であった頃はあたり一面に見晴らしが効くように整備されていたであろう。
尾根を進むとその先端近くに見晴らしの良い場所があった。仲人さんと二人で眼下を眺める。二つの方向からやってきた川が合流し地峡を通って海へと流れていく。どちらから何がやってきてどこに向かおうとするのか手に取るようにわかる場所である。
「ここに城を作りたい気持ち、よくわかりますね」私は仲人さんと顔を見合わせた。
本日の城下町ツアーはこれで終了した。あとはホテルにチェックインし、瀬戸内の幸をあてに美味しいお酒を楽しむだけである。私はここでどうしても食べたい魚があった。「ネブト」と「シャコ」である。
ネブトはテンジクダイという親指ほどの小さな魚で唐揚げにすると美味しい魚であり、前回の福山訪問で初めて食べて好きになった。シャコもこの辺りの名物で10数年前までは大量に採れていたらしいが、海水温の上昇のためか近年は漁獲量が激減しているらしい。そういえば回転寿司からもシャコは消えてしまった。
いつものように私と仲人さんは地の魚と酒を味わった。大いに話もした。あとは帰ってもう一本ビールでも飲みながら寝るだけであるが、私達の中で終わったはずの本日の城下町ツアーが復活した。
地図を見ながら居酒屋からホテルへと向かう。歩きながら考える。この福山の町割りはおかしい。南北の町割りの中に、北西から南東への大きな通りが割り込んでいるのだ。明らかに不自然な感じがする。通りを延長してみると一方は城へ、もう一方は入江へとつながっている。
「明日博物館で解決しましょうか」そう言って私は眠りについた。
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