パラダイスゾーン
仲人さんとの城下町ツアーも二日目の朝を迎えた。旅行の朝はいつも目覚めがよい。この日も私は目覚ましの鳴る数分前に自然に目を覚ます。展望風呂の付いたホテルであったので、朝風呂に浸かりながら福山の街を眺める。
見渡す限り平野は建物で埋められている。結構な都会だ。東側には日本鋼管の巨大な工場が見える。これらは全て芦田川の運んだ土砂の上に立てられている。強固に見える建物や工場も、この地形が作られた時間を考えれば、ほんの少し前に現れたものに過ぎない。
二階建ての鉄道の高架が東西に連なって街を南北に二分している。山陽本線の4両編成の電車やEF210電気機関車のけん引する貨物列車が時折二階部分を通っていく。さらにその上を8両と16両の新幹線が、あるものはゆっくりと、あるものは高速で駆け抜けていく。人口50万人に迫る街であっても通過する列車がある事実は、この区間の流動の大きさを示している。
この山陽路にもう一本鉄道を通してみたい。私の脳内、妄想の中では姫路から山陽電車が岡山を経由してこの街まで繋がっている。朝の福山を見ながら、私は目の前の景色に自分の空想を重ね合わせた。
体にも目にも心にもいい朝風呂であった。
仲人さんと一緒にホテルで朝食を取り、二日目の行動を開始する。心配されていた雨もどうにかもちそうだ。さて、今日もたくさんの学びがある一日が始まる。私たちはワビサビ号に乗り込み、福山の街へと繰り出した。
今日のメインは福山城周辺である。しかし、城へ向かう前に少し見てみたい場所があった。それは福山駅から南方向へ下った霞町というエリアだった。
今回、事前に福山の居酒屋を中心とする飲食店を検索していると、それらの店は市内の二カ所に多くあることがわかった。一つ目は昨晩行った福山駅前天満屋周辺から東側にかけて、そしてもう一つは2号線より南側に位置する霞町であった。
車で霞町をぐるりと通ってみる。アーケードがあり数多くの飲食店が連なる歓楽街となっている。何度かこの街に来たことはあったが、ここに来るのは初めてであった。夜に通ったらもっと賑やかな様子が見られたと思う。
どうしてここが歓楽街になったのであろうかと考える。江戸時代に商人の街ができた。街道沿いであった。かつて港があった。大きな工場が近くにあった。いろいろと推測してみる。その場では分からない。しかし、考えることでフラグが立つ。何かのきっかけで、そのフラグが見聞きするものとつながる。その瞬間がたまらなく楽しい。
さて、ここで私が立てた人文地理学的フラグはどこにつながっていくのか。この日この街で回収できなくてもよい。面白いのはフラグを立てた状態で時間を過ごすこと。
「霞町が歓楽街になるまでの道のりは?」私たちはいろいろ考えながらお城へと近づいた。駐車場に車を止め、さてどこから周ろうか。私の中でこの日のメインは福山城と草戸千軒の展示のある県立歴史博物館である。
私たちのいる福山城周辺の公園には数多くの博物館や美術館がある。私にとってはパラダイス的な場所であり、一日いても飽きそうにない。さて、どこから周ろうかと思っていると「人権平和資料館にいってみようか」と仲人さんの声が。私たちは公園の端へと歩いて行った。
本当の地獄
私たちは駐車場からゆっくりと資料館に向かう。途中、護国神社の前を通る。近くには数多くの慰霊碑が立てられている。石には南方や中国大陸の名前が刻まれている。どことなく古めかしい。周りには雑草が生えている。
終戦から78年が経過した。人の一生と同じ長さである。当時二十歳だった人も間もなく白寿を迎える。戦場で散った仲間たち、失った父や兄弟に思いを募らせる場所も訪れて手入れをする人がいなくなっているのであろう。仕方ないこととは言え残念な気持ちがする。
人権平和資料館では特別展が開催されていた。広島サミットに合わせて企画されたものらしい。「原爆の絵複製画展」というタイトルがつけられていた。
広島市の基町高校に普通科創造表現というコースがある。そこの生徒たちが被爆体験者と共同で、昭和20年8月の広島の様子を絵にする企画で2007年に始まった。
「戦後62年かあ」と私は思った。生徒たちに惨状を語った被爆者の中には、もう生きていない人も多いであろう。私は一枚ずつ絵を見て回った。
展示室の中には私と仲人さんしかいない。物音ひとつしない大きな部屋の壁に沿って私たちはゆっくりと78年前の広島に思いを馳せる。解説と共に絵を鑑賞する。涙が止まらなくなる。泣いている姿を仲人さんに気づかれないように少し距離をとる。どうしてこんな時にこんな姿を見られるのが嫌なのか、そう考えるもう一人の冷静な自分がいる。変な気分だ。
私たちはよく「最悪」とか「地獄」という言葉を使う。身の回りにちょっとしたことが起こると、そのような言葉を用いて大げさに表現しようとする。そんな自分が恥ずかしいと絵を見ながら思った。
私の目の前には本当の「最悪」や「地獄」が横たわっていた。私の網膜が見たくない光景や文字をとらえて脳に伝えていく。この惨状の反対側にある勘定科目は何なのだろう。簿記を勉強した癖でそう考えようとするが、すぐには思い浮かばない。
「焼けたトタンの上で人間の内臓がポコポコと音を立てていた」
「ぐったりとなった孫を背負った祖母、孫の足は骨になっていた」
地獄、地獄、地獄。この部屋の中にたくさんの地獄が横たわっていた。そしてそのような地獄に触れる時、浮かび上がってくるのは極楽の中に生きている自分の姿である。ありがたすぎる。もう十分に満たされ過ぎていてこれ以上望むものなど何も無いじゃないか。
素人の高校生が描いた絵である。しかし、ものすごい圧力で思いが伝わってくる。写真では分からないものが、これらの絵からあふれ出ている。それは地獄を体験した人たちの言葉が高校生に触れて、その筆を動かしたからであろう。
悲しみと感謝の入り混じった複雑な気持ちで私は資料館を後にした。
平和
今回福山に来たかった理由の一つは「草戸千軒」について知りたかったことである。高校で日本史を勉強しなかった私がこの遺跡について知ったのは、全国通訳案内士の勉強をしていた二年前であった。
今まで何度も車や電車で通ったあの芦田川の中に、かつて巨大な集落が栄えていたことが驚きであった。そのような集落が時の経過と共に跡形もなくなくなった事実も、諸行無常に敏感な私の感性に触れるものであった。
「さて、二年越しの思いが叶うぞ」そう思いながら向かった県立歴史博物館の正面には人気がない。何かおかしいと思いながら入り口まで行くと「バリアフリー工事のため休館」という張り紙が。
「これでまた福山を訪問する理由ができた」私は負け惜しみにそう思ったが、あながち嘘でもない。焦ることはない。楽しみは先に取っておけばよいのだ。大切なのは予定が外れた時、その事実に引きずられずに「予定がなくなった今」を別の方法で楽しむことである。
「確かこの辺に遺跡の案内があると聞いた」仲人さんが言う。県立歴史博物館は福山城公園の南西ですぐ南側は駅である。公園を出るとすぐに案内があった。福山駅は日本でも一番お城に近い駅である。近いというよりもお城の敷地の中に駅が作られた。
したがって駅の周囲に掘などの形を推測することができる。案内にはいくつかの時代の福山の様子が描かれていた。その中にはかつてこの地に存在した鞆鉄道もあった。
私たちは堀の跡や鉄道の痕跡を探しながら少し街をふらついた。たいていの人は目的地に向かって街を歩く。私たちの目的地は過去の福山である。外堀が存在した200年前、鞆鉄道が存在した80年前に向かって街を歩く。「ブラタモリ」に出ているような気分で楽しい。
散歩の後、再び城に戻る。階段を登り、御殿跡を通り、天守へ向かう。そこは博物館になっていて最近リニューアルしたようであった。休日の城内は多くの人で賑わっていた。撮影会があるためだろうか、やたらと髪を染めたコスプレ衣装の若者の姿は目立つ。
博物館で歴代城主と城についての展示を見る。中は予想以上に広い。まず福山の古地図を見て、昨夜の宿題を解決する。東西が基本の町割りに城から南東へ向かって不自然な道が通じている件である。
やはり予想通りこの道は旧河道であった。しかし、河道の途中に城があるのはおかしいと思った。こちらの川を塞いで城を立て、川は現在の芦田川の筋に付け替えたのかと推測したが違っていた。
真相は芦田川から取水した川を城の北側に通し、そこから堀の水を供給するとともに街の東側へも灌漑用の水路を通していたというものであった。ものすごく大掛かりな工事である。私たちが疑問に思った斜めの道は、城の堀から海へとつながる水路の跡である。一つ賢くなり、明日からまた違った視点でこの街の地図を見ることができる。
伊賀上野、犬山、丸岡、昨年訪問した城と比較してここの天守は格段に大きく自分が城の中にいるという感覚が湧かない。手の触れる範囲に木材と土壁が無いためであろうか、私はビルの一室にいるようである。実際に福山城の天守も空襲によって焼失し、その後再建されたコンクリート作りの建物であった。焼失した日付を見ると昭和20年8月8日だという。
「ここでもまたか」と思った。前回のレアな二人旅、福井でも博物館でそう思った。福井空襲は7月19日だった。ここ福山は終戦のわずか一週間前である。
日本のあちらこちらを旅し、街の歴史を知れば知るほど終戦が遅れたことを憎らしく思う。あと一年早く終わっていたらといつも思う。この怒り、誰に向けてのものだろうか。日本軍?大本営?そんなものはもう存在しない。歴史は全てつながっていて私はその一部だけを都合よく切り取ることなどできない。
私のこの怒りが向かう先は過去には存在しない。ではどうすればよいのか。怒りは未来に向けられて活かされるべきだと考える。一面焼け野原になったこの街の中心で、コスプレ姿の若者たちが写真を撮り合っている。平和な光景である。78年前の福山市民は、いや日本全国の人々はどんなにこんな光景を望んだことだろう。
「平和ボケすることができる」そんな幸せな時代がこれからも続いていくように、微力ながら私もこの怒りを前向きな力に変えていきたいと思う。
今回のレアな旅も終わりが近づいた。普通の人にとっては町割りに不自然さがあっても、予想外の場所に店が集まっていても、特にどうでもいいことであろう。しかし、私たちはそういうところにこそ旅の面白さを感じてしまう。
街を歩くということは破壊と再生を繰り返してきた層の上に立つということである。そこには人間がいた時間の長さだけ、その営みの痕跡が残されている。その小さな痕跡に気がつくことのできるアンテナがあれば、どんな場所であっても自分の中では観光地になる。
婿と仲人、レアな組み合わせの二人は、今回も普通の人には理解しがたいレアな痕跡を楽しんだ。
「あと一つで現存十二城制覇ですね」帰りの道中で私は仲人さんに言った。維新の混乱や空襲にも耐え、江戸時代から存在する天守が日本には12残っている。私はまだその半分ほどしか訪問していないが、仲人さんは今回備中松山城に行ったことであと一つとなった。
いつになるか分からないが、私は残りの一城のある街へまたレアな旅ができることを期待している。
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