バケツリスト
1年前には考えられなかったことが起こるから人生は楽しい。アンテナの感度が上ると、今まで見えなかった幸運や偶然の有難さに気づくことができる。そして、それらの気づきが私の人生に彩りを与えてくれる。
話を整理しておく。
1年前の今頃、私は「全国通訳案内士」の口頭試験に向けて準備をしていた。試験は12月12日、大阪で行われた。その直後、私は仲人さんと食事をする機会があった。「お歳暮が届いたよ」の連絡と一緒に「飲みに行きませんか」の誘いを受けたのである。
神戸駅近くのお店で、私たちは焼き鳥を食べながら城下町について語っていた。口頭試験で私の前に出されたお題の内、私が選んだものが「日本の城下町」だったのだ。
私の仲人さんは日本史にとても興味がある人。とりわけその中でも城下町は大学で研究をされていた分野である。話は盛り上がり、私たちは二人で城下町ツアーを行うことになった。仲人をお願いして約20年、初めての二人での旅行である。
今の時代、結婚に仲人を立てることは珍しくなっている。そして、その仲人と長きに渡り付き合いを維持し一緒に旅行をすることなど、ほんの一部の人が行うレアな経験であろう。そのようなワクワクとくすぐったさの混ざり合った気分の中の旅行である。コロナの拡大で一度中止になった後、私たちは今年の6月に松阪と伊賀上野へ城下町ツアーを行い、大いに楽しんだ。
旅行からの帰り道、車内で私は仲人さんにバケツリストの話をした。私には死ぬまでにやりたいこと、訪問したい場所が数多くあること、通訳案内士の勉強をする中で、そのような場所が増え、お城、とりわけ現存十二城は必ず行きたいこと、そんな話をした。
翌7月、今年のお中元は馴染みの酒屋からお酒を送ることにした。その時、店主に頼んで箱の中に手紙を入れてもらった。手紙には前回の旅行のお礼に加えて、私が国内で訪問したい場所のリストを添付した。
すぐに仲人さんから連絡があった。「畿内といい距離にある福井方面が面白いかも」との示唆。私は早速日時と宿泊場所を調整し、今回の城下町ツアーを迎えた次第である。
私が通訳案内士の勉強をしたこと、口頭試験で日本の城下町について聞かれたこと、仲人さんにお中元やお歳暮を贈り続けていたこと、仲人さんが食事に誘う気遣いを持たれた方であったこと、いろいろな条件が重なって私はレアな経験をさせてもらっている。
谷間に咲いた夢
秋の気配が深まる休日、仲人さんをのせた愛車「日本文化ワビサビ号」は(両側のドアにサビが目立つのでそう呼んでいる)敦賀ジャンクションから北陸道を北へと進んでいく。「木の芽峠」「杉津」という聞き覚えのある地名が見える。私がここを車で通るのは初めてであるが、これらの地名は旧北陸本線が通っていたため、それ関係の本で読んだことがある。
特に杉津はとても眺めの良い場所だと聞いていた。私は運転しながらチラリと左側を眺める。SAあたり、高台からの敦賀湾の素晴らしい展望が見える。「鉄道でこの地を通ってみたかった」と思う。やはり景色を味わうのは列車の中からがよい。
とはいっても、私の生まれるはるか昔に北陸本線のこの場所は北陸トンネルを通る新線に切り替わっている。先ほど、建設中の北陸新幹線敦賀駅が見えた。時代は変わっていく。景色のよい旧線は道路になっているという。バケツリストが一つ増えそうだ。
今庄を過ぎると道は平坦に変わる。私たちは二つの南北の山並みに挟まれた平野を北上していく。左側の山並みの向こうには日本海があるはず。西側に海があるという感覚が普段と異なり違和感を感じる。
福井インターを降りて福井平野を東へ進み、山と接する場所で足羽川とぶつかる。狭くなった場所に国道と川と鉄道が集まってくる。越美北線の鉄橋を横目に私たちは一乗谷へと入っていく。今回の城下町ツアー最初の目的地は、消えてしまった城下町「一乗谷遺跡」である。
初めて来る場所であるが既視感がある。日本史の資料集で何度も見たためである。川の両脇の細長い平地、復元された街並み、朝倉氏の館跡、資料で見た景色が立体を伴って目の前に現れる。
駐車場から復元された街並みを通り、谷をさかのぼっていく。仲人さんはしきりに山城の場所を気にされている。私は城はこの谷の中にあると思っていた。しかし話を聞くと、その発想は戦国時代には無かったという。仲人さんが500年前の城の形について説明をしてくれる。建物越しに見える景色が、話を聞く前と違って見えてくる。
私たちは橋を渡り川の右岸へ進み朝倉氏御殿の門をくぐる。内側には建物の礎石がアスファルトのようなもので囲まれて残っている。会所、主殿、中庭とそれぞれの場所に説明がある。「16世紀のことがどうしてわかるのだろう」と思うが、研究を重ねることで普通の人には見えないものが見えてくるのであろう。これも、とどのつまり言葉の力という他ない。
会所の前で目を閉じて想像力を働かせてみる。450年前、朝倉義景を中心に家臣たちがこの場所に集まり話をしていた。目の前の谷は建物で埋め尽くされ、そこには1万人以上の人々が暮らしていた。
これは後で訪問した遺跡博物館で知ったことであるが、一乗谷には河港があり三国を中継にして明から船が来ていたそうである。鍛冶や陶器などの産業も発達し、日本でも当時最先端の技術力をもった都市であったという。
朝倉義景が織田信長との戦に敗れたあと、信長によって一乗谷は焼き尽くされた。繁栄を誇った場所が一夜で廃墟と化し、その後洪水によって廃墟は徐々に土に埋められ、やがて田畑となった。
50年前に発掘が始まるまで、この場所は日本中によくある景色の一つであった。谷の中心に川が流れ、その脇の小さな河岸段丘に水田が広がる、そんな景色である。
信長の焼き討ちはここに住む人々にとっては悪夢に違いなかっただろうが、視点を変えてみると様子が異なってくる。博物館のガイドさんによれば、一気に滅びた後土砂で覆われたため、これだけ良い状態で遺跡が発掘できたという。
確かにそうだ。500年間街が続くということは、その間常に街の中で新陳代謝が起きているということだ。街はモザイクのように異なる時代が重なり合った集合体となってしまう。
その点ここは1573年に街の歴史がいったん終わった。それから400年の間タイムカプセルに入れられ、それが解かれた今、数多くの人々が当時の姿を求めて集まっている。この国のどこにでもある場所の一つになったであろうこの谷が、破壊のおかげで保存され、長い眠りから覚めて人を引き付ける。現に私たちもこうして兵庫から時間とお金を使ってここに来ている。
すべてが無くなった中、御殿跡の一角に朝倉義景の墓が見える。義景は目の前の景色をどうみているのだろうか。
五角形
越前そばで昼食をとり、開館したばかりの遺跡博物館を見学した後、私たちは次の城下町へと向かった。来た道を引き返し、福井ICから北陸道に乗るとほんの十数分で丸岡ICへ達する。一般道へ降りて、街の中心へと進んでいく。平坦な土地の中、丸岡城は小山の上に築かれているため遠くからでもよく見える。
お城の駐車場に車を止め天守閣へと向かう。途中「丸岡城を国宝に」という看板が見える。たしか現存十二城の中では一番古い建物だったと思う。
「国宝は難しいかな…」と仲人さんは言う。国宝五城の中で一番最後に指定されたのは松江城。仲人さんはその時の経緯や松江城にとっての幸運だった出来事をよく知っていて、それと比較して丸岡城のことを説明して下さったが、私には難しすぎて今思い出すことができない。
丸岡はことのほか小ぶりの城で、三層になっている各階は急な階段で結ばれている。最上階から周りを眺める。田んぼと山と福井の街が見える。西側の平坦になった先は三国港だろう。特に理由は無いが福井は豊かな場所であるという印象を受ける。
窓の外を見ながら、今は無い御殿や櫓や堀の位置を仲人さんと推測していると職員の方が話しかけてきた。そして、その方に明治時代の城の写真を見ながらこの天守閣の持つ幸運について語っていただいた。
明治維新で武士の時代が終わると、この城は無用の長物となった。天守閣の周りにあった御殿などの建物は、木材を取るために売られていったらしいが、場所が悪く木材も少ない天守閣は買い手がつかなかったという。売れ残った天守閣は地元の名士に買われ、破壊されることなくその後自治体のもとに渡り整備されたという。
一乗谷と同様に、ここでも時間というフィルターを通じた価値の転換が見られる。天守閣を買った名士の名前は忘れてしまった。天守閣の中にその恩人の写真は飾られている。
さて、宿泊地福井へ向かうには少し早い。私たちは仲人さんの提案で埋められた城の内堀に沿って散歩することにした。こういう発想は私からは出てこない。これだからその分野が得意な人と旅をすると面白い。
丸岡城の内堀は五角形であったという。その理由は分からないが、確かに地図を見ると、城を中心にきれいな五角形の町割りが見える。私たちは、五角形の北東側の頂点から反時計回りに歩き始めた。
歩いているのはかつての内堀の外側の線である。つまり江戸時代には、武士以外のほとんどの人間はこの線から内側には入ることができなかった。その境界も今は埋められて城と陸続きに建物が立ち並んでいる。
かつての大手門の場所で南へと方向を変える。時々天守閣と反対側の道を見る。先がT字路になっていて見通せない道が多い。そんなところにもかつての城下町の風情を感じる。
私たちは30分ほどかけて五角形を堪能した。歴史のありそうな神社やお寺、巨木、時代のついた石碑、外堀を兼ねた水路、やはり古い街には魅力が詰まっている。時間を経ても残るかつての街の痕跡が、人間は今だけ生きているのではなく、古くから連綿とつながっている存在であることを教えてくれる。そのことが私を安心させてくれる。
大名以上の…
丸岡を出るともう日が傾きかけていた。私たちは国道8号線を福井に向かう。九頭竜川を大きな橋で渡ると都会の匂いがしてきた。国道を右折して途中からフェニックス通りに入る。仲人さんと歌人の俵万智の話になった。そして彼女が通った藤島高校最寄りの田原町駅横を通り過ぎる。
私が前回この場所を通った時、次男はまだ生まれていなかった。私たち夫婦は、幼い長男を連れて三国港からえちぜん鉄道の列車に乗ってこの場所を通ったのだ。鉄道好きの私はその時、当然のように窓にかぶりつき、田原町駅での福井鉄道との位置関係を確認した。
時代は下って今、二つの鉄道会社は物理的にレールがつながり、福井鉄道の低床車両がえちぜん鉄道に乗り入れている。田原町の駅舎も建て替えられた。
私はえちぜん鉄道の窓から見た田原町駅の木造駅舎を明確に覚えている。昨日のことのようだが、あれから17年が経った。その時おむつをしていた長男は、今は大学に入り一人暮らしをしている。時間の経過は振り返ってみると、切れ味のよい刃物のようである。一瞬でかくも長い時間を切り取ってしまう。一乗谷も丸岡の街も、人類の歴史の中で考えれば、私の体験した17年間とさほど変わらない感覚かもしれない。
ホテルにチェックインし、二人で福井の街に繰り出す。居酒屋で地の魚と地酒を味わう。城下町だけでも十分に楽しい。しかし、これが加わると楽しみが何倍にもなる。
従業員のすすめに従って「せこがに」をたべる。赤いたまごの部分がたまらなく味わい深い。冷酒がグビグビとのどを通っていく。せこがにとはズワイガニのメスのことである。ということは水深200メートルぐらいまでの大陸棚に生息しているだろう。
底引き網漁船で漁を行うのであるが、江戸時代にはそんなものは存在しない。お酒を冷やす冷蔵庫が出現したのもここ100年の話である。
せこがにと冷酒の組み合わせは、ここの大名であっても味わうことのできなかった贅沢。そう思うと現代に生きる幸運を感じずにはいられない。私は幸せな気分で杯をすすめ、前回の旅行と同様に、仲人さんよりも先に布団に力尽きてしまった。
(後半へつづく)