レアな経験(前半)

仲人さん

私は妻と知り合い、3年半付き合って結婚をした。その時「仲人はどうする?」という話になった。その当時、私のまわりでは結婚ラッシュが続いていたが、友人たちが仲人を立てていたかどうかはよくわからなった。つまり仲人はそれぐらい話題にならない存在であった。

私は職場にとても尊敬できる先輩がいて、結婚するならその人に間に入ってもらいたいと思っていた。妻に話すと二つ返事で受け入れてくれた。そのようなわけで、私から見てひと回り年上の先輩夫妻に仲人をしてもらうことになった。

昔は「仲人は親も同然」という格言があったらしいが、本人同士の気持ちが最優先される現在においては、その言葉は力を失っていると思う。私たちの場合はどうかというと、予想以上に結びつきが強く、親とまではいかなくてもそれに準ずるお付き合いをさせていただいている。

仲人さんと私はずっと前に別の職場に変わってしまったが、年に2回ほどお会いして近況を話し合っている。たいていは、中元や歳暮が届いた連絡の後、日時が設定され、送ったもの以上の飲食をご馳走になる。

そんな仲人さんと去年の歳暮の後、大いに盛り上がった話がある。それは日本の城下町の話であった。その時、私は全国通訳案内士の口頭試験を終えた直後であった。私は、その口頭試験の中で城下町の説明を求められたのだ。

仲人さんは大学時代、城下町の研究をされていたという。そして今でもそれに対しての興味を失っていなく、勉強を続けているとのことであった。私はいろいろと城下町について尋ねた。全国通訳案内の勉強をするうち、日本の城や城下町を見て回りたいという思いが強くなっていた。

「一緒に城下町を旅行しましょうよ」

酔いに任せて私は提案した。仲人さんは喜んでくれた。

その後はとんとん拍子で話が進み、2月に計画を実行することになった。しかし、コロナの拡大で旅行は延期となり、私は頃合いを見て先月再提案を行い、4ヵ月遅れで私たちの旅が実現することになった。

私の提案した3つのプランの中から仲人さんが選んだのは「城下町松阪と伊賀上野を巡るプラン」であった。

雨の松坂

私のミニバン「日本文化ワビサビ号」(両側のドアにサビが目立つのでそう呼んでいる)で仲人さんを迎えに行く。阪神高速から名神、第2名神へと経路を取り松阪を目指していく。

運転しながらずっと仲人さんと話を続ける。私はもともと中学校社会科教師を目指していた男。浅くではあるが歴史や地理は一通り勉強した。仲人さんは歴史が好きな人である。窓から見える景色や地名がすぐに二人の話題となる。このことがすごく楽しい。

歴史や地理に興味を持たない友人との旅だと、私が何か投げかけても反応が薄くて張り合いがないのだ。

これが歴史・地理好き同士だと話が異なる。例えば、京都南インターを過ぎ、滋賀県との府県境にさしかかる。私が「日本で一番最初に高速道路が開通した区間ですね」と投げかけると、そこから戦後日本の復興期の話となる。このやりとりがたまらない。

昼前に松阪に到着する。天気予報通り、きっちりと雨が降っている。お城近くの駐車場にワビサビ号を止め、傘をさしながら城下町を歩く。地名と案内図を頼りに、二人の脳内で江戸時代のこの街を再現していく。

大手門前のほんのわずかなクランクと近くを流れる水路。普通の友達と歩いていたのでは絶対に話題に上がらない。私たち二人はそこに城門と掘割の存在を確認する。街の形にはすべて意味がある。私たちは目に見える世界を時間の中に落とし込み、脳裏の中に別の世界を作っていく。なんて知的で楽しい遊びなのだろう。

やたらと「牛銀」の看板が目立つ。松阪の豪商の一つ「長谷川家」の近くのその店に入る。「旅行の出発祝いをしようか」と仲人さんは言う。ビールとノンアルコールビールで乾杯。私一人では絶対に注文しない「すき焼き御膳」をご馳走になる。こんなに柔らかい牛肉を食べたのはいつ以来であろうか。

食事を終えて、街を散策する。雨は相変わらず降り続いている。しかし、長谷川家住宅から見るこの雨模様には、なんとも言えない情緒が宿っている。当時の人は雨の存在を前提に庭を設計したのではないかと思うほどである。

本居宣長旧邸宅跡に一本の松の木が生えている。ここの主がいた当時から存在するらしい。その松も雨に打たれている。じっと見ると、私に何か語り掛けているような気持ちになる。仲人さんも何か感じるのか、写真をとっている。

城跡と武家屋敷

松阪城跡へ登る頃には雨は止みかけていた。「大名はここを駕籠に乗って登っていたのかな」と想像しながら、天守跡を目指して坂道を歩く。ただ歩くだけではない。仲人さんによる城の構造の解説付きである。私は今までいくつかの城跡を訪問していたが、何も見ていなかったことに気づかされる。

ここでも言葉の偉大さがわかる。私はこの場所を「城跡」「石垣」といった言葉でしか分節していない。大雑把でのっぺりとした世界が目の前に現れる。そこに「大手門」「馬出」「搦手門」「二の丸」といった言葉が加わる。目に見える世界がどんどん細かくなっていく。私たちは言葉によって想像された景色を眺めている。

武家屋敷

搦手門から武家屋敷へと移動する。

江戸末期に建設されたこの武家屋敷群は、展示用の一軒を除いて現在も個人所有で住居として使われているという。真ん中の通りから両脇の屋敷群を眺める。電灯を除くと江戸末期から景色が変わっていないと思える。

私たちは、その展示用の一軒に入った。土間があり、障子で仕切られた和室が4つあり、板張りの通路が奥の厠へと通じている。ここでも自分の語彙不足を恨めしく思う。私がこの建築物の細部を表す言葉を持っていたのなら、より江戸に近い世界を体験できていたであろう。

それにしても静かで落ち着いた空間である。この家を除いた十数件の人々は、日常生活をこの空間ですごしているのだ。ある意味、ものすごく恵まれた人たちで、私もここで昔ながらの生活をしてみたいという気持ちが湧き上がってくる。「静寂には価値がある」そんな言葉が浮かんでくる。

津城跡を経て

武家屋敷の跡、私たちはしばらく街を散策した。地名を見ながら、屋敷の区画の大きさを見ながら、脳内に武家屋敷を再現していく。

軍隊、警察、裁判所、市役所、税務署、現代でいうそれらの機能を一手に担っていたのがかつての武士であり、城はその総合庁舎であった。当然その中には厳格な上下関係、序列があり、それは住居にも反映されていたであろう。

同じ城の周りであっても、明らかに町割りの大きさが異なっている。ここでどのような階級の人たちが、どんな暮らしをしていたのかを想像してみる。

江戸時代から「今」の積み重ねで2022年まで時間が経過している。当たり前すぎることであるが、時間は一瞬たりとも欠けることなく連続してつながっているのである。どこかで武士がいなくなり、どこかで家の形が変わり、町割りの大きさだけが残っている。不思議な気持ちになる。

今日は津市内のホテルを予約している。途中「津城跡」を車の中から見学して、私たちはホテルへと向かった。一国一城制度のあった江戸時代に、松阪そしてこの津と、こんなに立派な城が2つあってよかったのだろうか。私たちのこの疑問は、とりあえず宿題となった。

夕食の前に、私たちは大浴場へ向かった。仲人さんとは宿泊するのも、入浴するのも初めてである。なんだか少し照れくさい気持ちになるが、一緒に湯船につかり話をした。「自分の父親とこうやって湯船につかることはもうないだろうが、この仲人さんとならあるかもしれない」そんなことが頭に浮かんできた。

三重の地酒

私たちはホテル近くの居酒屋に入り、地の魚とお酒を堪能した。仲人さんとこんなに一緒にいたのは初めてのことであった。私たちの話は尽きることなく、居酒屋からホテルの部屋へと場所を変えて飲みつづけ、私の方が力尽きて眠りに落ちてしまった。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。