レアな経験(後半)

朝の散歩

若者たちの晩婚化が叫ばれて久しい。私たちの時代は30歳が一つの目安であった。20代後半で結婚して、30歳で親になる。特に女性にとってこの数字は切実なラインであったと思う。

今は30になり結婚している男性は少数派になってしまった。私のまわりでも、30代の独身は両手では数えきれないほどいる。性別を問わずにである。

どうして人々は結婚しなくなったのだろうか、その理由についてここで考察するつもりはない。私が興味あるのは、ただでさえ少なくなった結婚に対し、仲人を立てるカップルの割合がどれくらいあるのかということ。そして、その中で結婚式から十数年を経た後、仲人と二人で旅をする男がどれくらいいるのかということ。

間違いなく、私は世の中でレアな経験を今行っている。それはそれで、私にとってすごく楽しい経験である。

昨夜は私が眠りに落ちるのが早かった分、翌朝も私が先に目を覚ました。そして、私の病気が始まった。就寝中の仲人さんを横にイタリア語のテキストを開く。こんな状態では頭に入るはずがないと分かりながら、毎日学習しないと気が収まらない。

昨年は、訳あって次男と3回北海道に行った。私は、いずれの時もテキストを手放すことができなかった。かといって、目に見える成果があるわけではない。語学の沼に足を取られたままである。

今回は朝食なしのプランで宿泊していた。近くの喫茶店でモーニングを食べようと思っていたからだ。三重県は、東海3県に属しながらも関西の文化も強い面白い場所である。私たちは、そんな三重の喫茶店は名古屋の影響をどれくらい受けているのか知りたかったのだ。

ホテルを後にして東へ向かて歩いて行く。ほどなく喫茶店を見つけたが、開店まで少し時間がある。

「この先歩いたら海が見えるかな」

仲人さんが言う。私たちは東へと歩みを進める。大きな道を渡るとその先に海の気配がする。朝の太陽の方向に海がある。私たちの住む場所では、海は南の方向だ。新鮮な感じがする。

大きな川の土手に出てそのまま河口へと下る。防波堤から伊勢湾、そしてその先の知多半島がうっすらと視界に入る。昨日とは打って変わり強い日差しの下、私たちは風を受けながらしばらくその景色を眺めた。予定より30分以上遅れた朝食になったが、予定になかった景色が見られて心が満たされた。

ここでの朝のモーニングは完全に愛知県寄りであった。

寺内町

今回の旅行のテーマは「城下町松阪と伊賀上野城を巡る旅」であったが、私たちは津に宿泊した。その理由は、私が個人的に一身田の寺内町を訪問したかったからである。

NHKの国際放送に”japanology”という番組がある。私は英語学習と通訳案内士の勉強を兼ねてこれをよく見ていた。そして一身田は昨年この番組で紹介されて知ったのである。

三重県の歴史的な観光地といえば伊勢神宮が筆頭で、その存在があまりにも大きすぎてその影に隠れてしまうが、この一身田の寺内町もかなりの存在感であると私は思う。

田んぼの中の国道を進むと前方に巨大な屋根が二つ見える。方角的に間違いなく一身田の専修寺である。私の車「ワビサビ号」にはカーナビがついていない。私は五感のセンサーを総動員して目的地に近づいていく。たまに道を見失うことがあるが、このカーナビに頼らないドライブは車を運転し始めたころのワクワクを私に与えてくれる。

専修時の広い駐車場に車を止めて寺へ向かうとすぐに環濠が見えた。三面はコンクリートで固められているが、寺の敷地に沿ってまっすぐに同じ幅の堀が伸びている。中を見ると水の流れがない。用水路であるならこの季節は必ず水が流れている。まぎれもなく防御のための堀である。

寺の正面の通りに出て、本堂側の門から入る。ここには本堂(如来堂)と御影堂の2つの巨大な建築物があり、それぞれの正面に立派な門がそびえている。

専修時御影堂

私たちは順番にお堂に入り中を見学した。仲人さんはどうなのかは分からないが、私は仏に対して祈りを捧げた。私は神や仏は存在すると考える。昔からそう思ってはいたが、この数年でそのあり方に対して変化があらわれた。

今は神と仏、どちらも「有史以来の人々の祈りの集合体のようなもの」そいう風に思える。この話、書きだしたら横道にそれまくるのでこの辺りにしておく。

畳の敷き詰められた巨大な空間の真ん中に仏さまたちが鎮座している。単純に「これほどの空間が必要なのか」と感じてしまう。ここでも、私の中に効率を第一に考える近代の思考法が現れる。

私は今こうやってこの建物と仏さまに圧倒されているではないか。このような気持ちになるためには、この空間が必要に決まっているのだ。

寺の周辺を散策した後、私たちは車に乗って環濠の周辺を巡った。この寺内町は周囲がそれほど開発されておらず、江戸時代の規模がよくわかる。数百年に渡り、ここで浄土真宗の信徒たちが営みを繰り広げていたのだ。

環濠の入り口の門は夜になると閉じられていたという。私たちはその場所を自動車に乗って通り抜ける。時代は変わっていく。空間の痕跡と言葉があるからこそ、その時代の変遷をこうやって今味わうことができる。

街のすぐ脇には旧伊勢街道が通っている。東日本各地の人々がこの道を歩いてお伊勢参りを行った。生まれ育った藩で一生を終える人がほとんどの中、選ばれた人のその道中はどんな心持だったのであろうか。それと同じレベルの高揚感を、私は味わうことなくこの世を去っていくのだろうか。

私たちは伊勢の国から伊賀へと進んでいった。

忍者の里

レアな経験、仲人さんとの二人旅も最後の訪問地になった。私たちは名阪国道を通り伊賀上野へと入った。昼過ぎだったので、中心街の駐車場に車を止めて近くの食堂に入った。

コロナも落ち着きつつあり、ここ伊賀上野にも観光客が戻ってきているようだ。やたらと忍者の衣装を着た子供の姿を目にする。この食堂にも何人か入ってきた。メニューにも忍者を意識したものがあり、店内のテレビでは忍者の解説が英語の字幕付きで映し出されている。

インバウンドが回復すれば、ここにもたくさんの外国人がやってきて忍者の格好で歩き回るだろう。私はその時何をしているのだろうか。全国通訳案内士として外国人旅行客に忍者衣装の手配をして、アトラクションの解説をしているのかもしれない。

食事を終えると徒歩でお城へと向かった。城周辺には学校や役所など公の施設が多い。これは全国に共通してみられることだ。私はこの城周辺のゆったりとした雰囲気が好きだ。ここ伊賀上野でもそんな雰囲気を味わいながら城へと昇っていく。

ここ伊賀上野城は石垣が有名である。お堀から30メートルの高さの石垣がそそり立っている。上から見下ろすと、重機や飛行機の無い時代、ここを攻め落とすことが不可能に思える。

周りを見渡すと山々に囲まれた盆地。つまりここは山から削りだされた細かい土砂が堆積した場所。それではこの石垣の巨大な石はどこから運ばれてきたものであろうか。昨日の松阪でも同じことを思った。そこだけではない、平地にある城を見るたびに同じことを考えてしまう。

内燃機関の無かった時代に、いったいどうやってこのようなものを作ったのだろうか。人の手によってに決まっている。しかし、このように途方もない作業に、人々はどのような気持ちで従事したのであろう。

城内をしばらく散策し、天守閣の資料館を見学し、私たちは外に出た。あとは駐車場に向かって「ワビサビ号」に乗って兵庫へ帰るだけだ。

あっという間の2日間だった。歴史のこと、地理のこと、これまでの人生のこと、これからの人生のこと、たくさん話をした。人と人とのつながりが希薄になる昨今の世情の中、こうやってひと回り以上年長の仲人さんと二人で旅をすることは、どこそこにあることではないと思う。

私はこのようなお付き合いをできる人を持てたことに感謝した。そして、またいつか一緒に城下町を旅したいと思った。

一日目の朝、ワビサビ号で迎えに行った時、奥さんが私に言った。

「もう、遠足前の子どもみたいで…」

私の仲人さんは落ち着いた人で、あまり感情を強く表すことはない。私はこの一言を聞けただけでも、この旅行を企画してよかったと思った。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。