山笠ラーメン
神戸市で随一の歓楽街は阪急三宮駅の西口からその北側の東門街にかけてであり、そこには数百件の飲食店が立ち並び夕方になると大変な賑わいを見せます。
その西口のサンキタ通りに面してかつて「山笠」という名前の屋台風立ち食いラーメンがありました。名前の通りとんこつスープに細めのストレート麺という博多スタイルで、ラーメン1杯500円で食べられました。
24時間営業のこの店がもっともにぎわていたのは夜9時から深夜にかけてでした。この時間帯のお客さんの多くは、飲んだ後の〆の一杯を求める人々でした。酒を飲み続けると不思議なものでお腹が減ってきます。つまみを食べながら飲んでいても、小腹を満たすために軽くラーメンを最後のビールと共に味わうということになります。
若き日の私もその例外ではなく、終電に乗る直前によくこの立ち食いラーメンを食べました。「肝臓にいいから」という理由でゴマを大量にかけて、麺をすすり、紅生姜でピンク色になった汁を最後まで飲み干します。
当たり前のように行なっていたこの飲んだ後の最後の〆ですが、40代にさしかかることからキツくなり、いつの間にか行わなくなりました。山笠ラーメンも気づかないうちになくなっていました。
それでも飲んだ後気分がいい時は、ラーメンを食べて帰ったりカップ焼きそばを家で作って食べたりします。しかし、翌朝必ず後悔することになります。若き日のように、私の胃が夜遅く投入された炭水化物を寝ている間に消化してくれないのです。特にカップ焼きそばを食べた次の朝は最悪で、ソース味の気持ち悪いゲップに昼過ぎまで苦し無ことになります。
若いからこそ体調良く行える、この飲んだ後の〆のラーメンですが、私たちは今回2泊の鹿児島滞在で2度行うことになりました。仲人さんは「2日連続で〆のラーメンを食べるのは初めてのことかも」と言われます。それは私も同じです。
私はこんなところでもレアな経験をしてしまいました。きっと鹿児島の食材と芋焼酎が私たちにあっていたのかもしれません。何を食べても美味しと感じながら、私たちは薩摩の夜も堪能したのです。
南国の武家屋敷
さて、話は二日目の朝です。この日私たちはレンタカーを借りて鹿児島市街へと出かけました。出水方面、大隅半島と候補地はいくつかありましたが私たちは一番メジャーな薩摩半島を南へ下りました。仲人さんが初めての鹿児島なので知覧の特攻資料館は押さえておきたかったことと、私たちの旅の大きなテーマは城下町なので同じく知覧の武家屋敷群を見学したかったからです。
ガラガラに空いた指宿スカイラインを30分も走ると知覧のある南九州市に入ります。私たちの見慣れた農村とは明らかに景色が異なります。シラス台地の上だけあって幅が広くて深い谷が発達していません。台地の上の単調な景色が続きます。大きな河川が見られません。
少し開けた場所に知覧の街がありました。ここを始めて訪れたのは30年近く前のことです。大学生だった私はどうしても「知覧特攻平和会館」を訪問したくて寝台特急なはと路線バスを乗り継いでここまでやって来ました。その当時は城下町にも興味はなく武家屋敷群は素通りしました。その後もここには2度来ることがあったのですが、私が中心の旅ではなかったため武家屋敷は見学しませんでした。
そんなわけで私は4度目の訪問にして初めてこの街で明治以前の歴史に触れることとなりました。車を駐車場に止めて、二人でぶらぶらと街を歩きます。本州の城下町を見慣れた目からすれば明らかに異質な感じがします。
通りと屋敷のあいだに土の塀はなく、石垣と名前はわかりませんが南国系の垣根で区切られています。石垣や庭石に安山岩や花崗岩が見られません。庭の土は一目見て火山灰由来だとわかる色と感触をしています。屋敷は上からみると二つの四角形の建物をずらしてつないだ形をしています。
江戸時代、一国一城制の中、薩摩藩ではこうした武家屋敷群を国中に配置し、それらを麓と呼んでいたそうです。麓では武士たちが農業をしながら非常時に備えていたと言います。
「中央から遠いぶん兵農分離が厳密ではなかったのかも」と仲人さんが言います。たしかに薩摩の国中に100以上広がっていた”城下町”で、私たちが今まで見てきた松阪や丸岡や丸亀などと同じような武士の姿を想像することができません。
現在とは比べ物にならないくらい多様性のあった江戸時代には同じ「武士の暮らし」や「城下町」といっても、様々な姿があることが想像させられます。
一時間ほど武家屋敷群であれやこれやと考えたのち、私たちは特攻平和会館へと向かいました。

ほんの数年間
この場所にやってくるたび私は人間とは何か、生きるとは何か、そのようなことを考えずにはいられなくなります。ここに平和記念館ができて40年になろうとしています。今では鹿児島でも有数の観光地となり、毎年多くの人々がここを訪問していますしこれからもそうあり続けるでしょう。
平和を願う施設が当たり前のように存在し続けるこのこの場所ですが、ここに飛行場があった期間はほんの4年間に過ぎません。しかも特攻基地として使われたのは沖縄戦から終戦までの数ヶ月間です。
ここでもまたあと一年戦争が早く終わっていたらという思いが湧き上がってきます。このレアな旅シリーズで福井や福山を訪問したときも同じことを感じました。歴史にもしはありませんが、日本が太平洋戦争の最後1年間で失ったものはあまりに大きいと感じずにはいられません。
知覧を含む特攻攻撃で亡くなった兵士は1000名を超えます。まだ二十歳にも満たない少年たちが爆弾と共に敵艦に体当たりをしたのです。私自身の息子たちとちょうど同じ年頃です。本人はもとよりその両親や家族の心中を察すると涙があふれてきます。
長い人間の歴史の中で薩摩半島の一部にほんの数年間だけ飛行場が現れ、その最後の数ヶ月間そこから敵艦へ体当たりする飛行機が飛び立っていた。その前はずっと畑であり、その後は運動場など町の施設が建てられそこに特攻平和会館が作られた。
人間の歴史という流れが知覧という座標に交わり、ほんの一瞬悲惨な場所を作り出した。不運にもその時期にその場所に行かざるを得なかった人々がいたことを私たちは語り続けていかなくてはならないと思います。
いろいろ想像しながら
車を南へと走らせます。普段見慣れない地形の上の道をあれやこれやと話しながら進んでいきます。こんなに開けた場所なのにほとんど水田が見られません。正面に開聞岳が美しい姿で横たわっています。
桜島、錦江湾、開聞岳、池田湖、このあたりの地図を見ると火山活動が活発であることがわかります。私たちはその火山活動の痕跡の一つである山川港を目指しました。
幕府のある江戸から最も離た辺境の地にあった薩摩藩、その石高は77万石を数えました。全ての藩の中でもトップクラスの大きさで、その力は維新の原動力となりました。
米の取れない薩摩藩にあって、その経済を支えていた理由の一つは琉球を通じての密貿易でした。私たちはその舞台となった山川港を見てみたかったのです。
指宿枕崎線のガードを越えると港の全景が見えます。湾全体が火山でできた火口壁によって囲まれています。東側だけ外海とつながっています。一眼見て良港であることがわかります。周りからは見えない秘密の港っぽい雰囲気がします。
私たちは車を湾に沿って走らせました。江戸時代の名残が何かないかと探しましたが、特別な史跡を見つけることはできませんでした。
私たちは道の駅の港の見える席で遅めの昼食をとりました。安くて美味しい刺身定食を食べながら、200年前のこの場所の様子を想像してみました。
ここは江戸から最も離れた辺境の場所です。しかし、この港から琉球そして清への道がつながっていたわけです。長崎が幕府公認の国際貿易港であるとすると、ここは非公認の国際密貿易港であったのです。幕府の監視の届かない場所で、人々はどんな気持ちで外国の人や物と接していたのでしょうか。考えるとワクワクしてきます。

山川を後にすると、私たちは指宿の街を抜け、喜入の石油タンク群を見ながら鹿児島市街に入りました。返却時間ギリギリまで車から鹿児島の街を観察します。
私たちは常に話をしながら目に入ってくるものの意味を時間のスケールに当てはめて考えます。本日もたくさんの学びがありました。たくさんあり過ぎてそれを咀嚼するにも時間がかかり過ぎます。
そのようなわけで、この日の夜も天文館で夜遅くまで焼酎を飲み、最後の一杯と共に〆のラーメンを食べることとなったのでした。
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