”三流シェフ”の街(後編)

ニシンの街

私と次男が留萌の街を訪問するのは今回で三度目であった。

最初は2021年の夏、札幌を朝一番に列車で出発し、この街でレンタカーを借り、すぐに羽幌方面へ向かった。羽幌線の廃線跡を見ながらドライブするのが目的であった。駅でそばを食べた後、車で市内を通り過ぎるだけの滞在。

二度目は同じ年の冬、豊富から小樽へ向かう予定であったが大雪のため宗谷本線が止まった。私たちは急遽羽幌経由留萌行きのバスに乗り、留萌本線経由で深川へと向かった。この時も、バスを降り、駅前でラーメンを食べるとすぐに列車に乗った。

そういうわけで、留萌の街をそれなりに見るのは今回が初めてであった。「廃線になる前に留萌本線に乗っておくこと」二人にとって出発の数日前までは、これが共通の目的であった。

「三流シェフ」に出会い、私の目的が変わった。三國清三が中学生まで過ごした街を感じてみたかった。私は「三流シェフ」の第一章を何度か読み北海道へ向かった。この章のタイトルは「小学校二年生の漁師」。三國氏が札幌へ出るまでの生活が書かれている。

昼過ぎ、私たちの乗った列車は留萌駅へと到着した。廃線前の冬休み、車内は多くの鉄道ファンらしき人で賑わっていた。それでもキハ54一両の座席で何とか収まる程度の数である。鉄道の輸送力では持て余す。

単行の列車に不釣り合いなほど立派な駅の一角に駅そばがある。記念切符を買い求める鉄道ファンをよそに、私たちはニシンそばに舌鼓を打つ。ニシンはこの街を象徴する魚であり、街のゆるキャラも数の子をかたどった「KAZUMOちゃん」である。そうはいっても、今食べているニシンがこの場所でとれたものとは思えない。この町はニシンと石炭によって繁栄を極め、それらが去ると同時に勢いを失った。

ニシンも石炭も今はこの街にはない。そばの中のニシンはどこで水揚げされ、加工されたものだろうか。普段あまり魚を食べない次男が「おいしい」と言いながらニシンにかじりついている。

増毛行のバスまであと10分ほどだ。荷物を預けて乗ろうと思ったがコインロッカーが見当たらない。駅員さんに聞くと、ここには無いという。改めてここでの鉄道の存在感の無さを感じる。

増毛方面へ向かうバスは一日10本足らず。私たちは12時半の便に乗り西へと向かった。バス会社は前年に豊富から留萌までお世話になった沿岸バス。一年の長さが数週間に感じられる。

留萌駅のニシンそば

無言のままで

バスは国道231号線を進む。留萌の市街を抜けるとすぐに日本海が右手に現れる。「ああ、あの光景だ」思わず口にでる。海が道路の近くまで迫り、僅かな平地を挟んだ反対側には切り立った丘がある。風が強いためなのか植生が乏しく、本州なら森になっていそうな場所に木が生えていない。

幌延から留萌まで、羽幌など一部の街になっている部分を除いてそんな光景が延々と続いていた。留萌の街を挟み、北東から南西へと同じ景色が続いていく。地図を見ると「オロロンライン」と書かれている。オロロンとはウミガラスのことだという。目の前の景色のせいか、何となく寂しい響きがある。

鉛色の空、白波と共に激しくうねる海、廃屋や放棄された漁業施設、ところどころに現れる廃線跡。私も次男も黙ったまま外を眺めている。言葉が出てこない。10人ほどの乗客が一人また一人と降りていく。ここに生活基盤があるのだろうか。どのような気持ちでここでの冬を過ごしているのだろうか。

単調な景色の中に、ぽつりぽつりと集落が現れる。少し平地が広がったと思ったら、そこには川があり、今は列車の走らない鉄橋が現れる。7年前までは、ここに列車が走っていた。集落の規模とバスの乗客数を考えると不思議な気がする。ニシンがとれていた頃は、多くの人や貨物で賑わっていたことであろう。

半世紀以上前、三國少年はここを列車に乗って留萌の街まで魚を売りに行っていた。

一斗缶にウニやアワビを詰めて、朝六時半の汽車で市場に運ぶ。現在は廃線になってしまったが、当時は留萌駅から終点の増毛駅まで鉄道が通っていた。その沿線の舎熊駅まで一斗缶を背負って歩いた。

「三流シェフ」15~16ページ

「舎熊」という地名が見える。増毛までの道のりでは比較的開けた場所だ。私は窓に額をつけ、駅の場所を探しながら当時の様子を想像した。私の目の前に広がる空間を、小学生だった三國少年が一斗缶を背負って歩いていたのだ。何を思いながら歩みを進めていたのだろうか。

しばらくすると朱文別にさしかかった。三國氏が生まれ育った場所だ。私一人ならバスを降りて集落を歩いてみたかった。今回は次男が主役の旅行だ。バスの窓からじっと海を眺める。

「冬はどうしていたのだろう」

高い波がひっきりなしに海岸に打ち付けている。「ここに手漕ぎの船で出ていくことは命がいくらあっても足りない」私にはそう思えた。波が穏やかな日を選んで漁をしたのか、それとも冬場は畑作りに専念したのか。

旅を終え「三流シェフ」を読み返してみた。

無言でめったに話さない父の一言も記憶に残っている。冬の大荒れの海で、ぼくが凍えながら船をこいでいるときに父から教えられた。

「大波が来たら逃げるな。船の正面からぶつかってけ」

「三流シェフ」35ページ

やはり漁に出ていたのだ。手漕ぎの船にのって、命がけであの海に漕ぎ出していたのだ。生きていくために、家族を養うために。北海道を一人で旅することがあれば、今度はあの冬の朱文別の浜に立ってみたい、今そのように思っている。

私は、この厳しい光景に三國氏の幼少期を重ね合わせて無言になっている。次男も言葉を発することなく、窓の外を眺めたままである。彼は三國清三が誰なのか知らないが、この増毛の冬の景色に私と同じような感情をいだいているのだと思う。

三つの音

留萌乗車時点では10人ほどいた乗客も、旧増毛駅前まで乗ったのは私たち二人であった。最後の客二人を下ろした車両はこの先「大別苅」という場所まで行く。

増毛は留萌から南西に続いてきた海岸線に対して、海に突き出す地形の上にある。地形に沿って東からカーブをした線路が、このまま進んだら海に落ちてしまうという場所に増毛駅は作られている。これほど終点らしい終着駅も珍しい。港から貨車にニシンを積み込む様子が想像できる。

私と次男は雪の積もったプラットホームに立ち、ただそこで時間を過ごした。一年前の音威子府駅を思い出す。あの時は夜であった。あの日私たちは特別なことをするわけではなく、ただ駅で二時間過ごした。

この駅が音威子府と異なるのは、ここにはもう列車がやってこないということ。ホームの上には駅名標もあり、見る限りレールは留萌方面へとつながっている。今にもディーゼルカーが現れてきそうだ。

たまに観光客が車でやってきて、駅名標をバックに写真を撮り、足早に去っていく。滞在時間数分の観光地。私たちはもう30分以上、何もせずホームの上に立っている。今の世の中、私たちの行動の方が異常である。しかし、もう列車は来ないとはいえ、駅で過ごす時間は退屈することがない。私は何度も目を閉じてカーブの向こうから現れる列車を想像した。

旧増毛駅 すぐ先は海

帰りのバスまでの間、私たちは増毛の町を散策した。ニシンの大群が押し寄せていた頃は隆盛を極めたこの町であるが、今は歩いていてもほとんど人に会わない。

私の耳には絶えず、風と、波と、海鳥の鳴き声が入ってくる。町のどこにいようとこの三つの音が混ざり合い、私たちの体を通り抜けていく。この辺りに生まれた人は、これらの音を聞きながら育っていくのだ。三國氏も、言葉を覚える前から、これらの音を聞きながら成長したことであろう。

私たちは、増毛の繁栄を象徴する国稀酒造に立ち寄った後、バスで留萌へと戻った。

屋上フェンスの向こう

私には留萌の街でどうしても行ってみたい場所があった。

留萌には八幡屋というデパートがあった。

その建物を初めて見た日には肝を潰した。なにしろ四階建てだ。しかも屋上まであって上れるという。エレベーターに乗るときは、宇宙にでも行くみたいな気分だった。 (中略)

ウニやアワビが思ったより高く売れた日は、八幡屋の屋上に上ってソフトクリームを舐めた。あの嬉しさは、今でもはっきり憶えている。ぼくが覚えている限りでは、あの時代の唯一の楽しい思い出だ。

「三流シェフ」19ページ

数十年間にわたって世界中の食通を唸らせてきたシェフを、幸せな気分にさせた味があった。もちろん、まだ何も知らない子供時代に感じた味であるが、今喜びと共に思い出せるということは、それは時を超えた「美味しさ」ということになる。

音楽の「音の良さ」の判断は聴覚以外にも依存しているように、「美味しさ」も味覚とそれ以外の要素から成り立っている。フレンチの神様と呼ばれた村上信夫氏は「一番おいしい料理とはなにか」という問いに「他のどんな料理よりも愛情が篭っている、お母さんの料理だ」と答えたという。

前置きが長くなった。私は「三流シェフ」を読み、苦労の少年時代を過ごした三國氏が、食べ物によってひと時の幸福を感じた場所に立ち、少年時代の彼の気持ちに共感したかったのだ。

現在の留萌に八幡屋がないことは知っている。かつての小売業の王様であった百貨店は、時代と共にその勢いを失い、今では県庁所在地クラスの都市でも経営が成り立たないケースもある。人口が三万に満たない街ではとても生き残ることができない。

私はネットで八幡屋の痕跡を探した。留萌の中心地、錦町という場所に数年前まで「留萌プラザ」という名前で営業していたようだ。おそらく、建物はまだある。

私たちが滞在したホテルから数分の場所に”八幡屋”はあった。

八幡屋デパート跡

文中にあるように立派な四階建ての建物だ。高度成長で日本が豊かになるにつれて人が押し寄せたのであろう、何度か増築した跡が見られる。ここが留萌の、いや増毛や小平や苫前を含めたこの辺り一帯で一番華やかな場所であったであろう。

貧困の中働きづめであった三國少年は、そのハレの場でひと時の幸せを感じる。「宇宙に行く」ような気持ちでエレベーターに乗り、屋上でソフトクリームを舐め、ほんの少しの時間、違う世界に生きるのだ。

私の目の前の建物の屋上、あの屋上に見えるフェンスの向こう側に一人の貧しい少年の幸福があったのだ。後に世界的な活躍をするとは想像もつかない一人の少年は、あの場所でどんな景色を見ていたのであろうか。私は朽ちていく建物の中を眺めながら想像した。

生と死の交差する場所

錦町・十字街と、私たちの滞在した宿の辺りは留萌の繁華街であったことが地名からも想像できる。”八幡屋”から港の方に向かって緩やかな坂道となっている。かつては商店と買い物客で埋め尽くされていただろうこの場所は、今は車ばかり通る空地の多いシャッター街となっている。

翌朝、私と次男はこの通りを黄金岬まで歩いた。右手の坂の下には倉庫などの港湾施設が見え、その先は港になっている。「小樽に観光客が集まるのなら、ここにも人が来てもいいはず」そんなことを言い合いながら歩いた。

実際に坂の上から眺める港は、ロケーション的には小樽と変わらない。しかし、こちらは朽ちていく建物が目立つ。岬には「海のふるさと館」という施設があった。傷んで応急処置をされたまま放置された柵に囲まれた建物だ。

「ここも朽ちていく建物か」と思ったが、冬季は休業しているらしい。壊れた柵がそのままなのは、修理する予算がないのであろう。

その危うい柵の手前で、私たちはしばらく海を眺めた。そして昨日に続いて無言になった。スマホで写真を撮ったが、このブログに載せる気にはなれない。この光景から感じることは、ここに立ってみないとわからない。

柵の向こう側には、荒れた日本海が広がっている。海岸線は波で白く染められている。その先に増毛の岬が見える。ここでも、聞こえてくるのは風と、波と、海鳥の鳴き声。

道路や家といった人工物が見えるが、それら人の手によって作られたものは、この自然の中ではすぐに消え去ってしまう、そんな気持ちになる。それは、ここの地形の歴史に人の生きている時間を対比させようとするようなもの。

波は何万年も変わらず打ち続けている。その間に、人が現れ、生き、消え去っていく。人の営み、人の作るものなど、取るに足らない存在であると思わせる。しかし、私たちはそのちっぽけな人生の中でしかこの世界を見ることができない。

ここは生と死が混ざり合ったような場所である。観光施設などどうでもよい。冬こそこの場所に立ち、この海を眺めるべきである。そして、生を受けた存在としてこの場所に立つことのできる奇跡を感じるのがよい。

「三流」の意味

この記事もいい加減長くなってきた。私の今回の旅は直前に「三流シェフ」に出会ったことでその意味合いを大きく変えた。別に私は世界的なシェフ三國清三氏と知り合いなわけではないし、彼の料理に魅了されたわけでもない。中学生の時テレビで彼を見て気になり、その後折に触れて私のアンテナが彼に反応しただけに過ぎない。彼は世界的な存在で、私はモヤモヤに悩む冴えない中年男だ。

しかし、こうやって彼を知り、ここというタイミングで彼の本に出会い、実際にこの地に来てこういう風に心を動かされると、三國清三を初めてテレビで見てからの私の人生が、必然的に彼がここで過ごした日々とつながっているような気持ちになる。

私は旅を終えてしばらく「三流シェフ」の意味を考えつづけた。なぜ、彼は今までの人生の総決算のような著書に「三流」というタイトルをつけたのか。一般的にシェフとして評価される彼の資質ではないことは明らかである。彼が三流であれば、世の中に一流や二流など存在しない。彼はそれほどの評価を受けつづけている存在だ。

本の後書きには次のようにある。

ぼくは自分を三流シェフだと思っている。

「三流シェフ」260ページ

私はこの言葉を信じることができない。

増毛、札幌、東京、スイス、フランス、そして世界と、彼の人生は常に現状に満足することなく、人の見えないものを見ることを追い求め走り続けた軌跡である。その足取りを一冊の本に記す時、一般的な意味での「三流」という言葉が出てくるはずはない。何か彼にしか感じられない意味が隠されているはずだ。

「三國」だから三なのか。あまりに単純すぎる。

日本、スイス、フランスの三国で修業したから三なのか。少しマシになった。

三ッ星を超越した意味での三を目指しているのか。これなら当てはまるかもしれない。

いろいろと考えながら私はある思いに至った。それは「三流シェフ」の「三流」の意味を考えつづけているのは私であるという事実だ。別にタイトルは何であってもいい。ひょっとしたら、それは出版社から要望されたものなのかもしれない。

しかし、そのことに意味があると思い、問いを立てて考えつづけたのは私自身であるのだ。それは必ずしも三國氏本人が熟考して思いついた名前とは限らない。

「セ・パ・ラフィネ」

直訳すれば、洗練されていない、だ。
スプーンを持つ手が震えた。言葉の意味はわかったけれど、彼が何を言いたいのかがわからなかった。(中略)

その日からずっと、そのことだけを考えつづけた。
洗練されていないとはどういうことか。厨房で仕事をしていても、修道院の薄暗くて狭い部屋に帰っても、延々と考え続けた。

「三流シェフ」192~193ページ

当時師事していたアラン・シャペルに言われた一言を彼が回想する場面である。この一言の意味を考え続けたことが、彼を世界の舞台へ押し出す「ジャポニゼ」を生み出させる原動力となった。

アラン・シャペル氏がどういう意味でこの言葉を発したのかは、誰一人として知ることはできない。それは言葉を発した本人ですら規定することはできない。”意味”とは常に受け手側の解釈に依存するものであるからだ。

アラン・シャペル氏は三國氏の料理を「セ・パ・ラフィネ」という言葉で切り取った。しかし、それは彼の中だけの「セ・パ・ラフィネ」であり、それに意味を持たせるのは受け取った側の解釈である。

若き三國氏は、その言葉を受けとりその胸で温め続けた。自分の存在意義をかけてその言葉と向きあい、そして自分にとっての結論を導き出した。その言葉に対する問いがあったからこそ、彼は世界的なシェフになったと言える。本当のところは誰にも分らないし存在もしないかもしれない。投げかけられた言葉を「自分のもの」と感じることができる感性が、目の前に新たな世界を作りだしていく。

私が考える「三流」も似たようなものだと思う。言葉自体に意味はない。ただそこに、音や文字として存在する。それに色を付けるのは受け手である私の心の動きである。やはり私の見える世界は、私の受け取る言葉とその解釈でできている。

三國清三氏は、三十七年間続いた「オテル・ドゥ・ミクニ」を閉じて、三年後に新たな店「三國」を始めるという。カウンター八席だけの小さな店だという。

料理はぼくの人生を切り開いてくれた。だけど、それだけじゃなく、料理は深く追求する価値のある仕事だ。三年後にぼくは七十歳になる。そのときに、ぼくの新しい店「三國」を開店させる。今度こそ、ぼくはぼくのために料理をする。

「三流シェフ」257ページ

私は今の仕事が好きである。正確に言うと、好きになった。しかし、今、私は自分の人生のために自分の思うことを始めようと考えている。その目安が三年後である。

偶然なのか必然なのか、規模は違うがここでも彼の進む道と動きが重なった。いつの日か、八席のカウンターのどこかに座り、三國清三のフランス料理を味わってみたい。そんな夢を私は今抱いている。

関連記事: ”三流シェフ”の街(前編) 一瞬の出来事

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。