不思議な気持ち

風に吹かれながら

サウナ室で10分間体を熱し、もう勘弁してくれというところで部屋を出て水風呂の中で「ううう」とか「ヒューっ」といった声にならない声を上げて露天スペースへ移動する。幸いなことに数少ないリクライニング式のイスが空いている。腰を下ろして体の水分を拭き、ゆっくりとイスを倒して仰向けになる。

ぼーっと空を眺めているとアドレナリンが放出されて視界が揺れる感じがする。今日は風が強い日。灰色の雲が頭上を次から次へと絶え間なく流れていく。手も足も、眼球さえも動かすことなくじっとしたまま一点をぼんやりと眺めていると、動きのある雲が生き物のように見える。心臓が全身に血液を送ろうと鼓動するのが感じられる。

私と雲の間にもう一つ動きが加わった。

どこからともなく一羽の大きな鷹が翼を広げて私の視界の中に入ってきた。翼は広げたままでほとんど動かさない。それでいて海の方からの風にのり、悠々とした大きな動きを見せる。きっとあれだけ見事に風を制御できれば気持ちいいであろう。

空の食物連鎖の頂点に立つ存在。風に乗りながら、その鋭い目で地上をはい回る獲物を探っているのだろう。「かっこいいなあ」ぼんやりとまどろむ私の目を覚まさせたのは、鷹から飛び出したもう一つの動きのある物体であった。

「うぁ、なんか出た!」

長くて白くてヒモのように見えたものが「鷹のフン」であると分かるまでに1秒ぐらいかかった。そのものは吹かれる風に形を変えながら私の心配をよそに露天スペースの外側へと落下していった。一瞬の出来事であったがコマ送りのように感じられた。

穏やかな気分でいたのにたかだか鷹のフンで動揺してしまった自分が少し悲しかった。そして私はしばらく鷹のフンについて考えてしまった。あれはいったい何なのであろう。

つながっている

鷹のフンが何物なのか、フンはフンに決まっている。鷹が消化をして栄養を吸収し最後に残って排出されたものである。ではそのもとの形は何であったのか、それは鷹の口に直接入るものになる。

たぶんこの辺りでは野ネズミやハトなどの小さめの鳥、少し山に行けばウサギなんかも捕まえるかもしれない。いずれにせよ肉食の鷹は生きた動物を捕まえて食べることになる。

鷹に食いちぎられた小さな動物の破片から、肉や血や脂肪が鷹の消化器官へと入り込み消化され必要な栄養が吸収される。鷹はそれらの動物の命により生きながらえて、栄養が満ち足りれば繁殖へとつながっていくだろう。

それでは鷹から出されたフンはどうなるのか。不必要なものかと言えばそうではない。太平洋のミクロネシアに浮かぶ島「ナウル」は前世紀にリン鉱山で栄えた国である。リンは植物を育てるために必須の栄養素であるため、鉱山でとれたリンは化学肥料に使われたという。

そして、このナウルのリン鉱山を作ったのは海鳥のフンなのだ。一面海に囲まれた島としてナウルは海鳥たちのよき休憩場、そして繫殖地だったのだ。何十万年か何百万年か分からない。とにかく気が遠くなるほど長い間に降り積もった海鳥のフンは、この地にリン鉱石をもたらした。

加工されたリン鉱石は世界中の大地で穀物を生み出す栄養素となった。鳥のフンは長い時間をかけて私たちの口へと入る食べ物に変わる。

私の目の前の鷹が放ったフンはどうなのだろうか。この建物の露天スペースからは外れて下へと落ちていった。周りの地面のどこかへと着地したはずである。そこが土の部分であったら、その中に染み込み時間をかけて分解され、そこに植物を育てる養分になるであろう。舗装面に落ちたとすれば、雨水に溶けて流されて最終的には海へと向かうであろう。フンは分解され植物性プランクトンを育てる養分となる。

地上に生えた草も、海で発生した植物性プランクトンも、時が経てば草食動物の口に入るか、または別の植物の栄養源へと変わる。植物から小さな動物へと変われば、あとは徐々に大きな動物へと食物連鎖が続いていく。

草を食べる小さな虫が、肉食の虫に捕食される。肉食の虫はカエルに捕食されカエルはヘビに捕食される。そのヘビを私の上空を飛んでいる鷹が狙っている。

すべての生き物は少しずつその形を変えながらグルグルと周っている。不思議な気持ちになる。

思いこみ

このように食物連鎖のことを考えるといつも決まった場所に思考が行きついてしまう。それは「私」とは一体何かということ。

分子レベルで見るとすべての生き物は循環している。私は私が食べて飲むもの、それに私が吸い込む空気からできている。

私が食べるものは食物連鎖の果てに私の口に入ってくる。その途中には、あの私の目の前で放たれた鷹のフンも関わっているかもしれない。あの鷹ではないにしても、何ものかのフンは植物を育てる栄養として必ず関わっているはずである。

そのようなものを食べて私は私になっている。私はかつてフンであったものも含めて食べて今の私になっている。そのように私は絶えず循環する混沌のした流れの中にあり、何一つ同じ状態など存在しない。

私の肺が呼吸をするたびに、私の心臓が鼓動するたびに、私を構成しているものは私の体の中を巡り、一瞬たりとも同じ状態を維持することなく、やがて私の境界線から出ていってしまう。

そう考えると「私」とは思いこみのようなもので実態がないように思えてくるのだ。さっき「境界線」という言葉を使ったが、そんなものも思いこみの一部で存在しないような気がしてくる。

物理的な境界線は無いように思え始めたらデカルトが私の中にやってくる。「ではそれを考えている存在は何なのだ」と。こうなると私の思考はいつも同じ方に進んで行く。そして最終的には生物の始まり、46億年前の地球の始まり、130億年前のビッグバンで私の思考は停止する。そこから先を考えることのできる知識を私は持ち合わせていないのだ。

考えずにはいられないが、考えても仕方がないことかもしれない。「サウナで気持ちよくなっているならそれでいいじゃないか」と的外れなことを思ったりする。

疲れたので最後に一つ。鷹のフンを見て私たちがいかに「思いこみ」に支配されているのか気がついた。

私は落下する白いフンを見ながら「こっちに来るな」と思った。しかし、これが鷹のフンと犬のフンが同時に落下した場合ならどうだったであろうか。どちらかによければどちらかが当たるという状況なら私は迷わず鷹のフンに当たることを選んだであろう。

ではこれが犬と人間のものならどうであろう。今までの人生で何度か犬のフンを靴で踏んでしまったことがある。私はその度にこう思った。

「人間のそれよりマシだ」

どうしてそう思うのかわからないが、そう思ってしまう。鷹、ウサギ、金魚、虫、人間から離れれば離れるほどそのフンに触れる時の嫌悪感が小さくなる。そしてその最大値をもつモノを、今現在も私は自分の体内にもっているのである。

私たちは「思いこみ」によって生きている。とても不思議な気がする。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。