不条理の消費

月曜の朝

新しい週が始まり「おはようございます」の挨拶と共に職場の扉を開ける。すぐに同僚の一人がやってきて私に声をかける。

「亡くなったなあ」

「誰がですか?」

「錣山親方」

突然のことに言葉が出てこない。自分の机に座りパソコンを立ち上げてニュースを検索する。見出しに名前が載っている。新聞を見てみる。錣山親方の訃報があった。

「人って死ぬんだ」

当たり前のことであるがこう思った。

「寺尾」という四股名には特別な響きがあった。私が全く大相撲に興味がなかった時代、「寺尾」は私が知っている数少ない関取の名前の一つであった。私のなかでは「千代の富士」や「貴乃花」に並ぶぐらいの大きさがあった。

まったく相撲は見なかったが「寺尾の突っ張り」という言葉は子どもの時代から知っていた。昨年、私の大好きなテレビ番組「どすこい研」のテーマとして「突っ張り」が取り上げられた。人々が持つ突っ張りのイメージの力士、ダントツの1位は寺尾であった。こうして書きながら「寺尾の突っ張り」と言いながら友達を突いてじゃれていた記憶がよみがえってきた。

去年の九州場所で阿炎が優勝したとき、錣山親方のコメントを読んだ。「阿炎のもろ手突きは寺尾仕込みなんだ」と今更ながらではあるが思った。阿炎も優勝インタビューで師匠のことに触れたとき「迷惑しかかけてこなかったので」と涙ぐんだ。素敵な親方だと思った。

私が大相撲に興味を持ち、初めて買った相撲雑誌に元「坂鉾」こと井筒親方の訃報が載っていた。まだまだ大相撲のことは知らなかったが坂鉾と寺尾が兄弟だということは知っていた。兄に若くして先立たれ、「寺尾には長生きしてもらいたいなあ」とその時思った。

記憶をたどりながら、錣山親方に関して思い出すことを書き綴っている。気分は暗いままである。元相撲取りが60歳で心不全のために亡くなった。10代の頃の私がその知らせを聞いたら何も感じなかったかもしれない。昭和30年代に生きていたとしても同様である。明治時代や戦争中であったら「いい人生を送ることができた」と思えるかもしれない。

しかし、現在に生き「80以上の平均年齢まで生きることはできる」と根拠なく思っているものとしては、この知らせをよい風に受け取ることはできない。他人のことを勝手に言って申し訳ないが「まだまだ生きたかっただろう」とか「無念だったろう」と想像してしまう。

命を削る

私が大相撲を好きになって、まだ5年ほどしか経過していない。しかし、その間ずっと思いつづけていることがある。それは「力士たちはみな命を削りながら相撲を取っている」ということである。

元関取の訃報が入ってくるたびにその年齢の若さに驚いてしまう。知らせが入ってくるのは活躍した力士に限られるため、実際にはもっと多くの元力士が現在の基準で言えば早死にしているであろう。

その死因は錣山親方のように心不全だったり糖尿病からの合併症であったりすることが多い。おそらく現役の頃の”異常な”生活が後になって効いてくるのであろう。

寺尾関の現役時代の体重は110キロ台だったという。現在はもとより30年前であっても幕の内の力士としては小柄である。それであっても体重を維持するためにとにかく食べたという。食事は苦しみで、食べたものを吐かないように座ったまま寝たという話がある。

人類の歴史は飢餓との戦いの歴史である。誕生から数十万年の間、私たちの祖先は常に飢え続けてきた。安定して三食腹一杯食べることができ始めたのはここ100年間に過ぎない。

そのため、私たちの体の構造は飢餓ベースに進化を重ねてきた。少しぐらい食料の取れない期間があっても皮下や肝臓に貯まった脂肪をエネルギーに変えて生き続ける。水さえあれば10日ぐらいは何とか生きられる体である。

そんな体に毎日大量の食物を摂取する。本能に従えば人間であっても必要以上に食べることはない。しかし人間の大脳新皮質は大きくなり過ぎた。人は生物の基本である「生き続ける」というところ超えて人間社会が作り出した目標のためには本能を超える行動をすることができる。

力士たちはどんなに体が「苦しい」と言っても、土俵の上で勝つための体を作る。そしてそんな体を使って毎日厳しい稽古に励む。体重が1,5倍になっても肺や心臓の大きさや血管の太さがそれらに比例することはないであろう。体を維持するために心肺は必死で働き続け、その圧力を全身の血管が受けとめる。強い力士ほどそんな日々が長く続くのだ。

楽しみの裏側

全ての動物の行動は「生き続けること」と「子孫を残すこと」を軸に構成されている。本来、生き物は言葉を超えた存在であるとわかっているが「生き物に共通する目的は何か」と聞かれると、この二つで説明するしかあるまい。

この基本的な目的に反する行為を進んで行うことを「不条理な行動」と言えるであろう。動物は不条理な行動をとらない。人間は違う。力士だけではない。大なり小なり誰もが「生き続けること」や「子孫を残すこと」に反した行動を意図的に行い、そのことを愉悦に読み替えている。

まったくもって人間の脳は罪深い”進化”を遂げたものである。死ぬことを恐れながらも体に悪いことを平気で行うことができるのだ。しかし、私たちはその”悪さ”の中に生きている存在でもある。私たちの作り上げた社会では、ただ子どもを生み長生きするだけの人生はそれほど魅力がない。不条理な行動の中に肥大化した脳を引き付ける魅力が隠されている。

私は大相撲を楽しんでいる。無理をして作られた大きな体をぶつけあい、片方が土俵から投げ飛ばされる世界を楽しんでいる。2か月に1度、15日間の場所がやってくるのが楽しみで仕方がない。私の人生の楽しみを考える時、大相撲観賞は欠かすことのできない要素になる。

人間とは残酷な存在である。もし、私の目の前に私とそれほど変わらない大きさの体の力士が現れて、段差のない土俵の上で相撲をとったらどう思うのであろうか。土俵の周りには怪我防止用のマットが敷かれていて、勝負審判や観客はその外側にいる。

そんなものを見ても私は全く興奮しないだろうし、すぐに見ることをやめてしまうであろう。普通ではありえない巨大な体が、予想外の速さでぶつかり動き回るからこそ迫力があるのだ。あの体が不安定な形であの高さから落ちると思うから興奮するのだ。

立ち合いでぶつかり合う額と額、脳や首に良いはずがない。受け身がとれないままの土俵下への転落、次の日から歩けなくなる可能性がある。

私たちはこれらのことも織り込みながら相撲を鑑賞する。無理やり大きな体を作ることと同様に、生き物の基準で見たら不条理な行動に興奮しそこに愉悦を感じている。罪深い存在である。しかしそこがたまらなく面白い。

そんな私たちが持つべき良心とは、力士たちが不条理を消費しながら私たちに喜びを与えてくれている存在であると忘れないことであろう。残念なことであるが、今回の錣山親方のように、これからも元力士の早すぎる訃報に接することがあるであろう。そんな時こそ、生前の功績に感謝しながらこの良心を思い出すことが必要である。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。