乗らないツーリング再び

狭い世界

「教師は世間知らずである」と割と教師自身によって言われます。これは教師が学校という狭い世界の中で長時間仕事をしているから、自虐的にそういうのかもしれません。それは「もっと他の世界を知れるような時間のゆとりが欲しい」という言葉の裏返しかもしれません。

私自身は世間知らずにならなように様々なことに興味を持ち学ぼうと心がけているのですが、実際に私は平日は学校と家を往復するだけですし、土曜も半日は学校にいて、時には日曜も出勤する生活が当たり前のように続いてきました。

したがって平日習い事に行ったり、何かのサークルに入って他の業種の人々と親交を深めるようなことは今までほとんど行ってきませんでした。子供達が小さい頃は少年野球の活動を手伝うことで地域の人たちと交流を行っていましたが、子供達も成長しそれも無くなった今、私が外の世界とつながっているのは、友人以外では馴染みの立ち飲み屋さんが一番大きな存在になっています。狭い世界に生きる私にとって外とつながることのできる貴重な場所です。

そんな私が足繁く通う立ち飲みの常連の中でバイク好きが集まってツーリングクラブができました。職業も年齢も異なる集まりですが、バイクと酒が好きというとろこに共通点があります。

半年に一度ぐらいはツーリングしたいということで、前回は昨年11月に丹波篠山方面へ行きました。レンタカーでした。雨と寒気が予測されたので、私たちは寒さと雨の中バイクを走らせることよりも、居心地よく移動して美味しいお酒を飲むことを優先させたのです。実に「ツーリングクラブ」と名乗ることが恥ずかしくらいですが、私たちはすんなりとその決定を行いました。まあ、立ち飲みで知り合った面子ですから仕方がないでしょう。

そのような前回の「乗らないツーリング」から半年以上経過した先日、私たちは再び「乗らないツーリング」を楽しんできました。もちろん、計画段階ではバイクで行くつもりでした。しかし、事前打ち合わせと称していつもの立ち飲みに集まった私たちは、週間天気予報を見ながらあっさりバイクを断念しました。警報級の雨が来そうだったからです。

古民家を目指して

「ここまでだったらバイクでも楽しかったかもしれませんね」

車が篠山市内に入る頃にはポツポツと雨が降ってきました。私たちは知らず知らずのうちに「今回バイクで来なくてよかった」という事実を確認する発言を増やそうとします。人間の心理って面白いと思います。心理学で言う「合理化」にあたるのでしょうか。でもみんな本当はバイクで来たかったと思っています。

前回も前々回もツーリングで丹波篠山を通りました。今回はもっと北東を目指します。この辺りは大きな街もなく、かといって山間部だけでもなく、手入れされた田畑と昔ながらの集落が続く程よい田舎道です。車で走っていても良い気持ちので「バイクなら…」と誰もが考えているのがわかります。

車内では「どうしたら今度はバイクツーリングができるのかとか、雨男は誰だ」というような話になっています。

車は県境を超えて京都府に入ります。私たちが向かうのは京都市の北部にある古民家です。前回も篠山の古民家に宿泊しました。大満足でした。メンバーの世話役のWさんはこのタイプの宿泊施設を探すのがとても得意です。

園部を過ぎて桂川の谷に入ります。谷をずっと上流に向かって走ります。時おり平地が現れて、そこには田畑と集落がセットで存在します。篠山あたりから同じような光景が続きます。現在は兵庫県と京都府に分けられていますが、もともとこの二つの地域は同じ国で旧国名は丹波でした。

その丹波の山間の平地には、今でも昔の姿の家屋が多く残されています。平屋建てで、もともと茅葺の屋根をトタンで覆った形です。かなり大きな屋根です。周りには農作業のための小屋や蔵を併設しているものが多いです。

農地を持つことが富を持つことと同じ意味だった時代に立てられたのでしょう。戦前にこれだけの規模の家を建てることは少なくとも小作にはできなかったと思います。丹波地方には、そのような家が瓦屋根やもっとモダンな新建材の家に混ざってそこら中に見られます。

私たちはそんな中の一軒を目指して車を進めました。

煙の匂い

地元の道の駅やスーパーで持ち込み用の酒類を買い、早めに宿に入ります。バイクに乗れなかった私たちの最大の楽しみは、この一軒貸しの古民家でお酒と料理と会話を味わうことです。

玄関を入ると土間があり、奥には台所、右手には囲炉裏付きの板間です。台所には「おくどさん」があるではありませんか。隣の納屋との間を奥に進むと左手に手漕ぎポンプ式の井戸が、その奥に薪で沸かす五右衛門風呂の建物があります。

ここでは、宿泊客がが薪を割って風呂を沸かします。温度センサーなどありません。熱すぎれば水でうめて、冷たければ薪をたきます。五右衛門風呂にも焚き方があります。

置きとなる太い木を数本一番下に置き、その上に枝を隙間を空けながら重ねていきます。空いた隙間に乾燥させた杉の葉を詰め込みそこにマッチで着火します。

杉の葉が激しく煙を出しながら燃えていきます。この葉は色が青いうちに取ってきて乾燥させなければならないと言います。そうすることで脂分を多く取り込めるそうです。

杉の葉から火が移っていく枝は半世紀も芝小屋に保存されていたものです。私の生まれたころに集められた芝が、私の入る風呂を沸かすエネルギーとなっていきます。芝の炎はゆっくりと置きに移っていきます。

私たちは黙ったまま、火蓋の空気功から中の炎を見ます。「ボッ、ボッ、ボッ」と規則正しい音が聞こえてきます。蒸気機関車のような音です。

扉を全開にすればよいというものでもないようです。空気功だけ開けることでそこに空気の流れができて、より燃焼効率が上がることがわかります。こんな単純なものでもよく考えられていると思います。知恵の蓄積、それを可能にする言葉の偉大さを感じます。

お風呂を沸かす煙の匂いをかぎながら、私は40年以上前の母方の祖父母の家を思い出しました。五右衛門風呂のかまどの前で、鉈を振り下ろして端材を割りそれをくべます。かまどの中で燃える火をずっと眺めていました。私にとって不思議で楽しいひと時でした。

火の熱さと、煙の匂いと、揺らぐ炎の形と、しゃがんだままの足のだるさ。これらを昨日のことのように思い出します。お風呂を沸かした後はみんな揃っての夕食です。優しい祖父母は、たまにしか会わない孫のわがままを聞いてくれました。幸せな時間でした。

祖父に次いて祖母は20年前に亡くなり、五右衛門風呂のあった家もその前には近代的なものに変わりました。私の記憶だけが、このようなきっかけでよみがえってきます。

火を使う存在

お風呂に続いて、かまどでご飯を炊きます。よくこんなおくどさんが残っていたなと思うような立派なものです。

薄暗い台所の黒いおくどさんの上の羽釜で米が炊き上がっていきます。辺りは静かで木の蓋から漏れる蒸気の音が聞こえてきます。私はこの空間に何か神聖なものが宿っているような気がしました。

ここは主要道路から外れた場所にあります。たまに家の前を車の通る音がしますが、それ以外人工的な音は聞こえてきません。テレビも置いてありません。私たちは外を眺めます。戸の枠に切り取られた田んぼ、その奥には竹林が雨に霞んでいます。

田畑や竹林も「人が手を入れている」という意味では人工的なものです。しかし、農耕が始まって以来私たちの祖先は田畑や山を自然と調和させる形で管理し受け継いできました。私たちの真上にある茅葺の屋根も、風呂や台所のかまどに使われる薪も、自然のものを管理循環させながら利用してきました。そこには経済成長はないかもしれませんが、別の意味での安定はあります。

暗くなっていく外の景色から時々視線を土間のおくどさんにうつします。羽釜の下で薪の燃える優しいオレンジ色が見えます。

スイッチ一つでお米が炊けてお風呂を沸かすことができるのが現代の生活です。家に帰ればすぐに電気とテレビをつけます。手間をできるだけ省き、明るく、音に溢れた世界に生きています。

ここではすべてがその反対です。ご飯や風呂の用意をするのにも手間がかかり、暗くて、音のない世界です。そのような世界にいるからこそ、かまどで揺らめく炎の美しさがわかります。便利な世界と不便な世界、見方によってはどちらにも価値があります。

食事の準備が終わると宿の御夫婦は自宅へ帰って行かれました。私たちは板間の囲炉裏で肉や野菜を焼き、お酒と共に味わいます。脇の膳には先ほど畑で収穫したキュウリやトマトやしそが小鉢の一品になっています。

私たちは、ゆっくりと自然の恵みをいただきます。生きていくために他の生物の亡骸を口の中に入れていきます。こういう風に床に座り火を囲んで食事をするのはいいものです。生きている実感と食べられることへの感謝の気持ちが湧いてきます。

人類はずっとこういう風に命をつないできたのだなと感じます。獲物や木の実を取って、火をおこしてそれらを焼き、その周りに集まって食べてきたんだと思います。

ギリシャ神話ではプロメテウスが人間に火を与えました。人間はその火を用いることで他の動物とは違った進化をしました。快適で便利な生活を手にしました。それと同時に、その火を用いて人間を殺す兵器も生み出しました。

火とは人間を象徴する存在であると思います。人間は、よりよく生きることと破滅の両方を選ぼうとしている矛盾した生き物です。普段の生活で炎を見る機会は減りました。定期的に見るのはガスコンロぐらいでしょうか。

私たちは今回、薪を使って風呂を沸かし、かまどでご飯を炊き、炭で食べ物を焼いて食べました。煙にまみれて炎の暖かさを感じながら数時間を過ごすことができました。そんな短い時間でしたが、私たち人間のたどってきた道に思いを馳せるような経験でした。私たちはどこから来て、どこへ向かうのでしょうか。時にはこのような場所で炎を見ながら考えてみるのもよいものです。

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投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。