人間って何なのだろう どうしてモヤモヤするんだろう

高校講座 倫理

ネガティブな性格をしています。

40半ばにしてこのタイトルです。人間がある程度はわかっていなくてはならない年齢、惑わされない年齢です。そんな私が「人間なんて…」と10代の子供が感じることに心惑わされています。

私はよくラジオを聞きます。暗い人間によく合うメディアです。さらに暗いことに、AM、しかもNHKの2つの放送をよく聞きます。追い打ちをかけるように、二つ放送の内、圧倒的によく聞くのは第2放送、兵庫県南部地域では周波数が828khzの方です。

NHK第2放送と言えば、ほぼ教養番組で遊びの要素がありません。

今日は撮りだめしていた「高校講座 倫理」を聴いて、いろいろ考えさせられました。この講座、1年間かけて4人の講師が倫理学の概略を説明していきます。1回20分で、毎週金曜日19:50放送。英語系の番組など毎年新番組が登場しますが、これはもう5年以上同じ内容による再放送のままです。

私は、5年前にジャパネットたかたでラジオレコーダーを購入して以来、この講座を聴き続けています。生物の中での人間の立ち位置を俯瞰したいという気持ちと、実際に自分の生き方に自信を持てなく、何か指針のようなものが欲しいという思いからです。様々な考えからがある中、長い時間をかけて磨かれてきた倫理思想の流れには、普遍的な何かがあると感じます。聴き続けて、生き方と心の持ちようがどう変化しているのかは、まだわかりません。相変わらずモヤモヤした気持ちは続いています。しかし、結局人は何千年も前から、生き方や幸福に関して私と同じように悩み続けてきた事実を知ることで、少し救われるような気がするのです。

今日聴いた放送のテーマは「社会契約説とはなにか」。担当は小林和久先生。講座の主な項目は以下の3つでした。

  • ホッブスの思想 市民が作る国家
  • ロックの思想 民主主義の原理
  • ルソーの思想 人民主権と公共の福祉

人間性とは何かの大きな分岐点

私たちは普段から「人間らしい」や、それに付随する言葉をよく使います。人間らしい行為だとか、人間味のある発言だとか。多くの場合、自己的というよりも利他的な行為や考え方に、人は「人間らしさ」を感じるものです。

ではなぜ、人は利他性に人間らしさを感じて、それはどのように伝わってきたのでしょうか。社会契約説の登場以前、西洋ではキリスト教が大きな役割を果たしました。キリスト教による世界観が、人々の善悪の基準となり、人間らしさも規定してきました。

ヨーロッパの人々が「理性」という心の声に注目を始め、近世が始まり、現代へとつながる新しい価値が形作られるようになりました。今日聴いた番組に登場する3人は、この新たな価値の創造に大きな役割を果たした人々でした。

3人は、人間の自然状態を次のように規定しました。

ホッブス自己中心的弱肉強食の世界 人は人に対して狼
ロック国家の無い自然状態であっても比較的平和に暮らせる
ルソー平和で理想的な状態、耕作を始めるまでは

ホッブスは、人は放っておいたら争いを始め、力のあるものしか生き残れないので、平和を求める理性の声を聞く必要性を説きました。社会契約を結び、国家に個人が生き残るという権利を預けるのです。その国家とは、従来の神の意志を担保とするものではなく(王権神授説)、自由な個人の意思に基づくものです。ホッブスは、多数が生き残るために大きな力を持つ、絶対的な国家を考えました。

ロックはホッブスとは反対の人間観を持ちますが、権利を国家に預けるという点は一致します。人は理性的であり、国家が無くても平和に暮らすことができるが、人の生まれ持つ権利である所有する権利をめぐって争いが起きるため国家が必要となる。国家に預けるのは権利の一部で、政府は市民の意思を尊重すべきで、それが得られない時、市民政府から預けた権利を取り戻すことができる、と考えました。

ルソーは、ロックと同じような性善説的な自然状態の人間観を持ちます。しかし、人間が土地を耕し始め、私有財産の誕生と共に理想的な自然状態は崩れたと考えます。そこで、人間のエゴである特殊意思ではなく、公共の利益を考える一般意思による真の社会契約を結んだ国家と政府について考えました。

ざっと、大まかに今日学んだ3人の思想をまとめてみました。今日私たちが当たり前だと思っている考え、その起源が見られると思います。

例えば、力の強いものが弱い者の食べ物を奪うことは、動物の世界では一般的に見られる現象です。しかし、それが人間の世界では悪いことは、子供でも知っていることです。私たちは選挙で代表者を選び、権利を政府や国家の枠組みの中で行使することを委任します。

不自由な方が結局は自由であるかも

社会契約説という考え方を得て、人々はどう変化していったのでしょうか。私の印象では「いろいろ制約はあって鬱陶しいけど、個人のことはいったん棚に上げて、みんなが幸せになることを考えたほうが、結局は人類全体に対してメリットが大きい」このような思想であると思います。

こういった利他性や全体の利益を考える思想は以前にもあったのでしょうが、社会契約説では人間の理性に足場を置いている思想と言うことで、現代につながっているのだと思います。

世界の成り立ちを説明するとき、この社会契約説の生まれた時代より後、神様からの距離をとり始め、理性を中心に考えを深めて行きました。それにより、自然科学が発達し、科学技術を生み、人間の暮らしを豊かにしてきました。

言えば自分たちが好き勝手したいという要求を少し我慢して、集団がお互いのことを考えることで、人類は進化してきたということでしょうか。

それぞれの権利をいったん預けることで新しい形の”国家”とか”政府”が生まれ、人々はそれぞれ100%好きなようにはできないけど、弱者が生存を脅かされることも無く、才能があるものはそれを開花させやすい状態で生きることができるのかもしれません。

最近の世界情勢を見てみると、世界が社会契約説以前の状態に戻っているような気がします。お互いに権利を預けて共存していくことよりも、力のある人が利益をとことんまで追求していくことを当然のことだと思う風潮です。

「まあ弱いやつのことも考えてやろうか」から「弱いやつは自己責任だ」そういう風になってきていると思うのです。

私自身は、どちらの立場に立っているのか分かりませんが、この世の中の流れが私のモヤモヤの一つになっていることは間違いなさそうです。今日、高校講座倫理を聴きながらそんなことを考えました。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。