睡眠の質
最近休肝日が少なくなっています。そしてお酒を飲んだ日は、いつ就寝したのかよく思い出せません。大抵はリビングのソファーでいつの間にか眠りに入り、途中起きて歯磨きをしてベッドに行きます。
朝までに必ず一度は尿意を催して目が覚めます。トイレに行ったその後は、すぐに眠りにつく場合もあれば、1時間以上起きている場合もあり、また朝まで眠れないこともあります。
このようなことを考えると、私の眠りの質はよくないということができるでしょう。
何かで読んだことがあります。「夜十一時から二時の間は眠りのゴールデンタイムであり、眠りに必ずこの間を含めること」、そんな内容でした。
私の場合は、そのゴールデンタイムの間に目を覚まし、リビングから寝室へ移動しています。これでは良いはずはありません。
成功している人で、睡眠の大切さについて語る人は多くいます。
・質の良い睡眠がとれるから、起きている間、冴えた頭で正しい決断ができる。
・体の疲れが取れるから、気持ちが前向きになる。
・人生の三分の一を過ごす場所であるから、ベッドや布団にはそれなりのお金をかける。
こういった種類の話です。
成功している人は「習慣の大切さ」についても語ることが多いです。そして、私が思うに、良い習慣の起点になるのは、質の良い睡眠、つまりすっきりとした頭と疲れの抜けた体で朝を迎えることであると思います。
明け方トイレで目を覚まし、そのまま眠れない時などは、頭に浮かぶこともネガティブになります。
「今日の仕事きちんとできるかなあ」に始まって、「試験の勉強時間を確保できるかなあ」「語学が頭にはいってくるかなあ」、果ては「今のような忙しい生活スタイルでいいのか…」などと言う疑問も浮かび上がってきます。
隣では、妻が横になっています。私の妻は短時間でも質の良い睡眠を得られるタイプの人です。
不安そうにしている私に気が付いた時は声をかけてくれます。
「いろいろ気にせずに今のことだけ考えたら。明日はいないかもしれないのに」
妻は「今を生きる」ことができるタイプの人間です。常に「生老病死の苦しみ」が付きまとう私からすれば、羨ましい性格をしています。その性格が彼女に質の良い睡眠を保証しているのでしょう。
私に声をかけると、妻はすぐに深い眠りに落ちてゆきます。時には、寝坊して私のお弁当が作れないぐらいの深さです。
「私の将来」という幻想
私のこの性格は一朝一夕には変わりません。ブログを書き始めて、以前よりはかなり心はほぐれてきていると思いますが、まだまだ先は長いと思えるのです。
十代のころも二十代の頃も三十代の頃も、いつでも同じことで悩んでいます。それは「私は将来どうなるのであろう」という漠然とした悩みです。
若き日のあの頃考えた将来は、もう、とうの昔にやってきています。私は今、四十代です。今まで思い続けてきた「私の将来」は、今の時点で回収されているのでしょうか。答えは「否」です。なぜなら、私は四十代後半の今でも「私の将来」を考え続けているからです。「未来の楽しみ」のために「今の我慢」を続けているからです。
ブログを書き始めなかったら、おそらく私は五十代になっても六十代になっても同じ気持ちであったと思います。さらに年をとり、死の直前になり私は自分の描いていた「将来」とは「幻想」に過ぎないと思い絶望の淵をさまよいながら人生を終えていたでしょう。
文章を書くことで自分の心を掘り下げている間は、そんな自分を、少し離れた場所から見ることができます。本当に滑稽な自分の姿が見えます。
それが救いでこうして文を書いているのですが、書き終わった後の私も、また自分自身に外なりません。油断すると、またあの「私の将来」に苦しみ続ける私です。
話を元に戻します。ものすごく質の良い睡眠がとれて、気力に満ちた朝を迎えられた日は、たいていのことがうまくいきます。気持ちの良い挨拶をして、仕事を早く終わらせて、美味しいご飯を食べて、勉強も頭に入ってきます。
そんな日を過ごすことができれば、「私の将来」の出る幕が無くなります。なぜなら、そのような充実した一日を過ごすことが私の思い描いていた「私の将来」であるからです。
そう考えると、質の良い睡眠をとり、規則正しい一日を始めることが、モヤモヤを脱して幸福を感じるためのカギとなってきます。
アレとどう付き合う
以上のようなことを考えてみると、私は結局アイツと向き合わなければならなくなります。私を幸せな気分にさせてくれると同時に、私が幸せを感じることから遠ざける矛盾した存在、私の人生の諸刃の剣、すなわち、酒とどう付き合うのかということです。
自分の理想的な、気持ちの良い眠り方を考えてみます。
八時までに夕食を取り、お風呂にゆっくりと使って体を温めます。歯磨きを済ませておいて、いつ寝てもよい状態を作ります。
そこから勉強を始めます。英語、イタリア語の録音しておいたラジオ講座を行い、少し文章を読みます。緑茶など無糖の飲み物を飲みながら、気軽に勉強します。テレビ、スマホ、パソコンなどは目に入れません。
眠くなってきたらベッドに入り、日本語の本や雑誌を読みます。簡単な読み物です。その読み物にすら集中できなくなってきたら、電気を消して寝ます。一瞬で眠りにつき、気が付いたら朝を迎えています。
規則正しい一日を過ごし、語学もできて、寝る直前まで勉強できたという充実感が私の心を満たしてくれます。
これが、お酒を飲んでしまうと、理想の眠りの日のお風呂から後ろがゴッソリと抜け落ちてしまいます。
飲む前はいつも思います。「少し飲んで語学の勉強や読書をしよう」。しかし、そんなことはできたためしがありません。飲みながら普段見ないテレビや動画を見て、飲まない時にはあり得ない食後のお菓子を食べ、歯磨きをしないままソファーで横になります。
眠りながらも消化活動を続ける私の胃や腸は、ゆっくりと休む暇がありません。語学や読書ができなかったという罪悪感は、潜在的に私の脳に刺激を与えて、眠りを浅くします。
私は飲むと怒りっぽくなったり、人を攻撃したりすることはありません。ただ、他の人と同様に普段決めている習慣を行うのが億劫になるのです。そして、習慣が崩れることが私の心を乱し、眠りの質を低下させてしまいます。
私はかつてタバコを吸っていました。禁煙はツライことでしたが、やめることができ、今では吸おうとは思いません。
酒は、タバコのようにきっぱりと止めようとは考えていません。なぜなら、私の人生において酒、そしてそれを通じた人間関係が与えてくれる喜びはかなり大きな部分を占めるからです。
ただ、より幸せな人生を送るためには、酒との付き合い方、特に家での飲み方を考えなくてはなりません。
ここまではよく分かります。しかし「そのためにはどうする」というところで思考が止まってしまいます。
「ああすればよい、こうすればよい」という方法をいくら考えたところで、それは頭の中で起こっていることであり、実際に夕方になり、自分が「酒を飲みたい」という気分になった時には無力に等しいからです。
こういう時は自分ではなく、先人の知恵を借ります。書店に行き、そういった本を探してみようと思います。
私のこの悩みも「人類史上最初の悩みでない」と思えば、救われる気がします。
「今を生きる」状態を作るために、私は他力にすがろうと思います。