夏の音
中学生の頃、理科の授業で地球の自転と公転の話を教わった。
地球は24時間かけて自ら回転しながら、約365回転するうちに太陽の周りを一周する。その際、北極と南極とを結ぶ地軸が、公転軌道に対してに23.4度傾いているため、太陽光の当たり方が場所によって変わってくる。
こうして私たちは「季節」を持つことになった。ある一定の時間が経過すれば、同じような日照時間や気温や気象状態を経験することになる。そして、そのことは生物が進化していくうえで、その生態に大きな影響を与えることになる。
もし、地球の地軸が傾いていなかったら、つまり季節が無く、一定の長さの昼と夜を繰り返すだけの地球なら、動物の進化や私たちの持つ時間感覚も全く違うものになっていたであろう。
いや、そもそも人間は今の形では生まれなかったであろう。
いきなり大仰なことを書いてしまったが、私は今、ツバメの到来に季節の変化を感じている。
近所のコンビニの壁の張り出しの後ろに、商店街の雨除けの梁の上に、駅の入り口の柱に、今年も5~6個のツバメの巣が見られ、そして今それらの巣の中では新たに生まれた雛たちがすくすくと成長を続けている。
蒸し暑い日本の夏、ダルさを前面に出した表情で私は街を歩いている。見たことはないが、おそらくそんな顔をしている。そんな時、ツバメの雛たちが一斉に発する餌をねだる鳴き声にハッとさせられる。
見上げると、小さな巣の中に5~6羽の兄弟たちがひしめき合い、一斉に黄色い大きな口を広げている。まだ小さくて弱々しい雛は、やたらと口だけが大きく目立ち、重そうな頭を不安定に揺らしている。
別の巣では、毛がほぼ生えそろい親鳥とあまり変わらない体格になった雛たちがじっと一定の方向を眺めている。親が返ってくると、一斉に鳴き始めるがその声は2週間前のそれよりも低い。体は大きいが、親鳥の前では表情が幼い。
ツバメの巣を見ていると、この不快な日本の夏を少しの間忘れることができる。その雛たちの鳴き声に癒される。
繰り返えされる営み
この季節に、意識してツバメの子育てを観察し始めたのは3~4年前のこと。それまでの私は、街を歩いていても、この愛らしい生物の営みに優しい視線を投げかける心のゆとりを持っていなかった。
いつもモヤモヤしていた。自分は恵まれた存在だと思う気持ちの半面、このままでいいのだろうか、こんな気持ちのまま年をとっていくのだろうか、そんな不安に包まれていた。
「何かを変えなければ」「自分を変えるきっかけを手に入れなければ」そんなことを考え始めた時、ツバメの子育てに目が行くようになった。ちょうど自分の子供たちも大きくなってきて、あまり手を取られなくなった時期でもあった。
- 親鳥のつがいが巣を作る場所を探し、巣を設営する。
- 卵を産み、じっと温める。
- 雛が生まれ、ひたすら親は餌を与え続ける。
- 雛が大きく育ち、巣立っていく。
5月の終わりから7月にかけて、上記のような営みが毎年繰り返される。
一体どれぐらいの間、ツバメたちはこの営みを繰り返しているのであろうか。考えてみれば、人が作った建物以外でツバメの巣を見ることはない。竪穴式住居にツバメが巣を作ることは想像できないので(建物の高さが低すぎる)縄文時代は自然環境に営巣していたのだろうか。
ともかく、毎年一定の時期に、同じ場所で、同じような光景が繰り返される。しかし、その主人公は入れ替わっていく。
私が今年見ている親鳥たちは、去年巣立っていった若鳥であろう。必死で口を開けて餌をねだっていた雛たちが、地球が365回転する間に立派に成長し、次の世代に餌を与えていると思うと感慨深い。
誰に教わるわけでも無かろうに、泥を運んで巣を作り、卵を温めて、雛に餌をやり続ける。雛が成長すると、少し距離を取り、餌を与える回数を減らし、巣立ちを促す。まさか、自分が一年前に親から受けた指導を覚えているというのだろうか。
いつもの問い
親ツバメたちは、ひたすらを餌を取り続け、雛に与え続ける。日の暮れた帰宅時に通ると、親は巣の近くにとまり、佇んでいる。しかし、朝の通勤時にはもう、飛び回って餌をとりまくっている。
明るい間、親鳥たちはずっと同じことを繰り返す。取っては与え、取っては与えの繰り返し。雛たちは、少しずつ大きくなっていく。いや、人間の成長速度と比較すると驚異的な速さで育っていく。
何のために?
蛇などの天敵に襲われないように、少しでも早く巣立ちをするために。
どうして?
大きくなって成熟し、次の世代を残すことができるように。
こういう風にツバメの営みを観察していると、いつもの問いが頭に浮かび上がってくる。考えてみてもどうしようもない、答えの出ない、それでいて考えずにはいられない問いが。
「私たちは何のために生きているのであろうか?」
ツバメは言葉を持たない。危険を知らせる鳴き声はあっても、複雑なことを考えられる言語を持たない。だからツバメは自らの生きる意味を問うことができない。
ツバメは、ただ生きる。それに意味を付け加えるのは、言葉を持つ人間である。「天敵に襲われないため」だとか「子孫を残すため」といった意味は、人間の言葉の運用によって生まれている。
ツバメは、生きているだけだ。命を失うその瞬間まで、ただ生き続ける。
私は、言葉を持ってしまった。
だから苦しい。意味だとか目的だとか、そんな言葉を持ってしまったために、それらを意識せずにはいられない。
混沌とした、1つに繋がった世界に不自然な切れ目を入れる。それが言葉というもの。その切れ目の入れ方は無数にあり、曖昧である。
その曖昧なものを用いて、曖昧な概念を説明しようとする。言葉で考えるということはそのような行為。私たちはそのような言葉の檻に入れられている。
しかし、こう考えることもできる。
言葉は苦しみの元でもあるが、同時に喜びの元でもある。喜びの感情も、言葉なしでは生まれてこない。
ツバメの子育てを見て、そこに自らの子育てを重ね合わせ、喜びを感じることができるのもまた、言葉を運用できる者のみが持ちうることなのである。
ツバメはただ生きる。
そこには苦しみが無い、しかし、喜びも存在しないのだ。
言葉を持つ私には、必然的に苦しみが付きまとう。
しかし、喜びからも逃げることができないのだ。