休日の焦り

理想の休日

こういう一日を送ることができればモヤモヤを感じなくて済む、そんな休日について書いてみたい。

午前~正午

朝5時半に起床。お茶を沸かしながらアイロンをかける準備をする。お茶ができ上ると同時にアイロンも温まる。1週間分のシャツにアイロンをかける。ただかけるだけではない、TVでは撮りだめしていたNHK Worldの英語番組を流す。5~6枚のシャツにアイロンがけする間、30分番組を2本見る。

7時過ぎに朝食をとり、コーヒーを手にしてパソコンに向かう。ブログのネタをブレインストーミングした後、前日まで寝かしていたネタを読み返し、推敲したのちアップする。

8時から2時間は英語の学習時間。ラジオレコーダに録音していた「実践ビジネス英語」3回分を行い、その後は音読教材。時間が余れば洋書を読む。

一時間ほどバイクを動かしてくる。家から20分ほどのホームセンターへ行きブラブラ。途中スーパーで妻のお使いをする。

正午~午後(夕方まで)

昼食を食べる前、2種類の砥石を水に浸しておく。妻と一緒に簡単な昼食を作り、会話をしながら食べる。

妻が後片付けをする間、僕はベランダで包丁を丁寧に研ぐ。もちろん耳にしたイヤホンからは語学番組またはNHK第2の教養的な番組が流れている。

2時にNHK第2放送の英語ニュースを聞き、その後は部屋にこもりイタリア語と台湾語の学習を行う。イタリア語はラジオ講座のやり残し、終わればテキストを使って作文。台湾語はテキストを音読する。

3時になるころ気持ちがソワソワし始める。「サウナに行きたい」その心に従って行動すれば、その日はサウナ3時間 → 帰宅してビール → そのまま就寝、となる。

行かなかった場合大抵ウォーキングの時間となる。イヤホンを耳に1時間ほどかけて近所を早足で歩く。帰りがけに書店に立ち寄る。

夕方~就寝

夕食までの時間をどうするか。靴の手入れをするか、スーツにブラシを当てるか、バイクの手入れをするか。本当は全部行いたいのだが優先順位の高いものを行う。妻の「ご飯食べれるよ~」という声は「ご飯がもうすぐできるから準備を手伝って」という指令。作業を中断して素直に従う。

夜8時ごろ夕食。理想の休日について書いているので、今日はお酒は飲まない。夕食を終えて風呂に入り、熱いお茶を手に部屋へ入る。ウォーキングの途中で買った本を読むか、読みかけの本を終わらせるか、またはもう少し語学を頑張ってみるか。

今日もいろいろと中身が詰まったよい休日でした。

逃れられない呪縛

こうしてモヤモヤを感じないであろう休日について考えてみると気が付くことがある。ちなみに上に書いたような休日を過ごせることはないことはないが、非常にレアなケースである。2か月に1日あるかどうか、そんな感じだ。

では理想とどんな部分が違うのか箇条書きにしてみると。

・朝5時半に起きることができず、アイロンがけ+英語学習なしで朝ご飯となる。

・ブログを下げるつもりが、気が付けば1時間もネットサーフィンをしてしまう。

・3つの語学学習をするつもりができない。

・思わず昼寝をしてしまい、気が付いたら2時間ほど経っている。

・サウナに行った分、夜お酒を飲まずに読書や衣類の手入れをしようと思うが、飲んでしまい何もできなく1日を終える。

多くの休日は上のどれかのトラップにはまってしまい気持ちが不完全燃焼のまま終わってしまう。

私がモヤモヤを感じない休日の条件を抜き出すと、

1.3つの語学学習をバランスよくできる

2.家事や自分のものの手入れができる

3.運動と学習を一度に行う活動をする

4.何もしない”無駄な時間”がない

こうして書きながら思った。僕は仕事をしている時と同じメンタリティーで休日を過ごそうとしている。いや、仕事ではもう少しゆるい部分もある。仕事以上に”無駄”を出したくないという切迫感の中で休日を過ごそうとしている。

教養をつけること、語学を行うこと、運動をすること、身の回りのものを整えること、これらを1日の内に詰め込もうとして肩の力を入れて休みの日を迎える。

思うように語学ができなかった、バイクのエンジンを回してやれなかった、不覚にも昼寝をしてしまった、ネットをダラダラとみてしまった、そういった1つ1つのことがモヤモヤの原因となる。

自分で思っている以上に僕の心の闇は深く、自分で作り上げた呪縛に縛られまくり、苦しめられている様子がわかる。

何のための休日?

そんな僕でもたまには1日サウナに使ったり、呑み鉄活動をしたり、ツーリングに行ったり、”時間を無駄”に過ごすことがある。

しかし、そのような活動をしている時もこの”時間を無駄なことに使うなよ”という呪縛が常についてまわる。「今日は語学をしてないよ!」「運動何かしたか?」「仕事用の靴が汚れているんじゃないの?」そんな言葉が僕を追い立てて心から余暇を楽しむことができない。

時々そんな自分が嫌になってくる。なんのための休日なんだろう。

「休日は何も考えんとダラダラしたらええやん。それが休日やろ。それがあるから仕事頑張れるんとちゃうん」

僕の内なる声はそう言っている。確かにその通りだ。すぐ使うあてのない複数の語学をやって何になる。スーツや靴が少し汚れていても僕以外の誰も気にしていない。本は無理して読むものではなく、読める時に読んだらいい。少しぐらい体やバイクを動かさなくてもそんなに変わらない。

自分の中にある「~するべき」という呪縛が自分を苦しめる。そして、頭の固さが「~するべき」から「~しなくてもええやん」への変化を阻害している。

僕は頭でっかちで観念的な人間なのだと思う。幸せの形にしても感じるのではなく考えてしまう方だ。感じたことを考えてみるのではなく、考えたことを感じようとするから苦しいのだと思う。

休日の過ごし方にしても、考えた通りに過ごせたら心が楽になる。過ごせなかったら罪悪感を感じる。そして僕の理想の休日のハードルはものすごく高い。自分で自分に呪いをかけるようなことをしていると思う。

自分に対してこんなに厳しい接し方をしている僕を他人が見たらどう思うのだろう。他人に対しても、知らず知らずのうち同じようなことを求めているかもしれない。そうなれば自分は本当に嫌な人間だ。

自分に対してもっと甘く接する、少し怠惰でも許してあげる。せめて休みの日ぐらいはこんな気持ちでいたい。頭で考えず、体の声を聞き、それに従って1日過ごしてみよう。次の休日はそうする。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。