会話が無い 会話が続かない?

心配しなくてもよいことを心配してしまう

こんにちは。大和イタチです。

自分の性格がなかなか好きになれません。もう40代半ばなのだから、好きも嫌いもなく、おそらく残りの人生もこの性格と付き合っていかなくてはならないのでしょうが、できれば「変わりたい!」そういう下心も持ちながら生きています。

基本ネガティブで、悪いことを考える過ぎる癖があるのです。例えば、駅に着いた後「そういえばガスコンロの火を消したかな」と思い始め、不安で家に戻ったりします。この前なんか、給油した後、給油口のキャップを閉めたかどうか、仕事中気になり始め、仕事が手に付かなくなりました。「駐車場の中に揮発して漏れたガスが充満し、何かのきっかけで爆発したらどうしよう」こんなアホなことを考えてしまう私は何なのでしょう。

常にこんな感じで心のエネルギーを使っているので、気にしなくても良いところに思わず目が行って不安になります。現状に幸福感を感じられないということもその中の1つです。それに比べれば小さなことですが、最近は電車の中の様子が気になって仕方がありません。

SFの世界のような…

もう20年ほど電車で通勤していますが、この間車内の景色が大きく変わりました。仕事を始めたころは、新聞・本を読む人が多かった通勤電車も、今やスマホの画面とにらめっこする人がほとんどになってしまいました。

20年前も携帯電話はありました。メールをする人もちらほらいましたが、何より車内で携帯電話を使うことはペースメーカーに影響を与える可能性があるということで、大手を振って行うことではありませんでした。

それが、i-mode、スマホ登場のあたりから変わってきました。通信方式が変化して、ペースメーカーと共存できるようになったのでしょうか、鉄道会社も携帯電話に関しては何も言わなくなりました。

スマホが普及するにしたがって、車内のスマホを率は上昇していきました。駅のキヨスクに山のように積まれていた新聞は、その数分の1になり、キヨスク自体が無くなる駅も増えました。

込み合った車内で皆が一斉にスマホの画面を見ています。座っている人も、吊革につかまっている人も関係なく。良い悪いではなく、私にとって不気味に感じます。全員が一斉に同じことをしていて、公共の場であっても意識が個々の端末に集中している状態です。

何もせずにぼんやりと外を眺めたり、考え事をしている人がほとんどいません。何もしないことが悪であるかのような状態。集団の意識が何者かによってコントロールされ、スマホの画面を通じてのみ世界と接続させられているよな、何かSF的な想像をしてしまいます。

私はと言うと、ギガがもったいないということもありますが、基本的にSNSも面倒で、スマホの画面でネットを見るのも嫌なので、読書したり音声を聞いたり、ぼーっと外を眺めたりしています。少数派です。

会話が消えているような気がします

スマホと向き合うのは電車内に限りません。

歩きスマホが問題になっていて、英語ではスマホとゾンビを掛け合わせたsmombieなる造語もあるそうです。

自分一人の時はまだしも、コンビニ前や公園でタムロする若者たち。5人いれば5人がスマホを片手に会話をしています。それどころか、話すことなしに全員がスマホと向き合っていることも珍しくありません。

ファーストフード店やレストランでスマホを眺めながら食事をする人たち。若者だけではありません。ママ友たちも中年の集まりも、テーブルの上には常にスマホ。会話が主なのかスマホいじりが主なのかわからない状態をよく目にします。

この前、ベンチに座ったカップルを見ました。体を密着させて座り、いい感じです。でも、お互い手にはスマホ、会話することなく画面をいじっていました。実はお互いにラインで会話をしていたのかもしれません。そうだとすれば新しい愛の形です。

職場での昼食。多くの人はスマホを眺めながらの一人弁当。そういう私もPC画面を見ながら一人弁当。かつては、近くの同僚と話をしながら食べていました。

人の毎日の営みの中で、スマホを眺める時間がどんどんと伸びて行っている気がします。他人事ではなく、自分の妻を見ても子供たちも見ても同様に感じます。

世の中の会話の総量は間違いなく減っていると思います。そういえば、学生が友達同士で乗ることが多い夕方の電車でも、あまり騒がしくないと感じるようになりました。ショッピングセンターのフードコートで隣に若者のグループが来たら、かつては「騒がしくて嫌だな」と思っていましたが、最近ではお互いスマホを見ているのでそれほど気になりません。

街で二人以上の人間が別の誰かを待っている時、会話をしながら待っている人がどれだけいるのか探してほしいと思います。数人でいて、何か共通の行動が中断され、何もしなくてもよい時間が生まれた時、まず何をすることがクセになっているのか考えてほしいです。

かつて会話をすることで埋めていた時間が今はスマホにとって代わられたと思います。

得るものと失うものは何だろう?

今、スマホがない状態で、会社の普通の同僚と30分間会話が持つかどうか考えてみます。

実は、家族や親友や恋人以外の人と会話を続けることは結構大変なことです。

・学校帰りで信号を待っていると部活の先輩と一緒になり、同じ方向に歩いて行く状況。
・友人とその友達と飲んでいて、友人が席を外した時。
・電車の隣の席が偶然ご近所さんで、席をあらためて立つのが不自然な時。
・共通の話題の無い仕事の相手先にお茶を進められ、飲み終えるまでは愛想よく会話をしなくてはならない時。

今まで生きてきて、このような状況を繰り返し経験してきました。積極的に会話をしたいわけでもないけれど、話が続かない人と何とか会話を続けなくてはならない状態。

学校の友人なら共通の科目や教師の話もありますが、それでも気の合う友人以外と30分間会話を続けるのは困難で、別れた後はドッと疲れがでます。

そんな時、お互いにスマホがあれば便利だと思います。まず、スマホを見ているとお互いの存在が認識されません。街角でも、電車内でも「あっ、~さん久しぶり。どうしている?」という展開になりにくいのです。必然的に、無理やり行わなくてならない会話数も減ります。

どうしても一緒にいなくてはならない時も、共通の話題が出たらネットで検索してさらに話題を深めることもできます。撮った写真を見せながら時間をつぶすこともできます。

会話とスマホの関係を考えた時、私たちはスマホを用いることで、
1.会話になる機会を減らすことができる
2.ネットや写真を利用して話のネタを作ることができる

と言うことができると思います。

しかしながら、私は電車内や街のあちらこちらで集団的に人々がスマホに引き込まれている姿は気持ちが悪いです。私のように、こんなことに焦りにも似た思いを持っているのは完全に少数派だと思います。いったい何に気持ちの悪さを感じているのでしょうか。

スマホを用いることで得られるメリットに、スマホの無い状態ではどのように立ち向かっていたのでしょうか。そんなに難しいことではありません。かつては誰でも行っていたことです。

会話を行う機会が多い → 会う人に合わせた会話
話のネタ → いくつかのテンプレート

ご近所さんとは近所の話、学校の普通の友達とは学校の話、仕事関係の人とは仕事の話を、それぞれの関係にあった濃さのテンプレートを選び、その形式に沿った話をすればよかったのです。ただ、そのテンプレートを持つためには、普段から自分とその周辺の位置関係を俯瞰する力と場数をこなすことが必要となります。

私のように、平凡な人生をスマホに依存することなく過ごしてきた人間なら、ある程度の会話なら相手が誰であっても合わせることができると思います。

しかし、今、私は的外れなことを言っています。

ここまで、私は会話をすることを前提としたスマホについてどうのこうのと書いてきました。

でも、私が電車や街で目にしているのは、一緒にいても会話をすることなくスマホに没頭している人々のことです。「一緒にいてもスマホをいじっている間はお互いの存在を消し去ってもよい」こんな関係性を私は今まで体験してきませんでした。

複数・集団でいるのに無言である状態。今まで経験がなく、自分ならどう振舞ばよいのか分からない状態が、数年の間に世界中に広まり、これから先それに違和感を感じる人間がその中でどうやって生きて行ったらいいのか、その漠然とした不安が私に気味悪さを与えています。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。