何かにすがりたい気持

モヤモヤと不安と

朝早く目が覚め、そのまま眠れない時がある。起きた瞬間から心はモヤモヤしている。目覚ましの鳴る時間まであと2時間はある。「仕事が忙しいから少しでも睡眠をとらないと」そう思う時は大抵眠ることができない。言語化できない不安が頭をめぐる。

歩いて駅まで向かう。学習のためにイヤホンからは英語が流れてくるのだけれど、音声がバラバラに壊れて頭に入ってこない。コンピュータの裏側でいろんなプログラムが働いているように、土台の部分で頭が別のことを考えている。

職場で昼食後の休憩時間、机に肘をついてウトウトしていると、ものすごい悪夢を見ることがある。内容は思い出せないが、見たくないものを見てしまったという後味の悪さが残る。

自分は何に不安や息苦しさを感じてモヤモヤしているのかわからなくなる。何かをやっている時は気持ちがまぎれるが、無意識の状態になる時、モヤモヤが顔を出してくる。

ここ数年間、心から楽しい夢を見たことがない。いつも何かに追い回されたり、ありえない状況に固まってしまったり。いい夢を見れないということは、僕の無意識の中で展開している基本的な思考がネガティブであるということなのか。

妻はいつも楽しそうにしている。「自分は幸せだ」といつも言っている。怒ったり不機嫌になることもたまにあるが、後に引きずらない。そんな妻に自分の悩みを打ち明けてみる。

「生活が安定しているから、逆に目標がなくなって不安になるんじゃない。仕事辞めて1年ぐらいゆっくりしたら。生活に困って、どうにかせなあかんと思ったら、不安になっている暇なんかないよ」。

仕事を辞めるなんて考えたことなかった。「定年まで働いて、退職金でしばらく過ごし、年金をあてにしながらつつましく暮らす」そんな生活になるのかとぼんやりと思っていた。

「なんとかなるよ」と妻は言う。そういう風に楽観的に考えられるところが、幸せを実感できる秘訣かもしれない。自分が仕事を辞めることを考えると、僕は悪いことしか浮かんでこない。収入がなくなって焦る自分、次の仕事が見つからなくてイライラする自分、そして結局、1年間自由に過ごそうと思っていても心は自由に過ごせない自分。

あと何年間、今と同じような気力・体力を維持しながら生きることができるのだろう。そういえばこのブログは、人生の折り返し点を過ぎても心が整わないことへの焦りから始めた。

長崎の隠れキリシタン

先日、NHK Worldの英語番組Japanologyを見た。これは日本の歴史や文化、またはこの国で活躍する外国人を紹介する番組で、僕は英語の語学学習のためよく見ている。

前回の番組は長崎の隠れキリシタンの特集であった。16世紀半ばの伝来から17世紀初頭の禁止まで、明治以前のこの国でキリスト教の布教が行われた年月はわずかであった。しかし、九州を中心としてその教えは明治維新までの約250年間、権力者の目を盗んで生き延びた。

番組では、キリスト教が禁止され、しばしば弾圧が行われる中で、長崎のカトリック信者がどのように信仰を守り受け継いでいったのか紹介されていた。

直径1.5mほどの平らな石の上に、10個ほどの丸い小石が置かれている。平らな石は墓で、小石は並べて十字架の形を作るものである。墓参りが終わると、証拠隠滅のため十字架は崩される。その他、仏教寺院に間借りしたマリア像、岩の間の秘密の礼拝所など、当時の人々の信仰を伝える工夫が紹介される。

中には迫害から逃れ信仰の自由を守るため、人の寄り付かない断崖や離島に移住した人々もいた。

土地が痩せて生産性の乏しい場所で、こういった人たちはどのような暮らしをしていたのだろう。利便性や物質的な豊かさよりも信仰を選んだ人たちは、何を考えていたのだろうか。番組を見ながら僕はそう考えた。

衣食住の状況から見れば「貧しい人」となるのであろうが、僕は不思議とこの人たちのことを可哀そうだとは思わなかった。むしろ、信仰を貫いて生きる姿を羨ましいとすら思えた。隠れキリシタンの人々は、貧しいながらも命を燃やしながら神を信じて生きた。思わず、恵まれていながら毎日モヤモヤした気分で過ごす自分の姿と対比してしまう。

何かに身を預ける…何に?

「宗教の本質は狂信である」タイトルは忘れたが評論家の呉智英が何かの本に書いていた。

考えてみれば哲学も科学も宗教も、根本のところは同じであると思う。人間は「この世の中の成り立ち」「私と私以外との関係」「今はいつでここはどこなのか」これらのことを考えずにはいられない。哲学・科学・宗教、それぞれがそれぞれの切り口で、これらの問いに答えようとする。

ただ、最も人が何かを信じる力に依存しているのは宗教であり、本質が狂信というのは、それを表していると思う。

「狂信すると楽になれるだろうな」と思うことがある。多くの新興宗教のようなわかりやすい形ではない。例えば、今日見た、隠れキリシタンの子孫たち、すごく穏やかな表情に見えた。数百年の間受け継がれてきた神への言葉や神の前での身体運用が生活の一部になっている。とても自然な形に見えるが、信者の世界観は理性を超えたところによって形作られている。

「神に身を捧げてひたすら信じれば心が楽になれる」苦しい時こそ、そんなことを思ったりする。しかし何に身を預ける?一神教の神様、八百万の神様、それとも仏?

今までいろいろな神や仏にすがってきた。神社仏閣は僕の一番好きな場所の1つ。様々な神や仏に祈りを捧げ、お願いをしてきた。実家に帰ればまず仏壇の前へ行ってご先祖に挨拶をする。「南無阿弥陀仏」は、どこへいても毎日唱える。海外で教会へ行けば、日本語ではあるがそこで祈りをささげる。まだ行ったことはないが、イスラム教の国に行けばモスクの前で何かを祈るだろう。

つまり僕は、すべての神仏的なものにすがりながら生きている。どのような神仏にも何かが宿っていそうな気がする。1つを狂信することはできない。何かにすがりつこうとしても心の一部で「これがすべてじゃないだろう」と自分自身に送られる冷めた視線を感じる。

今日テレビで見た人々のように神様を心から信じることができれば、心が安定した幸せな人生を送ることができるのかもしれないと思うが、僕にはできそうにない。今までいろいろなものに少しずつすがってきながら、今更1つのものだけを贔屓にするなんてできない。それこそ、またモヤモヤの原因になってしまう。

信仰を1つにすることは不可能でも、それらを含む生き方を1つ考えていくことはできると思った。何となくずっと働くと思って生きてきた。何を大切にして生きて、死ぬまでに何を行いたく、そのためには何が必要なのか、考えているつもりはあったが真剣には考えていなかった。まずはマインドマップを書いてみよう。

これからも僕はいろいろな神仏にすがりながら生きていくと思う。科学や哲学に対しても同様な浮気心を示すだろう。心のどこかで「究極の所、何が本当なのか人間は知ることができない」そう思っている。

しかし、今更ながらだが、同時に自分の生き方を真剣に考えることを行えば、これら観念の世界が幸福感という感覚の世界につながっていきそうな気がする。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。