アフリカ
最近、おもしろい人物がいることを知った。ヨシダナギさんという女性で、職業は写真家である。ネットで名前を検索すると変換候補に「ボカシ無し画像」と出てくる。このことからわかることが二つある。
一つ目は、世の中に彼女の裸を見たいと思っている人物が多くいるということ、もう一つは実際にそういった写真が存在しているといることである。
「ボカシ無し画像」の方はともかく、私が興味を持ったのは彼女が一般的な女性とは異なることに興味を持ち、それを追い求める姿が人を引き付けていることである。
彼女が最初に興味を持ったものはアフリカの「マサイ族」である。幼少のころテレビで見てその美しさに魅了され、以来彼女はアフリカの少数民族に興味を持ちつづける。
この時点で私の周りには彼女のような女性はいない。モデルや芸能人に憧れる人は普通にいるが、マサイ族を見て美しいと思う感性はこの国の基準では”変わって”いる。
その美貌にも関わらず、少女から成人するまでの彼女の人生は順風満帆とはいかなかった。彼女について書かれているものを読むと、むしろつらい出来事の方が多かったようだ。
そんな中、彼女は23歳の時、憧れ続けたアフリカを訪問する。そして、そこで出会った人々の美しさを伝えたいと思い、写真を撮り始める。その過程で彼女は現地の人と同じものを食べ、同じメイクをし、同じ衣装を着た。
もちろん、部族によってはほとんど何も身につけないものもある。彼女の名前を検索するときの「ボカシ無し画像」という変換候補は、そういう文脈からのワードである。
私が彼女に魅かれたのは、幼少時からアフリカを好きになるという感性が一つ。さらに、最初から写真家になるつもりではなかったが、好きを追い求めるうちに結果的に写真家になっていたこと。そういった意味では、彼女の職業としては写真家以上の肩書がつくと思う。素敵だ。
辛いことがいろいろあろうと、自分の感性に従い「好き」を追い求めているうちに、自分が何をすればよいのかわかってくる、彼女はそんな人生を送っているように見える。
「ドリームハラスメント」という言葉がある。子どもたちは幼少のころからどんな職業に就きたいのか繰り返し表明することを求められる。「夢=将来の職業」という図式が一般化したのはいつのことだろうか。
小学生の頃ならそれでも良いかもしれない。しかし、自我の発達と共にこれは多くの子どもたちにとって辛いことなのではないかと、私の直感は告げる。少なくとも思春期の私は、必要以上にそのようなことを聞かれたくなかったし、私の息子たちに私は「夢=将来の職業」という文脈で話をしない。
「アフリカ」という職業はない。ヨシダナギさんの場合、写真家はアフリカを追い求めるうちに後からついてきたもの。こういうストーリーを聞くと私は少し安心する。「ねばならない」の反対側にある風通しの良さを感じるのだ。
うまくいかない
ヨシダナギさんの動画を何本か見るうちに興味あるエピソードに出会ったので箇条書で紹介しておく。
- アフリカのある国での話。エアコンのあるホテルに泊まった。
- スイッチを入れると中から異音と土煙。イグナナが出てきた。
- 部屋にはゴキブリ。冷蔵庫を開けてもゴキブリ。
- 便座に座ると下に虫が這いまわるのを感じる。
- 虫を水で流しても再び中から出てくる。
- 恐怖で部屋から出ようとしたらドアノブが壊れていて出られない。
- フロントに連絡しようとしたら電話が壊れていてつながらない。
- こうなったら「この状況に慣れるしかない」とあきらめた。
私はこのインタビューを見て笑ってしまった。そして彼女のことをより好きになった。特によかったのは最後の部分である。
このエピソードから学べることがある。
「周りを変えようと考えていると自分が苦しい」ということである。
私は電車通勤を行っている。列車が5分遅れると周りで舌打ちをする人が出始める。人々がイライラし始め、中には駅員に対して横柄な態度をとる人もいる。たかが列車が遅れただけなのに。
食堂でメニューや順番を間違えたら客が不機嫌になる。断水があれば周りは大騒ぎになる。医院で待つ患者が多いと「いつまで待たせるんだ」と受付にくってかかる。
これらは最近私の周りで起こったことである。
多くの人が、すべてが順調に行われることを当たり前だと思っている。列車は時間通りに来て、水は決して止まることなく、料理は適当なタイミングで提供され、医者は自分のことを第一に考えてくれる。
先日読んだ本に、災害時の避難民の話が書かれていた。日本の話である。何も持たずに避難所にやってきて、食料や毛布の提供が遅れると不満を言い始める人が現れる。
この国では、人々は災害時でも普段と変わらないことを求める。
そんなメンタリティーをもった人々が、ヨシダナギさんのエピソードで語られたホテルに泊まったらどうなるのであろうか。おそらくイグアナが出た時点で腰が抜け、ゴキブリに囲まれたら気を失うであろう。
自分がいくら不満をもっても環境を変えることが無理ならば、私たちはそれと折り合いをつけていかなくてはならない。もっと言えば、不満が湧き上がる水位が低ければ、私たちは常に不満に囲まれて暮らすことになる。
ではどうしたら不満に達する水位を高く保つことができるのか。いくつか考えが浮かんでくる。ヨシダナギさんが持った「この状況になれるしかない」というマインドセットはその中の一つだ。
時間を少しだけ伸ばして考えてみる。私は今、奇蹟のような世界に住んでいる。子どものころは汲み取り式トイレがまだまだ沢山残っていた。母親の実家に行くと薪をたいて風呂を沸かしていた。台風が来ると水道や電気もしばしば止まっていたように思う。
もう少し時間を伸ばして考える。祖父母の時代には人間の体にも当たり前のように寄生虫がいた。髪の毛には虱もいた。夏は蚊帳に入って寝ていた。水は井戸から汲んでいた。幼児期に死んでいく子供も多かった。
今の基準から考えれば、何もかもが「うまくいかない」というレベルで人々は暮らしていた。私を基準にして、ほんの数世代前の話である。
謙虚になること
「昔はこのような生活をしていたのだから、現代人はもっと我慢しなさい」私はこんなことを言うつもりはない。清潔さや便利さは、一度その味を知ってしまうと、脳がそれを基準に作り替えてしまい後戻りすることを拒む。
私もイグアナや虫のいる部屋に泊まりたいとは思わないし、彼女が憧れたマサイ族やスリ族の中に入って生活したいとも思わない。私は今、虫一匹見えないリビングでキーボードをたたいている。今までなかったことであるが、仮に私の前にゴキブリが現れたとしたら、私は放っておくことができないだろう。
現代人の異常さについて書いている私自身が、どっぷりとその異常さの中に浸かった存在なのである。
それでもなお、私はヨシダナギさんの写真や言葉や生き方に勇気づけられる。それらには今この国で不満をかかえながら生きる人が学ぶべきことがあると思う。
周りを変えることができないのなら自分の心を変えることしかできない。そして、それを可能にするのは時間と空間の枠を広げて自分の立ち位置を俯瞰してみること。今ここにいることに対して謙虚な気持ちになること。
そう、謙虚さなのだ。彼女のことを知ると、この言葉が浮かび上がってくる。現地に行けば現地の人々の目線で物事を考える。異常に便利で清潔になりすぎた日本の枠組みを一度外してみる。目の前の相手と同じようなものを食べ、同じような体の動かし方をする。
そうすることで自分の心が変わる。心が変われば目の前の世界も別なものになる。人は関係性の中で生きる存在であるから、自分が変われば周りと自分の関係も変化する。
「周りを変えようとすると自分も苦しい」と書いた。
しかし、自分が変われば結果的に周りも変わることがある。私たちは順番を逆に考えてしまうから苦しむのだ。
これからも私は便利で清潔な生活を享受し続けるであろう。しかし、時にはそんな暮らしの枠組みを外して考える想像力を持つ。人類の歴史の中でこの50年ほどがレアなのだ。そのレアな時代に生を受けた僥倖をかみしめながらもそうではない世界にも目を向ける。そうすることで自分が今いる世界に色合いが増す。