共に歩むということ

午前4時の寝室

年をとってきたということだろうか、布団に入り途中で一度も目を覚すことなく朝を迎えることがなくなった。たいていは4時ごろ自然と目が覚める。

枕もとの常夜灯のスイッチを入れると、すぐ横に妻の寝顔が浮かび上がってくる。

「ああ、今日も私の隣にいてくれた」

夢から覚めて、現実の世界で妻の存在を確認する。別に妻が私から逃げ出そうとしているような状態ではない。たまには言い合いになるが、概して私たちは今まで仲良くやってきた方だと思う。それに長年の付き合いの中で、言い合いを事前に回避するテクニックもお互いに身に付けている。

私は妻の頬に優しく手を当てる。口元が少し動く。

髪を撫でてみる。時には手で払われそうになる。

私はその出てきた妻の手を握り、再び目を閉じる。私が少し力を入れると、妻は握り返してくる。身体的な反射なのか、夢の中で私を意識してのことなのかは分からない。

そのまま私は再び眠りにつくこともあれば、妻の顔を眺めながら朝を迎えることもある。

もう20年近くも、毎日こうやって私の隣で寝ている妻の存在。私が先に目を覚ませば当たり前のようにそこにいるが、年をとり、私が夜中に目を覚ますようになり、その存在をあらためて意識するようになった。

もしかしたら、傲慢な男にその有難さを気付かせるために、神様は年齢の経過とともに熟睡を奪っていくのかもしれない。

いずれは夢と現実の境目がぼやける日がやってくるだろう。そうなれば、夜中にベットから起きることも無くなるであろう。せめてそれまでの間は「妻がいてくれることを感謝せよ」ということなのか。

血のつながり

当たり前のことであるが、私と妻とは血のつながりがない。

血のつながりのない人が人にとって一番身近にいる人となるのは、考えてみると面白い。

両親と私は血がつながっている。そんな両親と私は幼少期、一緒に寝て、大人になるまで共に過ごしてきた。今は、心の奥底ではつながっているが、物理的にも精神的にも距離を保っている存在である。

私の子どもたちと私は血がつながっている。ついこの間(と私には思えるが)まで私と枕を並べていたし、お風呂にも一緒に入っていた。それぞれの部屋に入った子供たちは、まだ一つ屋根の下にはいるが、親以外に大切な人ができつつあることがよく分かる。ゆっくりではあるが巣立ちの準備を進めているし、してもらわなくては困る。

血がつながっている存在は徐々に私から離れていき、最後まで残るのは”他人”である妻だ。

人生は何があるのかわからないが、願わくば、順番通りに行くとするなら、私もいつか親を失い、子供たちは家から出ていってそれぞれの家庭を持ち、妻と二人で過ごす日々を迎える。

そしてその後は、私が妻を見送るか、私が妻に見送られるのか、いずれにせよ一人になる日が来る。

父方の祖父が亡くなる前、まだ意識がはっきりする中で言った言葉を思い出す。

「おばあを大切にしてやってくれ」

よくケンカをしていた祖父母であったが、祖父が最後に血のつながった子や孫に残した言葉は、血のつながらない妻をいたわってほしいという願いであった。

そんな祖母は長生きしたため、悲しいことではあるが、自分の息子、つまり私の叔父を生きている間に見送った。最後の別れの時、棺に花を入れながら繰り返し叔父に語った言葉は「お父さんによくしてもらえ」であった。夫に先立たれて30年近くたっても祖母の中に祖父はいるのだ。

73年

フィリップ殿下逝去のニュースが入ってきた。

私はエリザベス2世を支えるエディンバラ公に対して、今までずっと好感を抱いてきた。とても力強くてカッコいい男性であると思っていた。

バッキンガム宮殿のバルコニーに当たり前のように、女王陛下とならんんで見せていた姿も、もう見ることができない。

聞けば、73年間も夫婦であり続けたということだ。

別に女王夫妻だけがそれほど長く結婚生活を維持しているわけではない。しかし、その存在が特別であり、映像が世界中に流され、動向が逐一報道され、世界の誰もが知っているという状態でこれほど長く連れ添った夫婦はそれほどいない。

「73年間夫婦でいる」

私はその時間を自分に置き換えて想像する。

出会い、互いを思い、結ばれて夫婦になる。

そこから73年。

子供を産み、育て、その子供も成長し大人になる。

孫が生まれ、子育てをする子供にかつての自分を重ね合わせる。

その孫も成長し大人になり、やがて家族を持つ。

やがて自分の血が8分の1にまで薄まったひ孫の姿を見る。

73年間はそれほど長い時間である。

朝の挨拶をし、一緒に食事を食べ、話をして、隣で寝る。そんなことが繰り返される。何千回、何万回と繰り返される。

私たち夫婦はまだ20年も経っていない。子供たちは高校生と中学生。これから息子たちが大人になり、いい人を見つけて一緒になる。今の息子たちの姿からは想像しがたいが、多分そういうことになる。

その息子たちが子供を持ち、子育てをする中で今の私たち夫婦と同じことを感じる時が来る。その時点でもまだ私たちは50年ほどであろう。

そこから孫たちが成長し、出会いがあり所帯を持つ。多分2065年ぐらいにはなるだろう。今から45年も後のことだ。

その日まで、私と妻は朝の挨拶をして、一緒に食事を食べ、話をして、隣で寝る。ずっとそれらのことを繰り返していく。お互いに顔にしわやシミが増え、背が縮み、足腰の筋肉が落ちていくが、毎日それらを繰り返す。

そしてある日を境に、その相手がいなくなる。

どうすればいいのだろう。

歳をとり、気力も体力も低下した中でどうやって克服すればよいのだろうか。「克服する」という発想自体が間違っているのであろうか。

私には想像できないし、想像したくない。

「ここでも簿記の法則が当てはまるのか」と思う。貸方と借方は同じ値が入る。妻といることが苦痛であるのなら、その妻との別れを想像することもつらくはないはずだ。幸福であるから、その分悲しみが大きいのだ。

フィリップ殿下逝去のニュースを聞いて73年間妻と寄り添うことを想像できること、そしてそれが失われたときのどうしようもない喪失感を先取りすること、そのこと自体が現在、妻と一緒にいられることの喜びの担保になっている。

そんな中、今の私にできることは何なのだろう。

朝の挨拶をして、一緒に食事をとり、お話をして、一緒に寝られること、一日一日これらのことを繰り返すことができることに感謝をすること。そして、朝私が先に目を覚まし、常夜灯のスイッチを入れ、横にいる妻の顔が見える、その喜びを嚙みしめながらやさしく頬に手を触れること。

平凡なことであるが、そうやって謙虚さと感謝の気持ちを持ちながら毎日過ごすこと以外に私にできることはないと思う。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。