共同体

初夏のルーティーン

かつての私はそうではありませんでしたが、ここ数年は桜の花が終わる頃になると実家にある田んぼのことが気になり始めます。今まで父母が作った米を当たり前のようにもらって食べていました。たまにスーパーのお米売り場にいってその値段を見ると「米ってこんなにも値段が高いものなのか」と驚きます。

私は今まで自分で苦労することなく米を得ていたのでそう思っていました。農作業を手伝うといっても、自分の都合がよい時、親の顔を見がてらに帰省して手伝っていました。祖母が存命中は、そんな軽くお手伝いをする私に小遣いをくれていました。もう不惑になろうかという大人にです。

2年前に父親の足腰が傷み始めてから私の手伝いの意味が変わってきました。「好きなときに」から「米作りのスケジュールを考えて必要なときに」に変わったのです。

父母は「無理しなくてもよい」と言ってくれます。しかし、その言葉をまともに受けてしまうと父母に無理させてしまうことになるのです。だから私は桜の季節が終わると同時に計画を立てて動き出します。機械や化学肥料によってかつてに比べれば数段楽になったとはいえ、米作りは手のかかる仕事です。そのことを身をもって体験すると、あのスーパーの米売り場の値段の意味が分かってきます。

さて、この時期に米作りで行うことは以下のようになります。

  • 最初の肥料を撒く
  • トラクターで田んぼをすく
  • 畔の草刈りをする
  • 2回目の肥料を撒く
  • 目出し苗を育てる場を作り水をやる
  • トラクターで代掻きをする
  • 田植え機で苗を植える

だいたいこれらのことが4月中旬から5月の終わりにかけて行われます。これらの中で父親はトラクターを使う作業はできるのですが、それ以外の長時間田んぼの中や畔に立って行う作業はきつく、私の出番がやってくるのです。

いつものコンビ

4月中旬の日曜、私は実家に帰り野良着に着替えると、軽トラに肥料とそれを撒くための「まくぞーくん」を積んで田んぼへと向かいました。農道の端に軽トラを止め、メジャーと竹の杭を持って父親と二人で田んぼの大きさを測ります。

昨年は肥料を均等に撒けなかったためか、稲が育つ過程で成長のムラが出てしまいました。筋状になっている未成熟な部分を見ながら私は「そんなにも微妙なものなのか」と感じたものです。

今回はきっちりと測って杭を立てて、杭の間に一袋ずつ撒くようにします。初夏の田んぼは風も心地よく、長靴を通じて足に伝わる土の感触は良いものです。

たぶん、今年は均等に撒くことができたと思いましたが、肥料撒きはこれだけではありません。

1か月後、今度は別の肥料を同じように「まくぞーくん」を使って散布します。この間に父親はトラクターを使って土を起こしています。

耕されて1回目に比べて格段に歩きにくくなった、つまり足を取られる圃場のなかをのっそりと歩きながら、背中の肥料からつながったノズルを左右に振っていきます。肥料の量は今回の方が少ないのですが、歩きにくいため1回目と同じくらいの時間がかかります。

この時の帰省はこれだけではありません。

5月に入り畔の草も伸びてきました。私は刈り払い機を背負い、田んぼの周り1周分の畔草を刈り取っていきます。途中でガソリンがなくなったため補充します。刈り払い機は2ストエンジンのため、混合油を使います。刈り払い機の写真を撮って「2ストエンジンの音と振動と匂いを味わってます」とラインでバイク仲間に送りました。

刈り払い機による草刈りは楽しいものですが、一つ憂鬱なことがあります。それは、仕方のないこととはいえ、多くの命を殺めてしまうことです。草の中にいる生き物たちは、逃げ遅れると高速で回転するナイロン製のワイヤーの餌食となるのです。

私は「早く逃げてくれ」と心のなかで叫びながらマシンを操ります。今回は田んぼに水が張っていない状態だったのでまだましでした。水を張り、気候が暖かくなるとカエルや昆虫が一気に増えてくるのです。そんなことも米作りを定期的に手伝い始めて知ることができました。

これから稲を収穫するまで、ひと月に一度、畔の草刈りを行うことになります。

堰(せき)

さて、このように私はこの時期に実家の米作りを手伝っているのですが、その作業に今年から新たに加わったことがあります。そのために私はこの時期、例年よりも一度多く帰省しました。その作業は「堰の整備」です。

堰とは水を止める構造物のことですが、農家にとってはその場所から圃場へと水を運ぶ用水路のことも併せて意味します。田植えは土を耕し、水を入れて代かきが終わってからおこなわれます。従って田植えの数週間前には用水路に水を通す必要があります。

今回私はこの用水路に水を通すために整備に参加したのです。同じ用水路から水を引いている数十の田畑所有者が集まり、それぞれ割り当てられた場所を清掃していくのです。今までずっと父親が参加していたのですが、痛々しく足腰をかばいながら歩く父親を見て、今年は私が参加すると名乗りを上げたのです。

車にスコップと鎌を積んで集合場所に行くと、次から次へと軽トラが集まってきます。指定された場所に行き、土嚢を作ったり用水路に溜まった草を取り除いたりします。私の家の田んぼがある場所から数キロも離れた場所での作業です。

私は生まれてこのかたずっと自分の家で栽培したお米を食べて命をつないできました。それなのに、その圃場へとつながる水路がこんなにも離れた場所から来ていることを知りませんでした。さらに、こうやって見える圃場の全てが、この谷沿いのいずれかの堰とつながっており、運ばれてくる水によって米作りが行われているという当たりまえのことすら意識せずに生きてきました。

圃場も水路も堰もすべて最初からあったわけではありません。長い時間をかけて誰かが作り維持され続けてきたものです。日本の大半の地域に見られるこうした「里にわ」の風景は人工物でありながら、昔から自然にあったような安心感を与えてくれます。それは日本の人々の胃袋を満たす象徴的な食べ物である米を作る場所であるからでしょうか。

この人たちと・・・

今回初めて堰の整備に参加して強く感じたことがあります。それは、こういった集団による食糧生産の源を維持する作業が、共同体の絆を強め日本人のメンタリティを形成してきたということです。

今はここにいるほとんどの人はそれぞれ農業以外の職業を持っています。私の父親もそうでした。しかし日本の九割が農民であった200年前は、田んぼとそれに水を引く水路の存在は彼らの生活に直結するものでした。現代ほどの土木技術がなかった頃は水路も貧弱で、水をめぐる争いはあちらこちらで起こり、時には死人を出すこともありました。

私がこの日行ったような作業を通じて仲間意識を育み、田畑を守り、命を維持してきたのだと感じました。それは同時に閉鎖性や異端に対する不寛容なども生み出しことなのですが、今回はそれらについては述べません。

さて、今回共に作業をした地域の人々ですが、私が集合場所に現れた時、私が誰なのかわからない人々がいました。父親の名前を出し「代わりに来ました」というと、一気に表情が緩み、私によくしてくれました。子供時代の私について話してくれる人も現れました。

私の方はというと、誰なのか思い出せない人もいますが、たいていの人は私が幼少の頃どこかで会っています。多くは私の親の世代です。数十年ぶりに見る顔に面影はありますが「皆歳をとったなあ」というのが私の印象でした。

当然です。誰もが同じずつ平等に歳をとり、いつかこの世から消え去っていきます。

目の前に私の親世代の老人たちがたくさんいます。共同作業に参加する私を歓迎してくれています。私は今の私の年齢よりも若かった頃の彼らの多くを知っています。この日私は数十年の月日が一気に過ぎ去ったような感覚になりました。

来年以降も私はこの人たちと作業をすることになると思います。しかし、それは永遠ではありません。

私は、この人たちが集まって話ができるような場所を作りたいと思いました。ビールを飲みながら明石焼きをつまみ、時には相撲を見ながら世間話ができる場所です。居酒屋のない町に、月に1回でも2回でもそのような場所を提供できたら素敵なことなのではないかと思います。この人たちが元気なうちに、そんな店を出したいです。

関連記事:米作り  ワクワク玉子焼き

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。