冬五輪が来るたびに

盛り上がらない

自分のことを天邪鬼な性格だと思う。世間の人々が騒ぐことに興味が湧かない。流行りのファッションや音楽にも関心がない。人が飛びつくものがあると、その反対側にあるものを探そうとする。

だからオリンピックがやってきても気持ちが上がらない。もう少し地味にやってくれたら見るかもしれないが、現在のような世界的なイベントになると「どうしてみんなこんなことに熱中するのだろう」と思ってしまう。

プロ野球の結果が夜のスポーツニュースで報道され翌朝の新聞に載る、その程度に報道されるのならオリンピックも好きになるかもしれない。それで興味を持ったらネットで検索を検索すればよい。

選手たちは国を代表する重圧を抱えながら競技に出場する。一足一挙動、一言一句が報道され、それに対してあらゆる方向からレスポンスが飛んでくる。並の人間なら耐えられない。そこまでして記録を求める必要があるのかと思ってします。アマチュアイズムを取り戻して、もっと質素な設備で楽しくゆるく競技をしてほしい。

そのように考える私は完全に変わった人間である。ニュースやサウナ室以外でオリンピックは見ないが、冬の五輪が来るたびに思い出すことがある。

「ああ、また冬のオリンピックがやってきた。あれから何年だろう?」

私は遥か昔の記憶を取り出そうとする。その作業を行いながら、いつも記憶の上書きをしなかったことを後悔するのだ。

上書きするべきであった舞台、それは信越本線の横川ー軽井沢間。

12歳春

私は生涯で一度だけこの区間を電車で通ったことがある。12才の3月、まだ小学生であった。初めての一人旅の二日目、東京で新幹線を降りた私は上野から普通列車で高崎経由横川までやってきた。

群馬の山間にあるこの街が全国的に有名なのは、ここから日本一急勾配の碓氷峠が始まり、隣の軽井沢駅まで全ての列車に補機(補助機関車)が連結されて運行されていたためである。列車が停車している間、人々はホームで駅弁を買い求めた。今もドライブインなどで購入できる「峠の釜飯」である。

列車好きであった私は、小さな頃から子供用の鉄道本を数多く読んでいた。そのどれにも登場するほど有名な場所、それがここ「横軽」こと横川ー軽井沢間であった。

列車を降りた私は改札を抜けて駅前に出てみた。人通りがない。民家が少し立ち並ぶ田舎の駅である。後ろを振り返ってみる。駅周辺とは不釣り合いなぐらいホームには人がいる。駅員や弁当販売員も多数。駅構内ではペアになった青い電気機関車たちが働いたり待機している。

乗客が乗り降りするための駅としての重要度は低いが、点と点を継なぐ線を維持するためには決定的に重要な場所である。ここは鉄道のための駅であった。

私は憧れの場所に降り立った。本の中の世界が目の前にある。一日いても飽きないであろうが、若き頃にありがちなタイトなスケジュール組んだ私は次にやってくる特急列車に乗らなくてはならなかった。

「あさま」の自由席の窓に顔をつけて外を眺める。列車は特急にしては信じられないくらい遅い速度で、信じられないような勾配を上がってゆく。トンネルを抜け、橋を渡り、15分ほど走って平な区間に入ったと思ったら軽井沢に到着した。

私はここでゴルフ弁当を買い、次にやってきた列車で食べた。どうして「峠の釜飯」ではなくこれを買ったのかは思い出せない。多分「峠の釜飯」は有名なので、またいつでも買う機会があると思ったのかもしれない。

確かに「峠の釜飯」は今でも売られ続けている。しかし、私が横川駅でこれを手にして「横軽」を通ることは2度となかった。日本一の難所は新線の開通によって役目を終えたのえある。

長野五輪

日本で2度目の冬季オリンピックが1998年2月に長野で開催されることが決まると、それに合わせるように前年10月に高崎ー長野間の新幹線が開通することになった。

私はちょうどその頃鉄道から遠ざかっていた時期であった。大学生でありながら車を買ってもらい乗り回していたのだ。本当は鉄道が大好きであるが、オタクに見られるのが嫌でそれを公言するのを躊躇っていた。

大きくなったらいつでも行けると思っていた横軽であるが、私はついに再訪することなく長野オリンピックを迎えることになった。新幹線が開通する少し前、テレビニュースで横軽沿線に住む住民のインタビューを見た。

何十年も時計がわりに聞いていた列車の音が聞こえなくなると思うと寂しい、そんな内容であった。

テレビを見た時、私は激しく後悔した。時の不可逆性を恨みたい気持ちになった。学生時代その気になればいつでも横軽に行くことができたではないか。どうしてその一歩を踏み出すことができなかったのか。1日い続けても飽きないと思った場所なのに。

10月の長野新幹線開通まで私に自由な時間はなかった。私は指を咥えながら新幹線開通のニュースを見た。だから私にとって長野オリンピックは、競技の内容ではなく廃止の前に横軽を訪問できなかった後悔と結びついている。

教訓

ミラノ・コルティナオリンピックが終わろうとしている。相変わらず私はニュース以外で競技をほとんど見ない。家にテレビが1台しか無いため、カーリング好きの妻が応援するのに付き合う程度である。どの国がいくつメダルを取るのかにも興味がない。

ただ、今回のオリンピックでも私の気持ちは1998年の長野、そしてその前年の横川ー軽井沢間へと飛んで行った。

EF63型電気機関車が重連で189系特急あさま、EF62牽引の客車列車、169系の普通列車、さまざまな形式の列車を下から押し上げ、または先頭で踏ん張って活躍する。横川、軽井沢、それぞれの駅で切り離され引き上げ線へ進みそこで休憩しながら次の出番を待つ。

そんな鉄道の姿を1日中見られたらどんなに楽しい気分になれるのだろうか。大人になってからは、横川駅で釜飯を買いそれをつまみにビールを飲みながら連結・解放作業を見ることもできたはずである。ああ、私はどうしてそれをしなかったのだろう。

四年に一回の反省会を終えるが、次のオリンピックが近づくと私は同じことを考えてしまう。そしてそんなことを繰り返すうちに、長野から28年の年月が過ぎ去った。

先日、私は所用で長野・東京間を新幹線で移動した。軽井沢に到着すると人目も憚らずに窓に顔をつけて景色を観察する。色褪せたEF63電気機関車の重連が見える。静態保存なのだろうか。

駅を出発すると、こちらがトンネルに入るまで数百メートル旧信越本線と並走する。線路の途切れたあの先に碓氷峠があった。12歳の私はそこを通って軽井沢にやってきたのだ。

はくたか号はあっけないほどの短さでトンネルを抜けた。軽井沢から10分ほどで平地に出て、そのうち左手に長く連なる高架橋が現れた。「嘘だろ」と思ったがそれは本当に上越新幹線のもので、程なくして高崎に到着した。仮に碓氷峠の区間が残り軽井沢を同時発車したとするなら、在来線は横川に着いた頃である。

テクノロジーは途切れることなく進化し続ける。私の愛する鉄道もいずれ別のものに置き換わったり廃止されたりするだろう。長野オリンピックからの28年間が一瞬で過ぎ去っていった。その一瞬の間に私は7回も後悔することになった。

やりたいと思った時が行動する時である。人生が後退戦に入った今、特にそれは重みを持つ教訓である。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。