出会いと別れ

新車購入

「そろそろ車を買おうか」妻にそう言ってバスに乗りディーラーを巡ったのは次男が歩き出した頃であったと記憶しています。

長男が生まれた時、私たちは明石に住んでいました。市内でも交通至便な場所であったため、ほとんど乗らない車を維持するのがもったいなく、私たちは私が独身時代に乗っていた2ドアクーペを手放しました。

それからしばらくして神戸市内に引越しましたが、普段は電車やバスで移動し、どうしても車が必要な時はレンタカーを借りる生活をしていました。この時期はタクシーもよく利用しました。それでも自動車を所有するよりも費用ははるかに少なくて済みました。車は便利ですが金食い虫な存在であると思いました。

次男が生まれた後も、このまま車を所有しない生活もありだなと思う一方で、こうも考えました。「子供はやがて成長して親元を離れていく。それまでの間、車を持つことで家族で何かを行う機会ができるのではないか」。

レンタカーを借りても家族で何か行うことはできたと思います。しかし、手元に車があり、思い立った瞬間に行動できる状態を持つことはそのチャンスを広げてくれると思いました。

私は生まれて初めてディーラーで新車を買いました。七人乗りのミニバンでした。運転席の後ろが次男、助手席の後ろが長男の席になりました。どちらもチャイルドシートが取り付けられました。

実際に私たちはこの車で数多くのことを行いました。各地を旅しましたし、妻と私、お互いの両親の住む場所へも頻繁に帰省し親孝行することもできたと思います。維持費はかかりましたが、それを差しひても得るものがあり私たちは車を買ってよかったと思いました。

ピカピカだった新車は年と共にその輝きを失い、私の手入れが悪いせいかボディー下部に錆が目立つようになりました。私は車を「日本文化ワビサビ号」と名付け、洗車は洗車機に任せっきりでしたがそれでも愛着を持って乗り続けました。

「これからも乗り続けよう」そう思っていたワビサビ号ですが、突然別れることになりました。

乗って帰って欲しくない

ワビサビ号は16年目をむかえていました。長い間乗り、旅行もたくさんしましたが、普段使いをほぼしないため走行距離は10万キロに達していません。

「10万キロでタイミングベルトを交換して、あと1回車検受けて20年まで乗ろう」そんなことを考え、車検を受けた工場でも「まだ十分に乗れますよ」と言われていたワビサビ号ですが、この7月に異音を発するようになりました。

ステアリングを右に切った時、何かモーターが空回りするような音がしたのです。2週間ほど様子を見ても治らないため、私はガソリンスタンドへ行き見てもらいました。

「ステアリング系は大丈夫。錆びたシャフトから音が出ている」ということで錆止めをしてもらい「これで大丈夫ですよ」お墨付きをいただきました。

安心しながら運転していると、次は何か金属が擦れるような音がしてきました。「落ちた錆が絡んでいる音だろう」と勝手に解釈していましたが、音が大きくなり通行人が振り向くレベルになったので、さすがに私も不安になり正規ディーラーへと持ち込みました。

約1時間の検査の後、私の前に提出された修理見積書の数字は20万円をはるかに超えていました。しかもこれはとりあえずの数字で、もっと分解して調べると更なる修理が必要になりそうとのことでした。

どうやら足回りの錆が相当ひどいようで、シャフトはもちろんディスクブレーキ周りも腐食していてキャリパーが分解できない状態だと言います。整備士さんのタブレットには我が愛車の足回りが映されていました。「ワビサビ号」のボディーのサビなど可愛い状態で、サビしかないサビサビ号と言っていいほどでした。

「できればこの車に乗って帰って欲しくない状態です」

整備士さんが私に真剣な表情で言いました。

「近くなのでなんとかこの車で帰ります。買い替えを検討しますので修理は結構です」

私はキーキーと悲鳴を上げながら走るワビサビ号に「ごめんな、ごめんな」と謝りながら帰路へつきました。

思い出

こうして別れを迎えると、この車と過ごした思い出が次から次へと浮かび上がってきます。ほとんどが家族旅行に関するものです。

1年に数回、私たち家族はこの車で旅に出ました。私の仕事が忙しくほとんど休みが取れない頃は、それだけを楽しみに私は働いていたような気がします。

関西近郊をはじめ、九州・四国・中国・中部・東海と西日本の各地をこの車と共に旅をしました。やがて長男・次男とチャイルドシートがいらなくなりました。

ナビがついていないため、私たちは車内でしりとりやなぞなぞをよくしました。子供用の歌をかけて、みんなで歌いました。二人が小学生になる頃、私が持っているCD(ほぼハードロックとヘヴィーメタル)の中で子供でも大丈夫そうなものを聴かせました。子供達にとってビートルズ、アバ、クイーンといったアーティストとの出会いはこの車であったと思います。

子供達が成長し自分の音楽プレーヤーを持つと、車内でもそれぞれが自分の音楽を聞きはじめました。会話も以前ほど弾まなくなりました。妻の好きなCDを聴きながら、私と妻が話をし、時々こともたちに「そう思うよな?」と同意を求めるような展開になりました。

長男は高校に入学すると友達と旅行に行くようになりました。次男も私に似たのか一人旅が好きな高校生になりました。私たち家族が揃ってこの車に乗るのは私や妻の実家へ帰省する時ぐらいになりました。

長男は大学生になり一人暮らしを始めました。大学生活が忙しく、祖父母に会う機会も減りました。次男も勉強が忙しく、私たちの帰省に付き合わず一人で留守番することが多くなりました。

ワビサビ号は妻が郊外の店に買い物に行ったり、私が農作業のための帰省に使う車になりました。家族のステージを考えた時、私たちがミニバンを持つ必要はなくなりました。

そのようなタイミングでワビサビ号は多額の修理費が必要な状態になりました。ガソリンスタンドで「大丈夫ですよ」と言われて数日後のことです。私は何か運命のようなものを感じました。

家族ライン

このミニバンの納車に行った時のことを昨日のことのように思い出しています。長男の手を引き、次男を背負い、家族四人でディーラーへ行って新車を受け取りました。

そこで初めてナンバーを見て、その数字からニックネームを作り、以降その名前で呼び続けました。ワビサビ号と呼んでいたのは私だけです。

この車との16年間の歩みは子供たちの成長、そして親離れへの時期と重なります。このミニバンと作った数々の思い出の中で一番をあげるとするなら、おそらく家族全員が同じことを言うと思います。

それは5年ほどかけてこの車で四国八十八ヶ所をまわったことです。子供達が小さすぎても成長しすぎてもこれはできなかったことです。家族の状態がちょうどいいタイミングで、私たちはお大師様の後をたどり、真剣に祈りを捧げました。

そのおかげか、子供達は目に見えないものの存在の大切さを感じていますし、実家に帰るとすぐに仏壇に手を合わせ、時に般若心経を唱えるようになりました。

車を引き渡す日、私は写真を何枚か撮って「ありがとう」のメッセージと共に家族ラインに送りました。これから先、子供達が独立してそれぞれの家族を持った後も、私たちはいつまでもこの車との思い出を語ることができると思います。

さて、予定よりも早く車を買い替えることになりました。次に買う車は決まっていました。私が長年欲しいと思い続け、先日ようやく妻の許可が降りたあの車です。

ダイハツに試乗の予約もして、買う気満々で訪問しました。しかし、アトレーデッキバンとの生活を描いていた私が今運転しているのは、中古のハイブリットカーです。駆動の仕組みが電気式ディーゼル機関車と同じなのでこちらは「DF200」というあだ名をつけて乗っています。

あんなに憧れていたデッキバンはどうなったのか、これは長い話になるのでまたいずれ書きたいと思います。今私が言えることは「DF200の乗り心地もいいけれど、私はデッキバンを諦めていない」ということです。

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投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。