窓掃除
高校を卒業して30年以上経つが毎年のようにクラス会をしている。クラス会といっても在籍していた生徒全員に連絡を取っておこなうようなものではなく、特に仲良かった十数人がどこからともなく「今年も集まるか」というようなノリで居酒屋に集まる会である。
この会はたいてい皆が地元に帰省することが多い年末に行われる。毎年楽しみにしていた会ではあるが、2019年を最後に開催されていなかった。コロナによる自主規制である。この4年間、年末が来る度にラインでは「来年はできるかな」というメッセージが行き交っていたが、ようやく2023年末になって開催することになった。
そんなわけで私はクラス会に合わせて一人で実家に帰省した。妻と子供らは年が明けてから合流することになっている。私の実家には父と母が二人で暮らしている。かつては最大7人が暮らしていた家に今は二人だけだ。両親は会うたびに歳をとっていくのがわかる。テキパキと何でも自分でしていた人たちであったが、今ではできないことも増えた。
私は同窓会に出かけるまでの間、年末の掃除を行った。頼まれたわけではない。今の父と母では手間が回らないであろう場所をきれいにしたかったのだ。私も幼少期から18歳まで過ごした思い出のある家だ。汚れていくのは忍びない。
私は庭に面した縁側の窓をきれいにすることにした。まずはサッシがはまっている溝を掃除する。これが一筋縄ではいかない。虫の死骸やそれらが砕けてへばりついた層を取り除く。
溝の次は窓枠を拭き、ガラスに霧吹きをかけてゴムの窓拭きで汚れをとる。高さのある窓なので一枚仕上げるだけでもかなりの時間がかかる。確かにこれは今の両親には無理だ。これからは半年に一度でも私が帰省するたびに行う仕事なのかなと思いながら体を動かしていると、玄関の方から甲高い声が聞こえてきた。
お久しぶりです
玄関には客が来ていたようで母親が対応していた。しばらく話をしたのち、声の高い客は車に乗って去っていった。ちらりとその姿を除くと、腰の曲がったおばあさんであった。年齢は80歳ぐらいだろうか。
しばらくして母親がやってきた。私は先ほどの客について尋ねた。近所に住んでいたSさんの妹さんだという。母はSさんと知り合いで近所付き合いをしていたが、Sさんは数年前に亡くなった。Sさんの妹さんも近くに住んでいて、時々私の母親と野菜などをやり取りするらしい。
その妹さん、つまり先ほどの人はかつて助産師をしていたという話をしたところで母親は突然自分の部屋に帰っていった。
しばらくして母親は部屋から出てきて私に「やっぱりそうだった。これを見て」と言った。
手にしていたのは小さな桐の箱であった。その箱の中には私と母親を繋いでいたへその緒が入っている。箱に貼り付けられた紙には先ほどのおばあちゃんの苗字が書かれていた。
母は助産師の話をした時に、Sさんの妹さんが私を出産した病院に勤務していたことを思い出したという。ひょっとしてと思って箱を見ると名前が書いてあったということだ。
あのおばあちゃんは、世界で私に初めて触れた人だった。私が母の体内から出てきた時、この背中をつかんで抱き上げて、体を洗ってくれた女性だった。
掃除を続けていると、30分ほどして聞き覚えのある甲高い声が聞こえてきた。彼女が用事を済まし、野菜をとりに再びやってきたのだ。
今度は私も母に並んで玄関で迎えた。腰が曲がり頭が真っ白な小さなおばあちゃんだ。あのシワシワの手で私を取り上げてくれた。私にとってこの世で初めて接した人。
母親がこの30分の経緯を話し、私は「その節はお世話になりました」とお礼を言った。赤ちゃんはいい歳のオヤジになり、若き助産師さんは老人になった。私の姿を見ながらおばあちゃんは笑っていた。
故郷への想い
私の中で様々な感情が混ざり合っている。考えたところでどうにもならないことであるとわかっていても、考えずにはいられない。私にいつも取り憑いて離れない生老病死についてである。
この日私は私を取り上げてくれた人に会った。偶然の出会いだった。この日に同窓会がなかったらもう一生出会えていない、つまり私は自分を取り上げてくれた人を見ぬまま私は一生を終えていたかもしれない。
この人だけではない。私が子供の頃に関わった人々で、私に子供時代から会っていない人がたくさんいる。少し遠い親戚を始め、友達の親や地域の行事などで日常的にお世話になった人。小・中・高の各学校でお世話になった先生たち。私の家に出入りしていた両親の知り合いたち。
当時の私にはわからなかったが、私は数多くの人々と関係しながら成長した、というか成長させていただいた。それらの人々の中には私に会わぬまま鬼籍に入られた方も多くいるであろう。そして私が今と同じ生活を続けている限りその数は増え続けていく。
誰もが一日一日歳をとっていく。私たちはこの世に滞在できる時間を少しづつ消費している。そしてそれがあとどれくらい残させているのかは誰も知ることができない。
数年前、実家の近くに住む父の友人Tさんが亡くなった。Tさんは私が高校生の時、週に2〜3日は仕事帰りに実家に寄り酒を飲みながら父母と話をして自分の家へ帰っていった。私ともよく話をした。
私の大学進学が決まり、彼は私を初めてパチンコに連れていってくれた。その後私の家族が合流して焼肉を食べスナックを梯子した。父親とスナックに入るのはその時以来ない。
大学時代も実家に帰るとTさんに会うことがあった。しかし働き始めると実家に帰る回数も減り、Tさんと会うことも滅多になくなった。亡くなった時、私はTさんと10年ぐらい会っていなかった。
寂しかった。いるのが当たり前の時はその大切さがわからない。いなくなって初めてその希少さ、文字通りの「有り難さ」に気づく。もう一度会ってお礼を言いたいと思ってもその時はもう遅い。存命中にその有り難さに気づき、その場で感謝するべきなのだ。
年末「初めての人」に会ったことをきっかけに、私の中で故郷に対するノスタルジアが燃え上がっている。何十年も会っていない人の顔が浮かんでは消えていく。
私はこのままこの地でこの仕事を続けるべきであろうか。もちろん人生の半分以上を過ごしている神戸にも大きな愛着がある。しかし、ここは私の第二の故郷であって「ふるさと」ではない。
二つの地を足場にする生活はできないものだろうか。
私は年が明けてからそんなことばかり考えている。