ゴルフ場のような場所で…
私はよく夢を見る。毎日といっていいぐらい夢の途中で目を覚ます。
見る夢の中で、もっと見ていたいと思うものはほとんどない。大抵は起き上がった時、体が汗でぐったりと濡れているタイプの夢である。
奇妙な場所にいてそこから抜け出せなかったり、誰か知らない人に終われていたり、高い場所から落ちそうになっていたり、どうして私はロクな夢を見ることが無いのだろうと、情けない気分になる。
そんな私であるが、先日見た夢は直接自分には被害が無い「マトモな方の」ものであった。しかし、それを見て、また考えさせられた。
ゴルフ場の入り口であるような芝生の生えた広場にいる。周りには落葉樹がポツンポツンと広い間隔で植えられていて、基本的に目に見える景色はこの芝と木だけである。
私は義理の叔父と一緒にそこにいる。母方の叔母の旦那さんで、私とはとても仲が良い。私はその義理の叔父と共に電動カートに乗っている。
カートはゴルフ場らしき場所の入口へ向かっているのだが、突然私たちの横をキツネの群れが通り過ぎてカートの前に出た。と同時に空から鷹の群れがキツネたちに襲い掛かる。
キツネと鷹、どちらも10匹ほどの集団であるが、双方とも親子が入り混じっている。親鷹は子ぎつねを狙って襲い掛かり、逆に親ギツネは小さな鷹に飛び掛かる。私はこのバトルロワイヤルに「いったい誰が誰を獲物にするのか」と思い、そこで目を覚ました。
現実の世界では、鷹が子ギツネを捕食することはあっても、子供の鷹は高所の巣にいるため、キツネがそこまで行くことはないと思う。しかし、何かの拍子で巣から落ちたらキツネに食べられることは十分に考えられる。
食物連鎖 弱肉強食
いつも見るように、狙われるのが自分である夢じゃない分マシであったが、目を覚ました後、しばらく考えさせられた。
動物同士の食う食われるの関係を考える時、人間のそれは普通ではなく、自然界では今朝の夢のようなバトルロワイヤル状態が当たり前である。その明白な事実に改めて気づかされてハッとする。
全ての動物はこの世に現れた瞬間から、生き残るための戦いが始まる。
いや、動物だけではない。植物やよくわからない生命体も含めて、すべての生き物は複雑な食物連鎖の網に絡まった状態であり、人間も例外ではない。
ただ、人間だけがその網のかわし方を少し知っていて、うまくいかない時もあるが、おおよそ、からみ取られることをうまくコントロールしている。
草むらに行くと蛇がいることがある。草が無い所では、蛇はトビや鷹に襲われてしまうから大抵はそこから出ない。蛇に食べられるネズミはどうであろう。広場に行けば蛇はいないかもしれないが、イタチやテンなど他の捕食者に簡単に見つけられてしまう。
こうなると「行くも地獄、戻るも地獄」という状態になる。ネズミはどこへ行けば心休まる暮らしをすることができるのだろうか。
おそらくそんな場所は存在しない。そしてネズミが人のような心を持っているとは考えられないので、そんなことはどうでもいいことである。
ネズミはただそこで生き、あるものは餌を食いつないで子を残す。そして多くのものは食べられて、その生を終える。
ネズミだけではない。イワシも、バッタも、スズメも、カエルも、ほぼすべての生き物は、ただ生まれ、生き、食べられて死んでいく。
時間的・空間的に縦横無尽に張り巡らされた食物連鎖の網の中、命のやり取りが行われて、命は形を変えてグルグルと回っていく。それを離れた視点から見てみると、食物連鎖そのものが巨大な生命体に思えてしまう。
その枠の中から少し外れたところに存在する人間。私たちは言語を獲得し、「心と思考」を持ってしまった。「心と思考」、言い換えれば知恵を持った人間は、自然の食物連鎖の外側に自らを置く足場をつくった。
そして「心と思考」は知恵と同時に副産物を生み出した。
時間と死、そして意味。
「なんのために」という概念を手にしたとき、苦しみが始まった。少なくとも「私の」苦しみはそうだ。
「生きることには意味がある。」「何かのために生きなければならない。」
これらの言葉を口に出してみよう。ただ空気が振動するだけだ。鉛筆で紙に書いてみよう。細かな炭素の破片が紙を構成する繊維質の上に付着するだけだ。
しかし、その振動を鼓膜がとらえ、炭素の付着を網膜細胞が感知し、情報が脳へ届けられ心が共振を始める時、無機質なものがこの有機体の行動を支配する大きな原因となる。
人間に生まれ、こうして言葉で考えている以上、夢の中で見たような鷹やキツネ、また他の動物に生まれたかったとは思わない。
しかし、時にああいった動物のように、ただ生まれ、ただ生き、そしていつの間にか死んでいくような身軽さに憧れることはある。
Learn as if you were to live forever. Live as if you were to die tomorrow.
やはり「明日死ぬつもりで今日を生きること」を一日一日積み上げていくということか。