受け継いだもの

里山の地表

地表について考えてみる。自分が鳥になったつもりで、上空数百メートルから見た土地の姿だ。日本の地表は、主に都会と里山とそれ以外との3つに分けることができる。環太平洋造山帯に沿って連なる国日本、この国の面積の七割は山岳地帯である。

日本の山はほとんどが木で覆われている。原生林が残っている場所は稀であるが、人によって木が植えられた山も今ではそれほど人が入っていかない。その地表では植物相のバトルロイヤルが繰り広げ、気候などの条件により均衡状態がふれ動く。

人が住むことができる三割の地表の中で、都市部の地表はほとんど建物とアスファルトとコンクリートによって塗り固められている。それでも放置すれば、この国の気候要件では50年と待たずに植物に覆い尽くされてしまうが、都市に人が住む限りそういうことはさせない。都市部の地表は管理され続ける。

さて、残った里山である。ここの地表の多くは土に覆われている。したがって植物相のバトルロイヤルがすぐに始まり、やがては山岳地帯と変わらないような森林を中心とした景色となるであろう。

しかし、里山のほとんどはそうななっていない。なぜなら人の手が入り続けているからだ。生きることは食べること。農作が始まって以来、人間を生かし豊かさをもたらしてきたのは食料を産む土地であった。

保存のきく穀物を持つことは現代社会でお金を持つことと同じ意味であった。その穀物を生み出す田畑は紙幣を印刷する輪転機のようなものであろう。そんな人間の欲望がこの国の平野を隅々まで開墾させた。

マシンを振りながら

私は実家の田んぼの畦に立ち、刈り払い機を振って草を刈っている。疲れてふと腰を伸ばし、周りを見回してみる。連なる山と山の間に幅1キロほどの平坦な面が形成されている。その平面の中心を流れる川が上流から運んできた土砂が堆積してできた面である。

その平面のほとんどは耕作地になっている。平面には、谷筋に沿ってところどころ高くなっているところが見える。川が作った段丘面である。川には決まった道筋はなく、水の流れは左右の段球面の間を行ったり来たりしながら土砂を堆積させてきた。

そんな中、人々は協力して治水工事を行い河道を確定させ、その脇を田畑に変えていった。最初は何を栽培したのか、私の想像力では追いつくことができない。礫の混ざった泥地から大きな石を集めて等高線に沿って積み上げて区画を作り、小さな石で隙間を埋めていく。石がなくなった面に何かの種を植える。

もともと誰のものでもなかった場所。いつ、どのように所有を決めていったのか。誰かがどこかの土地に手を入れ、何かを植えていく。最初から稲作をするのは無理であろう。

徐々に土を作り、水を引くための溝を作り、稲作ができる場所へと平面を変えていった。旧河道であった平地は人の手によりその姿を田畑に変える。人間の食糧を求める気持ちはそれだけでは終わらず、平地から入り込む狭い谷まで小さな区画の田畑になった。

昭和の後半になると、より効率よく米を栽培するために圃場の区画を整え始めた。大きなお金をかけてバラバラだった田んぼの形が長方形の集まりへと変えられ、用水路とアスファルト舗装の農道が整備された。

それだけお金をかけても、圃場の整備は割にあう事業だった。いや、実は米は余り始めていたかもしれない。しかし、多数を占める戦争経験者には飢餓の経験があった。そんな人々にとって食糧生産を減らすという考えは、本能的に受け入れられないものであったであろう。

私が刈り払い機を止めて目にする地表、人々が長い間手を入れ続けてきた地表の様子は、基本的には数百年の間変わっていない。稲やその他の穀物や野菜を栽培するための面を見せている。

この1年

肥料をまき、草刈りを終えて軽トラを運転して実家に家に帰る。父親と少し話をした。

「この1年、どうするか考えてくれ」

父親は私にいった。

「この1年の間にお前が田んぼを手伝いながら、それでも稲作が続けたいのかどうか考えてくれ。ワシはもう続けるのがしんどい」そういう意味だ。

父親の腰は2年前から痛みだし、最近は膝の調子も悪い。稲作に関してできることがどんどんと少なくなってきている。

肥料や苗の代金、そして稲刈りや乾燥してもらう費用を考えるとトントン、自分たちの人件費を考えるととてもじゃないがやっていられないという。お金を出して米を買えば、労働と水田の心配がいらないだけ”お得”である。

両親と私たちの家族、それに父母の仲のよい一部の知り合いが1年間食べられるだけの米を無農薬で作っている。自分が手をかけて作った安全な主食を口にすることができる、その安心感が父親の支えになっているし、私もその気持ちはよくわかる。

「まさかこんな時代が来るとは思わなかった」と父親はいう。

「生きていくための穀物を生み出す田畑の価値が、ここまで低くなることが考えられなかった」という意味である。

父親が若い頃、つまり私が子供の頃は地域の多くの人が稲作を行なってた。専業の農家は少なかったものの、皆仕事を持ちながらも休みの日には農業を行い、自分の家の食い扶持を確保すると残りは出荷して幾らかのお金を稼いだ。

団塊の世代は日本が貧しかった時代を知っている。しかし私たち団塊ジュニアはそうではない。私が生まれてた時、日本はすでに経済大国であり、モノも食糧もあふれ、飢饉や餓死など想像することのできない時代であった。

そのようなこともあってか団塊の世代が守った田畑を、団塊ジュニアたちは継がなかった。私の実家の周りでも、田畑を耕す人々がどんどん少なくなっているという。

耕作をやめた田畑は農業公社や大規模農家に貸し出される。貸し出し料は取らない。収穫した作物の一部を受け取る権利もない。「放っておいたら土地が荒れるから、タダで貸し出してそれを防いでいただいている」ということなのだ。つまりそれほどまで農地の価値は下がっているのだ。

地主と小作の関係が逆転したこの現象を江戸時代の人が見たらどう思うのだろうか。江戸までさかのぼらなくても、ほんの50年前には想像不可能だったことが実際に起こっているのだ。

どんな形であれ農地を耕してくれる人がいる限り、里山の平面の様子は変わらない。先人が苦労して開墾した時以来、そこは作物を生み出すための土地である。

しかしながら、数百年、もしかすると千年以上続いた風景が変わりつつある場所もある。耕作をやめて、農業公社や大規模農家にひきづがれなかった土地である。山間の条件の悪い土地からそういう耕作放棄地が増えていっている。

人が土地に手を入れなくなると、すぐに植物相のバトルロイヤルが始まる。さまざまな草が乱れ、その中に低木が現れ、50年もすると林に姿を変える。

実家の田んぼが林になる姿は今のところ想像できない。しかし、私たちが米作りをやめて、その土地が誰にも引きづがれなかったら、次の年の終わりにはそこは一面の草むらへと変わる。そのような可能性を持った土地が日本中にあふれている。

空から見た地表の様子は変わりつつある。私自身、土地に対してどのような立場を取るのか、この1年で考えていかなくてはならない。

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投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。