ダラダラと20年間
何かを得ようと思えば何かを捨てなければならない。一人の人間に与えられた時間は有限で、使うことのできる集中力やエネルギーも限られている。
昨年の秋、英検1級に合格した。「ダラダラと行っている語学にケリをつけたい」そんな気持ちからの受験だった。
別に語学が嫌いなわけではない。ただ目標もなく、義務感でやる時間が多くなりがちで、仕事や他のやりたいことと折り合いがつかなくなってきた。楽しいはずの語学学習がモヤモヤの原因になっていた。だから、2020年度中の英検1級とイタリア語検定2級合格を決意し、それらに絞って学習を続けた。
目標は途中で英検1級と日商簿記3級に変わり、なんとか両方合格することができた。
「英語は義務感から解放され、好きな事だけやろう」そう思えるようになった。次の目標は去年取りこぼしたイタリア語2級だ。
これを独学で達成するには一筋縄ではいかない。私はいくつかのことを捨てようと決意した。
・台湾語の勉強を中止した。
・大相撲を除き、自らテレビを見ることをやめた。
・着ていく服や靴を選ぶのに時間をかけることをやめた。
・定期的に録音して聴いていた語学以外のラジオ番組をやめた。
・自分でシャツにアイロンをかけることをやめた。
結果として空いた時間をすべてイタリア語学習に使っているわけではない。ただ、生活にゆとりが出てきたことは確かだ。肩の力が抜けたというのか「本当に今までテレビを見る必要があったのか」とか「服装は機械的に決めても何ら変わりがない」そんなことがわかった。
さて、次はイタリア語の番だ。思えば、この言語は私の楽しみとモヤモヤの両方を作り出してきた。
イタリア語を学習することで英語を客観視することができ、英語に対しての理解がものすごく進む。この感覚はとても楽しい。殆どの単語は母音で終わり、音読をしても非常に気分のよい言語である。英語の語彙を増やす時、ラテン語の直接の子孫であるイタリア語の知識は有用であった。
しかし、忙しい日常で時間を作り、確固たる目標のない言語の学習を続けることは非常にストレスフルでもある。
「どうして私はイタリア語を始めてしまったのだろう」
「やめてしまえば楽になるのではないか」
「これだけ長く学習しながら本当に上達しているのだろうか」
次から次へと疑問が湧き上がってくる。
実際に私がこの言語に携わってもう20年の月日が流れている。学習と中断をもう何回、いや何十回繰り返したであろうか。NHKのテキストを買っては途中でやらなくなり、5年に一度ぐらい検定の勉強に集中し何とか準2級までとることができた。
しかし、20年かけての準2級である。その間私が使った時間、それ以上に「学習しなければ」と思いモヤモヤした気分になったこととは、全く釣り合いがあっていないように思える。
「一思いにやめてしまおう」そう思ったことも数知れない。その度に、スティーブ・ジョブスがいう「ドットが繋がる」ということを夢見て何とか今までやってきた。それが、私とイタリア語の20年間のダラダラとした関係だ。
身軽になって突然変わった
この1か月の私に起こった変化はとても信じられないものであり、今でも「自分は夢を見ているのか」と思うことがある。
突然イタリア語がわかり始めたのだ。
昨年末にイディオムの本を買い、12月中は必死になって音読した。2級の問題集を解いてノートにまとめた。ラジオレコーダーでHNKの番組を録音し、テキストを見ながら学習した。いわばいつもと変わらない学習方法。それほどのワクワク感もない。
新年を迎え、お正月休みの中「たまには動画で勉強してみようか」と思い、検索をかけた。実は、今まで動画で語学を勉強するという発想がそれほどなかった。2年ほど前にイタリア語学習サイトを探して、あまりいい物が見つからずがっかりした経験があったのだ。
そんなことであまり期待することなく検索したわけであるが、まずこの2年間の学習サイトの進化ぶりに驚かされた。
かつて「Learn Italian with Lucrezia」というサイトをよく訪問していたことがあった。イタリア語のテキストとMP3になった音声が手に入るからだ。この度、久しぶりにこのサイトにアクセスすると、それはYou Tubeによる動画学習サイトになっており、大量の動画が溢れていた。
一度動画を再生すると、関連するYouTuberたちの動画、つまりイタリア語学習に関するものが次々と画面に表示されていく。多くはイタリア人による、イタリア語学習者へ向けた動画だ。しかも丁寧にイタリア語、時にはイタリア語+英語の字幕まで付けてある。
私はこの2年ほどいったい何をしていたのだろうか。最近、教養を広げるための「学習系動画」が多いと感じていたのだが、それはイタリア語学習にも当てはまっていたのだ。
サブタイトルを見ながら動画を見ていく。自分でも信じられないくらい内容が理解できる。「私はこんなにイタリア語が理解できたのか?」そう思えるほどである。
こうなったら面白くてしょうがない。「継続しないと今まで獲得した労力が落ちるから、やらなければならない」そんなメンタリティーで机に向かっていたことが多かったが、最近は自発的に早く動画の中の次の世界を知りたくてたまらない。
私の「ダラダラ20年間」は何であったのであろう、そんな気持ちになる。
気持が軽い
今、私は叫びたい気持である。
「こんなに楽しいんだ!」「わかるって気持ちイイー!」
今年の正月から今までのこの1月ほど、語学をやっていて気持ちが軽かったことはなく、それは今でも続いている。
しかし、どうしてこんなことになったのだろうか。考えてみると不思議である。同じような内容のイタリア語を半年前に聞いていても、今ほど理解することはできなかった。それが、どうしてこんなに心にスーッと入ってくるようになったのだろう。
おそらく、今までの私は言葉を読み聞きしているようで、聴いていなかったのだ。イタリア語の学習をしていながら、同時に心はモヤモヤと戦っていたのだと思う。「英語の力も上げなくてはならない」「台湾語もやっておかないと忘れてしまう」そう言った種類のモヤモヤだ。
それが去年の秋に英検1級に合格し、英語は好きな事だけやるようになり、台湾語の学習を中止する決断を下した。簿記の勉強を行ったことも大きいと思う。結局、借方と貸方は同じ値になるのだ。何かを得るためには、何かを切り捨てなければならない。つまり考え方をシンプルにし、体を軽くするのだ。
そういう風な思考の流れになった時、私を覆っていた一枚のモヤモヤの幕が取れ、イタリア語が素直に私の中に入ってくるようになったのかもしれない。
そこへ至るためには、20年間の地道な学習とモヤモヤが必要だったのかどうかは私にはわからない。しかし「途中でやめなくてよかった」ということを強く感じている。これはドットの一部が繋がったということなのだろうか?
今、暇があればイタリア語の動画を見ている。語学に特化したものから文化紹介、日々の生活情報やゴシップなどあらゆるジャンルが溢れている。
時には画像をとめて辞書で語を確認しながら、私はオーセンティックな素材を使い、急速にインプットを増やしている。
それにしても語学を学習するには最高の時代に生きていると思う。こんなに手軽で、こんなにお金をかけなくても、本物の言葉を学ぶことができるのだ。そのことに感謝しながら、私はこれからも動画を見続けようと思う。大量のインプットの後、テキストや問題集を見たらどう感じるのか楽しみだ。