夜市で夕食の後、別の夜市へ
台湾旅行の3日目、士林夜市で夕食を済ましホテルへ帰宅したもののまだ飲み足りない。小腹も少し空いている。
妻と子供たちはホテルのwifiを使って動画を見たりゲームをしたり。もうホテルから出ていく気配がない。「せっかく台北まで来ているのに」と口から出かかるが、グッと飲み込む。人によって楽しみ方や優先順位は違う。そしてそれらと自分の欲望との折り合いをつけながらやっていくのがよい関係を築くコツ。それは他人でも家族であっても同じだ。
台湾に来る前から気になっていた食べ物がある。小ぶりのカキを卵と小麦粉で焼く牡蠣オムレツである。台湾語で”オーアツェン”と呼ばれてる庶民的な食べ物。
前回訪台した時は仕事がらみだったため、万が一あたった時のことを考えて我慢していた。今回はプライベート、そして明日帰国のため何とかなるだろう。私は数年間待ちわびた牡蠣オムレツを求めて一人、夜の街に繰り出した。
私たちは台北の中心地のひとつ中山地区に滞在していた。日本統治時代から栄えていた場所で数多くのホテルや商業施設があり、夜遅くまで人通りが絶えない。
前回も思ったが、コンビニの多さに圧倒される。主にファミリーマートとセブンイレブン。それに地元資本らしいハイライフという店が混じる。この地域のどこにいても、グルリと周りを見回せば2件はコンビニが目に入る、そんな密度だ。
歩道や少しスペースのある所には露店が出ている。台湾風ホットドックや焼き鳥のようなもの、練り物、何かのスープ。漢字で書かれているので、ある程度中身は分かるが「猪血湯」といった文字を目にしても、それを額面通り受け取ってよいものかどうか迷ってしまう。
様々な業種の店舗が混ざり合ったエネルギッシュな街を西へ向かって歩いて行く。地図によるとこの先に「寧夏夜市(ニンシアイエシー)」という夜市があるらしい。
やっと食べることができた
街を歩くこと10数分、あたりの様子が変わってきた。明らかに向こう側に人ごみがあるのが分かる。さらに近付くと煌々と輝く看板群と共に人で溢れる通りが見えてきた。寧夏夜市である。
広めの通りの中央にぎっしりと飲食を中心とした屋台が並んでいる。そしてその後ろ側には通常営業している店舗が。
夜市は人で溢れている。そして一見したところ地元の人が多そう。子供の姿も多数見られる。とはいっても、人が車道まで溢れ、なかなか先に進めなかった士林夜市のような混雑ぶりではない。自分のペースでじっくりと店を探す。
こういう時一人だと気が楽だ。子供が迷子になったり、奥さんが不機嫌になることを心配しなくても済む。若い頃から一人で知らない街を歩くのが好きだった。これだけ人がいて、僕のことを知っている人が一人もいない。群衆の中での孤独感、ネガティブな意味でつかわれることが多い言葉だが、時には味わってみたくなる。
数ある店の中から美味しそうな店を探し、牡蠣オムレツとビールを注文する。店にいる客は殆どが牡蠣オムレツを注文している。これが名物になっている店なのだろう。
しばらくして注文の品が到着。卵と小麦粉で作った生地の中に牡蠣と白菜。その上にとろみのある赤みがかったタレがかけられている。牡蠣は小ぶりのものが十数個入っている。日本ではあまり見られない大きさだが、生地と共に食べるには丁度よい。見た目から辛さを覚悟したタレは意外と甘い。
もっと刺激のある食べ物かと思ったら、毎日でも食べられるあっさりした味。日本のお好み焼きよりも胃に軽く、ビールとよく合う。数年来待ちわびた牡蠣オムレツにすっかりと満足し、私は店を出た。
時刻はまだ10時前。市場を端から端まで歩いてみる。長さ300mほどの一本道。南の方へ下ると、食べ物だけではなくおもちゃやゲームの屋台もたくさん見られる。子供たちが多数遊んでいる。この辺りの子供は夜10時になっても外出を許されているのだろうか。
地元の人はどんな気持ちなんだろう
にぎやかな夜市をただブラブラと歩く。店の種類の多さ、活気、店員のエネルギーに圧倒される。訳もなく笑顔になり、ワクワクしてくる。それはまるで寺社仏閣の縁日に、屋台がずらりと並んだ参道を歩いているような気分だ。1年に数回、ずっと心待ちにしてきた日。この時ばかりは多めにお小遣いを貰い、夜遅く帰っても許される日。そして僕は考える。
「地元の人は毎日どんな気分で過ごしているのだろう。今の僕みたいにモヤモヤも忘れ、ワクワクした気分なのだろうか?」
縁日は年に数日しかないハレの日。しかし、この夜市は1年中行われている。このエネルギーに溢れた状態がこのあたりの日常なのだ。この規模で毎晩開催される夜市、日本ではちょっと思い当たらない。
大都市の歓楽街の賑やかさなら日本も負けていない。でも、夜市とは何かが違う。日本の歓楽街は会社帰りに、またはわざわざ出かけて行って楽しんで、その後また時間をかけて家に帰る場所。ここの夜市は、住んでる場所から徒歩で行き、楽しんだらすぐに家に帰って寝る、そんな感じがする。
こんな場所が日常生活の中にあったらなあ、と思う。日々の生活の中で僕の中に起こる様々な感情のせめぎ合い。したいこと、行うべきこと、した方がいいからやっていること、やりたくないのにやっていること。一日の行動がいくつもの階層に分けられ、それに付随した心情とやり取りしながら、なんとか1日を過ごす。
そのように清濁混ざった自分の心と体を一度夜市の中に置いてみる。ここは奇麗すぎないし、汚すぎる場所でもない。そこで売られている煮物のように、多くのものがゴタゴタに混ざり合い、五香粉と言うのだろうか、独特のスパイスによって調和が保たれている。近代的なショッピングモールのフードコートにいるとなぜか疲れを感じる。その理由がここにいると分かる。
美しさを強制された感情、そう考えるべきという感情、うまく言い表せれないが、弱さや汚さが吐き出せないでいる時間が長いと疲労してしまう。フードコートは、衛生的で、広く認められていて、どこでも同じ味を楽しめる店で溢れている。間違いはない、でも僕はその正しさが時に重い。
華やかな夜市の裏側にある影。果物ジュースを売る主人が、笑顔で愛想を振りまきながら、一瞬見せる鋭い眼の光。売り場の後方から聞こえてくる口喧嘩。無造作に台に置かれるゆで豚の頭や内臓。明らかに身体が不自由な人が、行列の屋台の横で頭を地面につけてお金を乞う姿。
目をそむけたくなるが、確実に社会にあるもの。そしてこれからもあり続けるもの。
夜市の構造は人の心のそれに近いのではないか、そんな思いに至る。
ハレの日のようにワクワクでき、しかも複雑に絡まった心を解きほぐしてくれる。こんな夜市が近くにあれば私のモヤモヤはどれだけ軽くなりそうか。台湾に来てよかったと思う。