考えさせられる時
新しい年度が始まり、新入生が入ってきて、在校生はそれぞれ一つづつ進級します。勤務校が変わったり定年を迎えて離任する職員がいるかたわらで、新たに採用されたり勤務校が変わる教師たちもやってきます。
新しい年度、新しい人員、新しい校務分掌の中、4月の学校は慌ただしくすぎていきます。始業式と入学式、新入生に対するオリエンテーション、在校生のための課題考査、健康診断に学年集会、短期間の間にこれらが詰め込まれた後、通常の授業が始まります。
この間、朝学校に着いてから夜に帰宅するまでほとんど息つくひまがありません。お昼を食べながらも、廊下を歩きながらも次に何をするべきなのか考え続けています。
教師になって以来、ゆうに二十回以上このような慌ただしい新年度を迎えてきました。いい加減慣れてもよさそうなのですが、やるべきことはわかっていて、それに向けて準備をするのですが、決して余裕を持って4月を迎えたことはないのです。
私だけではありません。この時期は周りの誰もが緊張しています。他人に何かをお願いするることに対して気が引けます。自分も何かを頼まれた時、一瞬でも嫌な顔をしていないかどうか気になります。
二十回以上経験しても慣れないのには理由があります。考えるべきことと知っておくべき情報量が年を追って増えているからです。そしてそれらの情報は読みやすい形で一つの場所にあるわけではありません。パソコンの中のいろいろな場所に散らばって存在し、私たちはそれらを時間をかけて探しに行かなくてはならないのです。そして時にそれらを共有する時間を持つ必要があります。
情報を得て考えて共有しなくてはならないことは山のようにあります。しかし、かつてはそうではなかったようです。この仕事を始めた時、ベテランの先輩にさまざまな話を聞きました。
教える内容は個々人の裁量が大きく、評価もおおらかなものだったようです。個人情報という考えも薄く、保護者や外部から学校に求められることもそれほど大きくありませんでした。就職や進学のルールも今と比べれば遥かに単純でした。
もちろんそれら先輩たちの現役時代とは時代は大きく変わりました。しかし、学校という場所や教師を志す人のメンタリティーはそれほど変化していないと思います。
あまり愚痴を言いたくないのですがもう少しだけ書かしてください。私たち教師は「公平性」「個人情報」「評価」「個々に応じた」「キャリア」などというキーワードに対して多大な労力を求められています。そして、特にこの忙しい4月にそれらが一気にのしかかってパニックになるのです。
乖離
私は今焦りながら文章を書いています。1週間に一度、土曜日にブログを更新しようと決めていますが今週はその土曜の朝まで文章を書くことができませんでした。当然イタリア語を勉強したり読書をしたりする時間もありませんでした。
このような忙しいときが続くと私の心のなかにいつもの疑問が湧き上がってきます。
「こんな気持ちでいるために私はこの仕事をしているのだろうか」
教師になる前は授業を行うことが教師の仕事のほとんどだと思っていました。二十年以上教師をしてみて確かにそうあるべきだと思いますが、それ以外の仕事があまりに多いのが現実です。私たちは学校現場で日々起こるあらゆることに責任をもって対応しなければなりません。年々変化する新しい機材やプログラムに慣れて、文部科学省や自治体から降りてくる要求にも対応しなければなりません。
「とにかく授業だけさせてくれ」
忙しくて自分を見失いそうになると私は心のなかでこう叫びます。そしてそれはまさに今の私の心の状態です。さらにその授業に対しても最近思うことが多くなってきました。自分の持つ裁量がだんだんと少なくなっているのです。言い換えると自分の好きなことを自由に教えられなくなっているということです。
ただでさえずっと批判され続け、あれやこれと方針を変えられ続けた英語教育ですが「評価」に重きを置かれるようになってからさらに息苦しさが増してきました。
教育ってそんなに難しいものなのでしょうか。教師が学んで行動する楽しさを機嫌よく生徒の前で披露するだけでそれなりの教育効果があると思うのですが、今現場では反対のことが起こっていると感じます。みんな物事を難しく考えすぎて、その単純な事実を忘れているのだと思います。
今日は愚痴ばかりですみません。また落ち着いてきたらポジティブなことも書いてみようと思います。