委員会に同情してモヤモヤ
神戸新聞を購読しています。
職場で朝日と毎日と産経新聞を読みます。
私の東須磨小学校のいじめ問題に関する知識のほとんどは、新聞によるものです。
そして、新聞を読んでいて私の心は重くなります。また、モヤモヤの始まりです。
9月の発覚以来、2か月以上たちましたが、現場の混乱はまだ続いているようです。神戸市教育委員会は電話対応に手を取られているという話を聞きました。
大変な仕事だと思います。ただでさえ忙しい教育委員会の仕事に加えて、電話対応で聞きたくもない話を、丁寧な対応で聞かなくてはならないとは気の滅入る話です。
教育現場に限らず、何か事件が発覚した時、電話で抗議をする人は何を求めているのでしょうか。現状を改善したいという思いから、あえて愛の鞭を入れようとしているのでしょうか?
私にはそうには思えません。
今回の東須磨小の事件では、加害者3名被害者1名の教師の代わりに、委員会から人員の派遣がありました。また、マスコミや市議会対応で委員会は忙しいに決まっています。
しかし、抗議の電話は鳴りやまないそうです。ただでさえ足りない人員がそこに取られます。ネガティブな言葉を浴びせられる職員の心の状態が悪化することは容易に想像できます。
確かにひどい事件でした。しかしながら、だからといって直接関係ない人々がすぐ、抗議の電話をかける意味が私にはわからない。しかも、抗議の電話をする人は殆どが名を名乗らないそうです。
相手は不祥事を起こした教師を監督する立場。反抗できる立場にはない。そんな相手の時間と労力を奪い、士気を弱める。絶対に文句を言い返されない相手に対して攻撃をする。抗議の電話をする人は、これが自分たちが批判するいじめの構造に似ていることに気がついていないのかなと思います。
本当に今回の事件に腹を立て、同じことを無くしたいと思うのなら、今は委員会の人たちをそっとしておけばいいのに。いいパフォーマンスが発揮できるように応援すればよいのに。改善案があれば、レポートにまとめ送付すればいい。抗議したいのなら文面にすればよいのに。相手の時間を自分のペースで奪う電話は暴力として機能していると思います。もっと相手に寄り添った方法があるのに。
何か起こった時、関係ない人間が文句を喚き散らしても、状況はよくする力にはならない。文句を言いたいのなら、自分がその状況の一部に入り、責任をもつ立場になって、初めて批判が機能してくる。
そんな簡単なことがわからない人が多くいると思うと、今日の私のモヤモヤも収まらないのです。
この事件に関してもう一つ モヤモヤ以上の恐怖
10月28日、市条例改正を提案。市議会で可決。
現行の条例では、年休扱いとなっている加害者教諭の給料を止める方法が無いため、教諭を分限休職処分とし給与の支払いを止めるための条例です。
11月21日付の朝日新聞に市長のインタビューが掲載されていました。そこで、市条例を異例の短期間で制定した理由を「市民の怒りが相当のもので教育委員会の電話がパンク状態だった」と述べています。
私の心はモヤモヤどころか、恐怖で凍り付きそうになっています。
専門家がその分野で筋を通すことより、ほんの一部の人の機嫌を取ることの方が大切なのでしょうか。
教育委員会の人々の、事件に対する迅速な対応を遅らせる抗議の電話です。匿名で言い返せない相手に対する、いじめのメンタリティーを持った人々の電話です。「内容を知らないお前が言うな」といわれそうですが、私ならどんなに腹が立っても、直接関係ない立場にいるのなら抗議の電話なんかしません。
少し想像力を働かせば、自分の行っていることが「自分の憂さを晴らすだけ」で、現状の改善に寄与していないことが分かると思うのですが。
とにかく、そんな人たちの”市民感情”によって、後出しジャンケンがまかり通りました。条例改正前に行われた行為を理由に、不利益処分、つまり遡及処罰が加えられます。
議員や首長など、権力を持つ人が”国民感情”や”市民感情”という言葉を理由に何かを変えようとするとき、私は身構えます。それは、このような感情はどこから切り取ってきても作ることができるものだからです。つまり、国民感情や市民感情は自分の感情なのです。
加害者を擁護する気持ちはありませんが、不確かな”市民感情”によって動かされた、早急すぎる結論であったと思います。捜査が進む中で、新たな事実が判明し、加害教師に同情する”市民感情”が大きくなったら、また同じようなことを繰り返すのでしょうか。不確かなものに流されずに、基本的な筋を通すことができないのでしょうか。
学校は、教育は誰がよくする?
何か不祥事が起こるたび、ものすごい速さで犯人探しが始まります。
教師間でいじめがあった、管理職の校長・教頭は何をしていたのだ、監督者の教育委員会はどういうつもりなのか。
いろいろな方面からの圧力が、早急な原因特定と改善策を生みます。
神戸市は全教職員へのいじめ調査を行ったそうです。そして、これから学校園と委員会の連絡会のようなものが増えると思います。学校も委員会も仕事が増える一方です。
12月に神戸市で支給されるボーナス、前年度に比べ0,05ヵ月分増額ですが、一定以上の階級の委員会職員・校園長は増額しないという条例が可決されました。この東須磨小学校の事件を受けて、数百名の管理職が責任を取らされた形です。
不祥事を防ぐためには、管理職を含めて現場の職員を締め付けていくという発想でしょうか。仕事量を増やされ、僅かとはいえ貰えるはずだったボーナスを削られた人々はどのような気持ちになるのか、想像することは難しくありません。
学校や教師の価値が下がり続けていると思います。地域全体の中心であった学校。自治体や教師だけではなく、保護者や周りの住民で支えられてきた学校が、市民から切り離され、自治体と教師のものとして考えられるようになりました。
保護者はお客さんのような感覚で子供を学校へ送ります。周りの住民は、放送がうるさいとか生徒の登下校の仕方が悪いとか、これもお客さんの感覚で不平を口にします。
誰もがお世話になり、自分の子孫が世話になる可能性のある場所を、自分の責任から切り離し、客の視点で物事を進めようとする、この30年間の間にこの国で起こった大きな変化だと思います。
だから、不祥事があれば「店(=学校)はどうなっとるんや、責任者(=委員会・自治体)呼ばんかい!」となり、必ずそのどちらかに責任があるという地点で思考停止。その外にある社会の大きな変化や、時代の流れ、自分と公共的なものとの関わり方について思いが至ることがありません。
切り離され、責められて、士気の下がった人たちに何ができるのでしょうか?私なら、場当たり的な対応しかしないと思います。大きなエネルギーを使い、周りを巻き込んで、教師が生き生きと働ける現場を作るくらいなら、自分が在任中に第2の東須磨小のような問題さえ起こさなかったらいい、そういう発想になるでしょう。
分かりやすい部分で犯人探しをして、責めて、より仕事を増やす。昨今の教育をめぐる不祥事に対する典型だと思います。今回はこれに、後出しジャンケン=遡及処罰も加わりました。
私は神戸市教育委員会の人々や、学校園の管理職の方々に同情します。いじめを始めとする昨今の教育の問題が、学校かその設置者のどちらかに原因があるという文脈でのみ語られる限り、私は問題はなくならないし、現場の士気は下がり続けるでしょうし、ダイナミックな教育活動はできないと思います。
学校はコミュニティーの中心の一つであり、保護者・地域住民を含め、できるだけ多くの人が関わり、長期的な視野を持って育てていくもの、そうなればいいと思うのですが。