どこでもきっぷ
昨年に続き、今年もJR西日本が素晴らし切符を販売してくれた。「どこでもきっぷ」といい、JR西日本全線と智頭急行線が3日間乗り放題で2万2千円だという。
新大阪から博多まで新幹線で往復すれば、充分に元が取れる値段である。別に元を取るために旅をするわけではないが、値段を気にせずに鉄道に乗れるというのはありがたい。
11月のある週末、私は一人、日帰りで九州へ向かった。目的はいくつかあったが、その中の二つは小倉のよもぎうどんとサウナであった。よもぎうどんは、ちょうど一年ぶり、小倉でのサ活は初めてである。
昼過ぎに小倉駅に降り立ち、西へと歩く。コロナウィルスの感染者数が減っているためか、商店街は多くの人で賑わっている。活気のある小倉の街を感じながら5分ほど歩くと「元祖よもぎうどん京家」に到着する。
NHKの番組「ノーナレ」を見てこの店を知り、著書「ヤクザの幹部やめて、うどん店はじめました」を読み、去年の11月、妻と初めてこの店を訪問した。
すりおろし生姜をたっぷりかけて食べるよもぎ肉うどんは、見た目と異なりあっさりしていて、私は食後すぐに街を歩きながら「もう一杯食べたい」と思うほどであった。
注文をして待っている間、店内に飾られた新聞記事が目に入った。ワシントンポストとガーディアンが店主を取材した記事である。日付を見ると、ガーディアンの方はつい先月の記事である。ヤクザから足を洗い、必死の思いで開いたうどん屋が、今や英米のクオリティーペーパーの取材を受けている。人生とは面白いものだと思う。
前回、ごぼう天しか頼まなかったことを後悔したので、今回は玉ねぎ天も追加。白米も頼みたかったが、この日は売り切れであった。
黒い出汁、茶色の肉の上に、ネギ・すりおろし生姜・唐辛子の3つの明るい色がよく映えて食欲をそそる。私はあっという間にうどんと天ぷらを平らげ、汁を飲みほした。口の中に残る、肉の甘みと生姜の香り、たまらない。次はご飯と一緒に食べてみたい。
サウナ TOTONOI
お腹が満たされたところで、次はサウナへと向かう。
この街でサウナに入るのは初めてである。ネットを見ていると鍛冶屋町にある「TOTONOI」という名前のサウナがよく出てくる。ずいぶんストレートな名前である。開業も最近であるようだ。
駅前、モノレールの東側は小倉の歓楽街。予想以上に規模が大きいが、今は昼間なので人気もまばらである。私は地図を片手に歩き回るが、目当てのサウナが見つからない。
勝手に名古屋のウェルビーや神戸サウナのようなサウナ専用の建物を想像していたが、TOTONOIは飲食ビルの3階にあった。人の思い込みは目を曇らせることを再認識する。
受付でロッカーキーをもらい、説明を受ける。この街での初サウナに胸が高鳴ってくる。この後、広島で友人と会う予定があったので、小倉に滞在できる時間は約2時間半。ガウンに着替え、私は足取り軽く洗い場へと階段を登る。
体を洗い、湯船につかり、サウナパンツをはいてサウナ室へ。隣同士2種類あるサウナ室のうち、セルフローリュのできる小さな方を選ぶ。
休日の昼間であるが、あまり人がいない。目に見える範囲では、洗い場と大きいサウナ室に数人づつ、ここは私だけだ。
体が温まってきたら、柄杓でアロマ水をサウナストーンにゆっくりと注ぐ。ジュジューという音とともに香りが広がり、上半身に熱を感じ、そして新たに汗が噴き出してくる。
このサウナ室にはテレビがない。この規模で、テレビが置かれていないサウナ室は珍しい。サウナストーンの上で水が一瞬で蒸気へと変わる。その音が何ものにも邪魔されず、ダイレクトに伝わってくる。静寂の中で、ありえないのだが、汗の落ちる音、時計の針の回転する音まで聞こ得るような錯覚を覚える。
もし空が澄んでいたら…
サウナ、水風呂、ととのい椅子を繰り返す。汗をかき、汗を流し、冷たい水をのどに流し込む。水分が体の中で循環しているのを感じる。
一人だけの静かなサウナ室から、格子戸の隙間、僅かに見える小倉の街を見ながら思った。
「昭和20年8月9日の午前、ここの上空が澄んでいたら、この街はどうなっていたのだろう」
アメリカ軍の原爆投下目標は広島・小倉・長崎の3都市。8月6日に人類史上初の原爆を広島に投下した後、次は小倉がターゲットになっていた。
8月9日、小倉上空は火災の煙に覆われ、アメリカ軍の爆撃機から爆弾の効果を目視することが難しかった。作戦は変更され、B29は次の目的地へを進路を変更し、そして長崎は11時2分をむかえることになった。
私はこうやって熱波に体をさらしながら汗をかくことを楽しんでいる。サウナには「熱波師」などという仕事もある。本当にありがたい話だ。熱さに耐えられなくなったら、存分に水を浴びて、たらふく水を飲めばよい。
本物の熱波に体を焼かれ、ただれた皮膚で川の水を求めてさまよい歩きながら息絶えていった人々が、いたるところにいた。そんな地獄が本当にあった。
そして、今、私が楽しく汗をかいている、まさにこの街のこの場所にもそんな人がいたかもしれない。そう思うと、この平和な時代に生を受けて、こうやって熱波だのサ活だのと言って遊んでいられることが、涙が出るほどありがたい。
私は、この街のサウナで汗をかけることに感謝した。
生まれて初めての
ガウンに着替えて休憩室へと向かう。扉を開けて目に入ったのは、目を閉じてだらりと幸せそうに眠る若い男性。全く無防備な姿である。そして、彼をそうさせているのは、彼の横たわるハンモックであるとすぐに分かった。
私も彼のようになりたいと思った。実は私は生まれてこの方、ハンモックに横たわった経験がない。
この休憩室には6台のハンモックがある。壁と壁にロープを通すような大掛かりなものではなく、組み立て式のコンパクトなもので、地上20センチぐらいのところに体が浮かぶ感じだ。
壁の本棚から「テルマエロマエ」を手に取り、ハンモックに身を横たえた。柔らかい布の中に、丸まった私の体が優しく包まれる。手で床を押すと、ハンモックが左右に揺れ始める。
昔の時計の振り子になったような気持がする。慣性の法則が効いて、振り子はなかなか止まらない。浮遊感がたまらなく気持ちいい。私は、テルマエロマエを胸に置いたまま、すぐに眠りについた。
眠りから私を覚ましたのは、広島で会うことになっていた友人との約束。「このままあと数時間いたい」と思いつつ、私はマンガを棚へと戻し、更衣室に向かった。
2時間分、1400円の料金を払い、少し従業員さんと話をして私は駅へと向かった。フリータイムでも2500円。あのハンモックには、ここで一日過ごす価値がある。
「よもぎうどんとTOTONORIの組み合わせで、今度は1日ゆっくりと過ごそう」私は満たされた気持ちで新幹線に乗った。
サウナでリラックスしたのか、広島で友と飲み過ぎたのか、この日は久しぶりに新大阪駅で駅員に起こされてしまった。「のぞみに乗っていなくてよかった」と思いながら、私は下り列車に乗り換えた。