最高のサウナマット
兵庫から職場の後輩M君と二人で名古屋までサウナに入りに来ている。休日の午前11時、こうしてウェルビーのメインサウナ室で二人並んで肌をつたう汗と向き合っている。なんて贅沢で幸せなひと時なのだろう。
ここのサ室のサウナマットは、一般的な店のように黄色いものではない。毛足の長い上品な白いサウナマットが、床も含めて部屋全体に敷き詰められている。
従って、部屋に入った第一歩から他のサウナとは感触が違う。とても清潔でで神聖な場所に入った気分になる。
部屋の正面には大きなサウナストーブが鎮座していて、その左右に階段状の椅子が配置されている。右側はテレビを見たい人、または寝転びたい人用のスペース、左側はじっくりと自分と向き合いたい人用のスペース。テレビの音声は指向性のあるスピーカーで流されており、左側の人には聞こえにくくなっている。
ストーブを中心に、その左右でサウナー達が思い思いの時間を過ごしていく。その足元と座面を優しく保護するあの極上のサウナマット。洗濯・乾燥させるのが大変であろうし、それなりに費用も掛かるはずだ。
しかし、そこにプラスアルファの価値をつけることで、サウナーの心を掴んで離さない最高のサ室ができ上る。ウェルビー栄のこの部屋は、今まで入ったどのサウナよりも温かさが柔らかく感じられる。「熱いけど優しい」そんな感じがする。
冬のフィンランドコンビネーション
M君もこのサウナを気に入ってくれたようで「疲れが取れますー」といいながら、整いスペースで寝転がっている。今日は4時ぐらいまでここにいるつもりだ。お互いに思い思いのスタイルでサウナを堪能していく。
森のサウナの最上段が空いていたので二人で並んで座る。すぐ上は天井ですぐ横はサウナストーブである。足元には水の入った木桶と柄杓が用意されている。部屋の中は薄暗く外の音もあまり耳に入ってこない。
柄杓でゆっくりとサウナストーンに水をかけると「ジュジューッ」という音と共に上半身の体感温度が一気に上がる。同時に優しく鼻腔に入ってくるアロマ。汗がどっと噴き出してきて思わず「オーオっ」と声が出る。
暗く視覚が制限された部屋で嗅覚と聴覚が鋭さを増し、皮膚もその感度を上げてていく。フィンランドでサウナが神聖なものとされる理由が少しわかった気がする。私たちは何度もローリュを行い、何度も唸った。汗と共に世俗にまみれた邪悪なものも少しは吐き出せたと思う。
森のサウナ三度目の後、ふと隣の冷凍水風呂(ラップランド)に入ってみようと思った。冬のフィンランドをイメージして作られた文字通り「冷凍庫の中にある水風呂」だ。冬のフィンランドでは、サウナの後、雪上や湖にダイブして体を冷やすというし、私もそういう画像を見たことがある。
この森のサウナと冷凍水風呂の組み合わせは、正に冬のフィンランドのコンビネーションで、日本でこれが体験できるのはここだけであろう。私は十分に体を温め、かけ湯をしてからラップランドへのドアをくぐった。
巨大な冷凍庫の中に裸の男が1人。部屋の壁は凍り付いている。外界ではありえない状況に一瞬自分の危険センサーが反応するが、すぐに気を持ち直して水風呂を目指す。なるべく体から熱を奪われる前に水風呂を体験したい。
サウナの本場、フィンランドの人々が湖畔のサウナで蒸され、そのまま冬の湖に入るイメージで水風呂へ体を入れる。躊躇していてはダメだ。両足で浴槽に立ち、一気に体を沈める。10秒数えることにした。
限りなく0度に近い水風呂。5秒で体に痛みが走りだす。「ここは冬のラップランドではなく、すぐに暖の取れる安全な場所」そのことを頭ではわかっていても、体は恐怖を感じ、寒さ以外の「ゾーッ」という感覚に襲われる。
一瞬パニックに陥りながら水風呂を脱出し、冷凍庫の外へ出る。明らかに動揺している。20数年前の映画「タイタニック」で、ジャックが氷の浮かぶ極寒の海に沈んでいったシーンが何度も脳内にリフレインする。初めての経験にドキドキするが、椅子に横たわっていると体の芯からジーンと暖かような冷たいような、よくわからない波が響いてくる。
その後もう一度ラップランドに挑戦したが、あの恐怖感は全く同じで10秒つかっているのが限界だった。
「サ道」の著者タナカカツキ氏は、冬のフィンランドの湖で大エクスタシーを経験されたと著書に記していた。私にはまだまだ到達できない境地であるが、その日を迎えられるように体と心を鍛えていきたい。
何も考えない
すっかり温まった体を水風呂で冷やす。もう一度浴槽で温まり、そのまま食堂のビールで、今度は体の内側から冷やす。かと思えば名古屋名物「台湾ラーメン」を注文して「熱い熱い」といいながら食する。
人間に感覚があることが不思議に思えてくる。当たり前のことであるが不思議に思える。感覚って何なんだろう。皮膚から脳内への電気信号の流れ?それでは何も説明していない。この圧倒的にリアルな存在はどこにあるのだろう。私がいないところに感覚は存在しているのか。
何も考えないでひたすら感覚の世界に身を置こう、そう思いながらビールを飲むのだが、M君と話をしながらも私は小難し事を頭の中で考えようとする。
今この瞬間を何も考えないで、ただただ味わう。体のほてり、喉を滑るビール、噛みしめるホルモンの甘さ、それらを言語を介さずに感覚だけで味わってみる。そんな境地に達してみたい、そう思いながらも私はこうして言葉で説明しようとする。言葉で自分を納得させようとする。まさに禅問答のような「言語の檻」閉じ込められている。
「少しでも言葉に頼らないでおこう」と休憩室でひたすらマンガを読む。そのうちアルコールが効いてきて「闇金ウシジマ君」を胸にのせたまま眠りへと落ちていく。こちらの方が感覚の世界に近い。
居酒屋「ひのとり」
名古屋遠征の終わりは居酒屋「ひのとり」で閉める。去年の遠征は居酒屋「アーバンライナー」であった。この春、近鉄は社運をかけて名阪特急を新調した。スタイル・設備のどちらも素晴らしく、話題性も十分であった。
しかし、デビューの3月はコロナ第1波の真っ最中であった。その後、現在に至るまで特急のウェイトが高い近鉄は収益的に厳しい局面に立たされている。私たちが乗った18:25分発の「ひのとり」も車内に乗客は数えるほどしかいない。私たちはこんな素晴らしい特急をほぼ独占している。
名駅の高島屋で購入した味噌カツと手羽先をあてに居酒屋「ひのとり」を始める。名古屋発の近鉄特急は今まで何度も乗ったが、居酒屋にならなかったことはない。大抵は1時間半お酒を飲んで、最後の30分間ウトウトして八尾のあたりで目を覚ます。ちょうどいい2時間だ。
1人で乗ることが多い名阪特急だが、今回はM君も一緒でお酒も進む。いつもは窓の外の鉄道関連施設を確認しながらの行程だが、M君は鉄チャンではないためきょろきょろせずに話に集中する。
兵庫から名古屋まで、時間とお金とエネルギーを使ってサウナに行き、酒を飲みながら帰ってくる。「人間の歴史の中でこんなことができるのは最近の何年間だ?」と思わず叫びたくなる。
200年前の桑名の人が、木曽三川に架かる鉄の橋の上を、長い鉄の箱のような乗り物が馬の何倍もの速さで通り抜けることなんか想像できるはずがない。
同じ時代の名張の人が、はるか東に見える山の中を貫く穴を通って僅か数十分で伊勢の国まで移動するなんて思いもよらないだろう。
私たちはそんな時代に生きている。数百キロ離れた場所で体を温めたり冷やしたりして遊び、ビールを飲み、美味しいもので腹を満たしながら軽々と山や河を超えていく。
冷静に考えると、こんな時代に生を受けたことを感謝する以外何もない。モヤモヤは存在しなくてもいい。実際は存在しているが、それは私の外側が原因となってるものではない。すべて私が作り出している幻想のようなものだ。どうしてその幻想を作り出すのか。必要とするからなのか。何かとのバランスをとろうとしているのか。
後輩M君との名古屋遠征を終えながら、私はよい方の次の段階へ到達しそうな予感を感じている。