気持ちの変化
2か月前にイタリア語検定2級を受験し、受験中に合格は難しいと感じました。私は家に帰り一枚の紙の上に「イタリア語検定2級が合格できない。どうする」書き、その下に縦線を一本引きました。
線の左側には「行うこと」、右側には「行わないこと」を箇条書きにしていきます。いろいろと考える中、気が付けば私は左側に「イタリア語教室に通う」と文字を記していました。
自分でも驚きました。なぜなら、このことは今まで私のなかに無かった発想だったからです。
私はイタリア語を始めた時から、とにかく独学で行うことを考えていました。NHKラジオの語学講座や動画は見ますが、とにかく自分で考えた方法でリスニングを行い、文法を学び、テキストを読んでいきました。
以前からブログに書いているように、成果だけ見ると散々なものです。学習を始めてから20年以上たちますが、学習、休止を繰り返し、なかなか力がつきません。
テキストを変えたり、単語帳を変えたりしながら、自分に向かって「お前は努力が足りない。そんなことではダメじゃないか」という言葉を吐きながら今まで続けてきました。
私は認めてもらいたかったのだと思います。
「独学で勉強して2級がとれたの?すごいですねえ!」
こういった言葉で私は称賛を浴びることができるという無根拠な前提のもとに、私は意地になって独学を続けてきたのだと思います。
そんな私の固い頭による思い込みが、私を語学教室へ通わせることを妨げていました。語学を学びたいと思えばお金を払って教えてもらう、そんな至極当たり前のことにも思いが至りませんでした。
お金をかけたくないということは、それだけの価値がないと思っていたことです。私は矛盾しています。好きなら、独学であろうと語学教室であろうと、好きなことを早く吸収できる方法を探す方がいいに決まっています。
今回、受験を終えて、気持ちを紙に書きだす中で、自然と「お金を払ってイタリア語を習おう」という気持ちになりました。
初めての教室
いくつか教室を調べ、中級~上級のあるコースを見つけました。体験授業を受けて、そのまま入会して11月から通うようになりました。あっけないほど簡単に私の生活リズムが変わっていきます。1年前には考えられなかったことが、今の私に起こっています。
教室に通い始めて、数十年ぶりに宿題に追われる気持ちを味わっています。決して悪い気持ちではありません。家に持って帰った仕事を行う気持ちとはまったく違います。
宿題は学習した文法項目の練習問題と、出来事を中心とした自由英作文が宿題になります。
文法項目は、私が通い始めると「遠過去」の授業が始まりました。2級受験者にとって必要な知識ですが、面倒なので私が避けていた項目です。これ以上ないタイミングに驚きました。
自由英作文は、授業の最初に一人ずつ発表します。作文も私が後回しにしてきた部分です。しかし、こうやって宿題になると、自分でも驚くほど長い文章を書くことができます。
イタリア語検定2級の作文問題では、テーマに沿って150語程度のエッセイを書くことが要求されます。長文や語法の勉強は一人でできても、作文はできませんでした。私は誰か添削してくれる人が必要だと思っていました。
今、私は毎週、辞書を引きながらですが、検定問題と同じ程度の分量の作文を一人で書いています。教室の先生は、私が読むのをうなずきながら聴いてくれるだけで、添削してくれるわけではありません。
できないとともっていたことが、環境が少し変わるだけで、それほど苦もなくできたりします。このことを考えると、私は不思議な気持ちになるとともに、私の頭がいかに固くて思考が硬直しているのかを感じさせられます。
新たな世界との遭遇
教室で私は年下の部類に入ります。数回通って感じたことは、他の会員さんが上品で、私が今まで属してきた世界とは少し違う場所にいらっしゃるということです。
例えば、テキストにオペラがでてくると話がかなり盛り上がります。私の知らない名前が次々に出てきますし、皆さんほとんどがイタリアで鑑賞された経験があります。
今はコロナ禍で海外に行くことは難しいですが、普通の状態なら頻繁に海外に行っておられそうな方が集まっておられますし、会話にもそのような話題がよく出てきます。
そんな中、私は自己紹介の時好きな音楽をきかれ、辛うじて「ハードロックなどをよく聴きます」と答えました。ヘヴィーメタルという言葉を出すと例の「ああ、ヘビメタですか」という反応が返ってきそうだったからです。
ハードロックという言葉に一人の方が反応され「私もレッドツェッペリンを聴きました。イタリアの音楽は聴かれるのですか?」。
調子にのった私は「スカイラークとラプソディーをよく聴きます」と答えましたが、当然誰も知っていませんでした。
このように、少々場違い感を味わいながらもこの教室でイタリア語を学び始めたわけですが、オペラを始めとする芸術に触れることは私に新たな化学反応を起こし始めています。今まで意識していなかったイタリア語の力や魅力を感じることができるからです。
確かに、歌の一番土壌となるものはその国で話されている言語であると思います。単語のほぼ100パーセントが母音で終わるイタリア語は、力強く声を伸ばす歌に向いています。オペラが盛んな理由の一つもそこにあるのかもしれません。
先日、教室でイタリア語の歌詞を見ながらヴェルディーの曲の一部を聴きました。素直に「いいなあ、すてきだなあ」と思いました。つい2ヵ月前には予想していなかった自分の姿です。
イタリア語の一次試験に落ちて、考えて、行動をしたことで、今こうやって今までの人生とは異なる景色を見ています。不思議な感じがします。
キーワードが見えてきた
10月最初から今までの2ヶ月を考えてみると、ある一つのことに気が付きます。
それは、私のモヤモヤの感じ方、つまり心の状態が明らかによくなってきているということです。
10月3日の試験の後、私は天満の試験会場から梅田までゆっくりと歩きました。穏やかな秋晴れの天気の中、私は中崎町の商店街を抜けて、そこから先は適当になるべく細い道を選びながら、徐々に梅田の方へと近づいていきました。
そのときの気持ちは不思議なぐらい穏やかで、懐かしい小さな商店や朽ちかけた古いビルに思いを馳せながら歩く余裕がありました。心の根底には「今からイタリア語とどう付き合っていこう」という気持ちが浮かんでいました。
今までの私なら間違えなく自分を責め続けた道のりです。自分が試験までにやってきたことの中途半端さを責めあげて、怒りに任せながらこれからやることを考えます。その内容は「一日最低1時間は文法の勉強をする」といったあまりワクワクしないものでした。
そのような心の状態で考えたプランは上手くいくはずがありません。思い通りにならないと、また自分を責めます。結局、全ては自分の中で起きていたことなのです。上手くいかないと思うのも、それをダメだと責めるのも、全部自分なのです。
私には今はっきりと「自尊心」というキーワードが見えます。モヤモヤが私から去り、幸福にあふれた人生を送るための言葉です。
自分を責め続けるのではなく、労わってあげればいいのだと思います。どうやって?
それは自分の心と関係しています。心の状態によって、無数にある自分に関係する現象のどこを切り取るか、つまり現実の見え方が変わってきます。
凝り固まった私の心をほぐすことができれば、現実の見え方も変わってきます。そして、その心をほぐすことができるのは、自分が自分にかける言葉であると思います。
自分に対する言葉使い、ここにもっと意識を向ければ、自尊心が高まり、私の幸福に対するアンテナの感度は増すと感じています。
自尊心と幸福度の関係、専門家に言わせれば「何を今さらそんな当たり前なことを」となるかもしれません。しかし、私はブログを書き始めてから2年以上かけて、自分の頭で考えながら、ここまで来ることができました。少なくとも、その仕組みを単に知るよりは、実感を伴う血肉となっている部分も多いと思います。
私の思い込み、心の固さが少しほぐれてきているように思います。自尊心と言葉の関係、このことを、これからも意識しながら行動を続けます。