長崎の友人
私には、長崎にもう30年以上付き合いのある友人UJがいます。大学時代のノリが抜けきれない彼は、深夜何時であろうとお構いなしに私に電話をかけてきます。私の方はというと、もう十分大人になっているのでそのような電話は無視します。
先日も真夜中過ぎに着信がありました。お酒を飲んで熟睡していた私は電話に気付きませんし、気づいたとしても無視をします。その夜は結局電話に出ないまま朝を迎えると、UJからラインにメッセージが入っていました。
「君の恋人が亡くなった」
私は、それが誰のことなのかすぐにわかりました。その恋人にはもう15年間も会っていませんでした。そして、彼からのメッセージは、私が彼女に再びこの世で会えないことを知らせてくれました。
UJとは大学に入学した年の4月5日に知り合いました。学部は異なっていましたが、見学に行ったサークルが一緒だったのです。部室を見に行ってUJに会い、そのまま一緒に学食でご飯を食べました。
話をするうちに、彼の下宿が私の下宿の真後ろにあることを知りました。そういうわけで、私はUJと出会った数時間後に彼のアパートにいました。
服装や趣味を始めとして、私とUJはさまざまな面で異なっていました。唯一共通していたことは、お互いに下品な話が好きなことでした。だから私と彼の会話の9割は下ネタでしたし、それは30年経った今でも変わっていません。
しかし、下ネタだけでは友情は深まりません。私とUJをつないでいたのは、全ての会話から下ネタを取り払った残りの10%でした。散々どうでもいい話をした後、ふと人生について語り合う瞬間があります。そのかけがえのない時間があるため、私は今日までこの友人と付き合ってきました。
大学生の頃、私は毎年のようにUJと長崎に帰省しました。1年に3度行った年もありました。時には二人だけで、また時には私の友人や共通の友人を連れて彼の実家を訪問しました。長崎の彼の実家は、そんな私たちを気前よく受け入れてくれました。
長崎では彼の高校時代の友人たちと知り合いになりました。それだけではありません。UJの家族をはじめ、親戚たちとも一緒にご飯を食べました。
それは私の方でも一緒でした。UJは私の両親をはじめ、叔父や叔母たちとも知り合い、特に私の母方の叔母夫婦の家には私がいなくてもよくご飯を食べに行くほどでした。
UJは私の友達の中で、最も私の親戚と付き合った人でした。私もUJのそれほど、友だちの親戚と知り合った人はいませんでした。
私の恋人
UJといろいろ行動を共にする中で、母方の伯母であるTおばさんに出会いました。ちなみにUJの母親は私が「長崎の母」と呼んでいた人で、「産めよ増やせよ」の時代に生を受けた彼女には数多くの兄弟姉妹がいました。
私は日本各地でUJに母方のおじやおばを紹介してもらいました。Tおばさんはそんな中の1人でした。
私のドイツ人の友人舞君が日本を訪問したとき、ドイツに興味があったUJと3人で旅をすることになりました。UJはその時、東京にいるTおばさんを紹介してくれました。
理由の一つにTおばさんがドイツ語を勉強していたこともありますが、UJが言うには「Tおばさんはお前が絶対好きなタイプだ」という別の理由もあったようです。
少しややこしくなりますが、私たちはUJの別の伯父が東京に所有する家に滞在しました。伯父の家族は海外勤務中で大きな家が空いていたのです。その家にTおばさんは食事などの世話をするために来てくださいました。
5日ほどの滞在でしたが、私も舞君も多大なもてなしを受けて、とても印象に残る東京滞在になりました。何より素晴らしかったのは。Tおばさんのホスピタリティーでした。
彼女は、奇麗に整った家で、毎回おいしい料理を作ってくれました。それを一緒に食べながら、楽しい話で盛り上がりました。明るくて、好奇心が旺盛で、何より優しいTおばさんを私はすぐに好きになりました。
「私、もう年金をもらっているのよー」とおどけて言う彼女は、その年齢の割にとても若々しく見えました。実際に50歳を超えてからドイツ語を学んだり、ボランティアで人のために動く彼女は若かったのです。若さとは過ぎ去った年の問題ではないことを感じさせてくれる人でした。
私は素敵な伯母を紹介してくれ、こんなにも楽しい東京滞在を経験させてくれたUJに感謝しました。私たちが大学を卒業する前、もう30年近くも昔の出来事です。
姿を胸に
Tおばさんと出会って以来、私は彼女を「理想の女性」と呼ぶようになりました。学生時代から現在の妻まで、私も恋をしましたが、それらの女性にその姿を求めたわけではありません。
私にとってTおばさんの姿は「イデア」のようなものであり、現実の世界に持ち込むものではありません。「ああいう太陽のような素敵な女性がいて、その人と知り合いになれたのだ」と時々思い出すだけでよい存在でした。
UJ、舞君と3人での東京滞在後、私は何度かTおばさんに会いました。一人で訪問したこともありました。あの明るさ、優しさ、共感力、前向きさ、会うたびに遥かに年上の人から元気をいただきました。
東京の大学に短期留学した舞君もTおばさんと会っていたようで、「舞君とデートしちゃったー」と相変わらずの明るい声で連絡がありました。
そんなおばさんとは、仕事を始めてから少し疎遠になりました。20年前にUJの結婚式で長崎で会い、その後2007年だったと思いますが、私が東京に出張した折、東京駅で1時間ほどお茶をしたのが最後でした。
年賀状は毎年交換していましたが、5年ほど前、おばさんの旦那さんが亡くなって以来やめていました。それまでは、毎回手書きで素敵なメッセージを書いてくれていました。
UJからはTPOを選ばずによく電話がかかってきます。大抵は私がお酒を飲んで眠りかけているときです。電話に出ないことも多々ありますが、出て話をするとよくTおばさんの話題になります。
少し前も「耳は少し遠くなったけど、元気で、相変わらず医者に行っていない」という話をUJから聞きました。私もそんな話をしたことがありますが、おばさんは出産のとき以来医者にかかったことがないのです。
そんなTおばさんの、UJ曰く「私の恋人」の訃報でした。
不思議と悲しさはあまりありません。米寿を超えるまで長生きしたということもあります。しかしそれ以上に、普段からUJを通じて、おばさんが「自分はもう十分に素晴らしい人生を送ることができた。すべてに感謝している。天国の父母と再会したい」と言っていることを伝え聞いていたからです。
実際に彼女の素晴らしいキャラクターは、敬虔なクリスチャンであることが基礎となって形作られたのかもしれません。心にいつも余裕がありました。そして人に対して寛容でした。
私が知るのは、彼女のほんの一部です。しかし、その中からも充分に愛に満ちた温かさが周りの人に伝わってきます。神の世界があるというあつい信仰が、彼女を女神のような存在にさせたのだと思います。
「私の恋人」は地上からは消えてしまいました。私は、素晴らしい女性と知り合えたことを感謝しつつ、彼女の天上での幸福を祈りたいと思います。ありがとうございました。